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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

私は「法話」をしている!

2014年12月30日 | 日記
「君、この前どこかの講演で、また『仏教の話をしなくていいんですか?』って訊かれたらしいな」

「そうなんだ。ある大学の講座でしゃべったら、そこの学長と理事長から『大変結構でしたが、仏教の話はしなくてよろしいんですか』だとさ。前にも一度言われたことがあるけど、まさかもう一回言われることになるとは思わなかった」

「ところが、君はいつも最初から最後まで、仏教の話をしているつもりでしゃべっている」

「当たり前だろ! 他のどこに話の出どころがあると思っているんだ」

「大体、話に仏教用語が少なすぎるから、そう言われるんだろう」

「あのね、ぼくは、仏教用語を振り回しながら、つまらないどころか、何を言っているのかまるでわからない坊さんの説教を、今まで何度も聞きされたぜ。言葉の量の問題じゃない」

「確かにそうかもしれない。君の話を注意深く聞くと、やはり仏教の理屈が響いている感じはする。でも、話と理屈のつながりがはっきり見えないんだな」

「それはそうかもなあ。以前、ある先輩から『君の話は、ホップ・ステップ・ジャンプじゃなくて、いきなりジャンプ・一回転・またジャンプ、みたいなところがあるなあ』と言われた」

「それ、君がよく使う『問い』とか『実存』という言葉と関係あるんじゃないの?」

「うーん。僕はさ、ある言葉と出会うとさ、いつも自分のどこに刺さるのかを考えるんだ。つまり、ある言葉が自分の生きていることや存在の仕方について何を語り得るのか、それを考える」

「それはつまり、たとえば『縁起』という言葉なら、自分の在り方に引き付けて考えるとどういう意味なのか、ということか?」

「まずそんなところだ。だから、『縁起』の話を『生きていれば人間、みんなお互い様ということです』などというような、能天気な処世訓にはできない」

「で、『自己は他者から課せられる』みたいな話になる」

「で、そんなふうに自己流に『翻訳』しちゃうと、そこから別の発想が出てきて、さらに昔乱読した思想書か何かのアイデアを突然思い出したりして、話は膨らむは、それるは」

「聞いてるほうが『仏教』に聞こえないのは当然かもな」

「でもさあ、ぼくは仏教のアイデアが腑に落ちるように、身に沁みるように、リアルになるようにと思ってさあ・・・」

「しかしね、君の場合、その腑に落ちる、身に染みるがね、まずは自分の腑と身ばかりになってるから、ダメなんだよ」

「ダメはひどいなあ」

「じゃ、不親切」

「ああっ! 一言もない」

「いやに素直じゃないか」

「そう、ぼく、自分自身に対して説明がついた気分になると、風船がしぼむみたいに他人に対して説明する気持ちが萎えることがある」

「わがままもの」

「ああっ! でもさあ、子供のころからずっと自分を持て余しながら一人で考えてきて、こうなっちゃったんだよ。ちょっとだけ大目に見て下さい」

 今年も当ブログにおつきあい下さり、ありがとうございました。皆様の新年のご多幸を祈念申し上げます。 
                                                                 合掌

宿命の対決?

2014年12月20日 | 日記
 いまアフリカや中東などで、いわゆる「イスラム過激派」と称される組織が、ほとんど蛮行としか言いようのない極端な暴力を動員し、さらにその影響を受けたと思われるような「テロ」的事件が各国で起こるようになってきました。このような到底容認しがたい暴力行為の報道に接するたび、私は個々の事件に憤りを覚えつつも、そのような事象を惹起する構造があるように思えてならないのです。それは「グローバリズム」の問題です。

 イスラム教圏はアフリカから東南アジアに広がります。そこでは、それぞれの国家や民族や文化を超えて、唯一神アラーが信仰され、その神が定めたという律法(シャリーア)が、人々の社会経済生活をそれなりに規定しています。つまりこれは、いわば「神によるグローバリズム」が実現している、ということでしょう。

 その一方で、拡大し続けなくては機能しない資本の運動を原理とする欧米発の「グローバリズム」が、世界を覆い尽くそうとします。この二つのグローバリズムは、互いに自己規制しつつ折り合いをつけない限り、後戻りのできない対立関係に陥るほかないでしょう。

 イスラム教において最も忌むべきものは「偶像崇拝」だと言います。それはつまり、神ではないものを神として扱うような行為を意味します。言い換えれば、価値のないものを価値あるもののように扱うことです。とすれば、資本の最も重要な現実態である貨幣は、偶像以外の何物でもありません。ただの紙切れを食料と交換するなど、「信用」と呼ばれる貨幣信仰がない限り不可能です。つまり、これは一種の信仰形態なのです。

 経済という「現実」が「資本信仰」と言う宗教を支えにしていることと対称的に、イスラム教は神への信仰がシャリーアという「現実」になっています。ということは、強固な「信仰」を核とした巨大な二つの「現実」的運動が、いま世界で真っ向から対峙しているわけです。深刻な矛盾が噴出するのは当然でしょう。

 もちろん、イスラム教は人間の行う経済活動を否定しているわけではありません。ムハンマドはそもそも交易商人でした。問題は資本の運動が人間の実存全体を浸食するようになることです(「金がないのは首がないのと同じ」的状況)。

 資本は拡大運動の過程で必然的に「豊かな少数」と「貧しい多数」の分離を引き起こしますから、これが国家の規制を離れて「グローバル化」するなら、今までのように「豊かな先進国」と「貧しい途上国」という分断ではなく、あらゆる国が横断的に「豊かな階層」と「貧しい階層」に分断されるでしょう。

 であるにもかかわらず、国家としての一体性を確保しようとすれば、この分断をナショナリズムで締め上げるしかなくなります。ということは、「神」と「資本」というそれぞれのグローバリズムの内部に、ナショナルな分裂を抱え込むことになりますから、事態はいっそう不安定になるはずです。

 とりわけ、「資本のグローバリズム」が進行する社会で立場を十分に確保でない人々は、まずは近いところで国内のナショナリズムにコミットしてアイデンティティーを確保しようとするかもしれません。だとしたら、中には、国を飛び越えて「神のグローバリズム」に転身する人も出てきて不思議はありません。

 先般、ある若者が大変面白い話をしていました。彼曰く、

「いままで世間でうまくいかない人ってのは、オタクみたいなところを居場所にしてたんですよ。ところが、このオタク関係が以外に儲かることに気づいて、急に企業が入ってきて商売になっちゃって、本来のオタクの居場所じゃなくなりつつあるんですよね。で、そこに集まっていた連中の少なくない数と、昔ならオタクに来ていたような奴らが、いま『ネットウヨク』に流れ込んでいるような気がしますね。そして、そんな連中の中には、『イスラム国』に共感する者が結構いるんじゃないですかね」

 このような事態の進展は、致命的な破局を招きかねません。それを回避するには、「神」と「資本」が折り合うしかありません。本来極めて寛容な教えだというイスラム教の側は、「資本」のイデオロギーである「人権」などを独自に取り込んで消化したほうがよいでしょうし、拡大以外に目的を持たない「資本」は、「神」が教示する規律を参考に、自制の装置を内部に組み込むべきでしょう。

 ところで、仏教は「資本」に対してどういう態度をとるのか。

 ブッダが多くの支持を受けたのは、当時の商人からでした。したがって、イスラム教同様、経済活動を自体を否定するわけがありません。ここでも、経済が実存を侵すことが問題なのです。

 イスラムが「偶像崇拝」の否定において「資本」を牽制するように、仏教は「私的所有は虚構に過ぎない」と主張し、その無根拠性を批判します。ですから、初期仏教の段階では、僧侶は一切生産活動に携わらず、貨幣に触れることは禁じられていました。

 イスラム教と異なるのは、仏教は基本が「出家」制度よるので、社会的「現実」全体が「仏教化」しない点です。つまり、イスラム教がもたらすような、「仏のグローバリズム」は運動として現実化しません。それぞれの社会にそれぞれの仏教として現実化するだけです。

 ということは、グローバリズムに巻き込まれつつある社会にも一定の親和性があるわけです。それと決定的に対立しないまま、「私的所有の無根拠性」を主張して、内部から資本の運動を強く牽制することもできるわけです。

 私はいま、大げさに言えばこの時代の世界史的局面において、仏教のありうべき振る舞いを考えたいと思っています。

イヤなじいさん

2014年12月10日 | 日記
朝:

「人間、いくつになっても可能性はありますよね」

「最初から大した可能性はないからな」

昼:

「年をとるって、どんな感じですか?」

「じゃ、聞くけどよ、若いってどんな感じですか? バカか、お前は」

午後:

「若い人に愚痴言っちゃダメですよ」

「あったりめえだろ。オレの言ってんのは悪口」

夜:

「ポックリ死にてえなあ」

「でも、ポックリ呆けたくねえなあ。なぜだ?」

深夜:

「今度生まれ変わったら・・・」

「えっ、また生まれてきたいのか???」