今年の恐山例大祭も24日に無事終了しました。その中日、22日には、宇曾利山湖畔の極楽浜で、新しく造立した地蔵菩薩像の開眼法要が行われました。これは恐山山主の発願による、東日本大震災犠牲者追悼のためのものです。
すでにご承知の方も多いかもしれませんが、この度の震災被災地は、ほぼそのまま、歴史的に恐山に篤い信仰を寄せていただいている方々がお住まいの地域です。
昨年は、ともかく参拝の方にどこかで犠牲者を慰霊していただきたいものと、山門前に卒塔婆を建立しましたが、いかんせん、これは木材です。山主は震災直後から、末永く震災を記憶にとどめ、犠牲者を追悼するための地蔵菩薩像を安置する気持ちを固めておりました。
実際、昨年後半から、被災地からのお参りは目立って増え、今年は開山まもなく団体のご参拝があり、以後、個人団体をとわず、多くの方々がお身内のご供養に来られます。
出来上がったお地蔵さまは、高さは3メートルほど、蓮華の花の中に坐しています。その両側には、「鎮魂の鐘」「希望の鐘」と名付けられた、実に美しい音色の鐘が一対、もうけられています。焼香の代わりに、お参りの方に鳴らしていただければ幸いです。
お地蔵さまの背面は、非常に珍しい意匠で、大小数十の手形が彫り込んであります。これは実際に老若男女数十人から手形を取らせていただいて作ったもので、皆様参拝の折りには、それぞれに大切な方のことを偲んで、お地蔵さまに手を触れていただけたら有り難いものと、山主は申しております。おそらく、どこかには、参拝の方の手の大きさに合う手形があるのではないでしょうか。
当日非常に驚いたのは、被災地から二つの団体が開眼法要にご参拝になり、生花のご供養をいただいたことす。このお地蔵さまと開眼法要については、ほとんどまったく事前の告知を行っていなかったにもかかわらず、多くのご参列いただいたことは、驚くとともに大変幸甚に存じました。
仄聞するに、大祭前に被災地からお参りなさった方が、湖畔の地蔵像に気づき、お帰りになって現地の方々にお話しなさったようです。
法要には、関係者のほか、この日参拝の大勢の皆様にご参列とご焼香を賜りました。また、式後は、それぞれに鐘を鳴らし、お地蔵さまに触れていただきました。院代といたしましては、大変ありがたく、嬉しく存じております。
ここにあらためまして、震災犠牲者諸精霊のご冥福と被災地の早期復興、さらにご遺族・被災者の方々に平安の日々戻らんことを切に祈念申し上げ、当日ご参拝各位への御礼とさせていただきます。
それは、小学2年生で水死した同級生の女の子が発端でしたが、明くる日、死の知らせを聞かされていた時に、私の心からふっと消え50を過ぎるまで一切忘れていたのに、私の人格形成の礎になっているばかりでなく、今後の人生展開における強烈な自信さえ与えてくれることです。
直哉さんを通じて、道元さんのいう仏道をならふを知りましたが、自己を忘れることが万法に証せらるる也とは、よくぞ言ったものだと改めて思されましたが、誰かの死を思うのであれば、その思いを胸にしかと生きることでしょうね。 聞きようで少々、酷ですが・・・ね。
地蔵菩薩像が安置され、新たな祈りの場が創られたことで、大切な方を失った方々の心が少しでも癒され、未来へと向かっていけることをお祈りいたします。
直哉さんのような強烈さはないと思いますが・・・。
カズサさん。 すみません。
お別れではなくて共に生きることだと思います。
身体が存在していないからこそ、魂(精神)が一体となって、大切な方であれば・・・ 共に生きられるんだと実感しております。
私だけでは、とてもじゃないけれど、共に生きられるからこそ、道元さんが言われるとんでもない言葉のように、生きてみようじゃないかと私は思えます。
それこそが、直哉さんの言われる「自己という事態」をより強力に展開させることだと考えております。
余計なことをごめんなさいね。
>仏は何処に居る?・・・お前さんの心に居るんだよ。
では、>お前さんの心 とは? 何処に在る。
そして、それは何?
さらに加えて、直哉さんの言われる「自己という事態」を如何に考えられているのでしょうか?
そんな言葉で解決するんなら、お坊さんにとっての修行や私どもの自己研鑽など無用じゃないでしょうかね?
カズサさんのように、真摯に悩み悲しみ苦しんでおられる方々がたくさんいて、その方々を何らかの言葉で救えるなんてことはないんだよ。
もっと言えば、真摯だから悩み悲しみ苦しむんだよ。 欲望に塗れて突き進めば、悩み悲しみ苦しむこともなくまっしぐらに生きられるんだよ。
さらに言えば、我を忘れるとは、万法に証せらるる也と道元さんが言われているんだよ。
手形に「念じよう」で縋れる形が表出されていると思いますが、泣きながら縋り、やがて涙も乾き仏の心の片鱗を授かることもできようというものじゃないでしょうかね。
くだらぬことですが、お地蔵様に刻まれた手形に手を合わせ型に嵌めることの意味が分かりますか?
もう止めます。 そのような横槍は一切無用ですよ。
想像をはるかに越える穏やかさ静けさに胸をうたれるようでした。その穏やかなやすらぎの中で、この地が人の想いをまるごと受け入れる器のような場所ということを深く実感致しました。
樹々や湖をわたる風に包まれるように山内を歩くと、別れというよりもどれほど大切であるかということの証が所々に目に映ります。そのような想いを両手を広げるように迎え入れてくれる場なのだと地蔵尊から空を見上げ感じました。
山内の皆様も大変ご親切であたたかく、また温泉の素晴らしさにいささか入り過ぎてしまう程でした。またいつか御参りさせて頂きたいと思います。
お山は気温差が大きくあるかと存じますが、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。