恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

何があるかわからない

2010年11月30日 | インポート

 ある住職と檀家の会話。

「私はねえ、世の中、何があるかわからない、そう思って生きてきました。だから、その日一日、目の前のそのこと一つを、一生懸命やってきました。それだけです」

 この住職は、近所の人が「あばら家」と称していた荒れ寺を、托鉢をしながら立て直した人です。

 住職のこの言葉を聞いて、檀家の銀行支店長いわく、

「なるほどねえ。それが仏教の世界なのかもしれませんね。我々シャバのサラリーマンは、逆ですよ。『何があるかわからない』なんてことが、ビジネスの世界にあってはいけないのです。見積もりだ、手形の決済だ、計画や企画だと、あらゆる予定があらかじめ立てられていて、それに間違いなく合わせていくのが当たり前なのです」

 では、この住職は、何の思慮も無く、場当たりで生きてきたのでしょうか。決してそうではないでしょう。「何があるかわからない」諸行無常の世界で、発心し、「志」を立てつつ、「目の前のそのこと一つ」に取り組み続けたのでしょう。

 彼が住職になりたての時、総代さんがこう言ったそうです。

「いいんですか? ここで。それにしても、よくこの寺に入る気になりましたね」

 住職は言ったそうです。

「あなはそう言うが、この先何があるかわからない。5年先、10年先、どうなっているかは、私とあなた次第でしょう」

 この話を聞いて、私が思い出したもう一つの話。

 新しい弟子を得度した師匠いわく、

「この先が大変だぞ。お前、本当に大丈夫なのか?」

 弟子、即答。

「はい、石に噛り付いてもがんばります!」

「そうか。だったら、いま、そこの庭石を食って来い」

「・・・・・」

「噛り付く石があれば、まだよい。それさえなかったら、どうするんだ?」

追記:次回「仏教・私流」は、12月はお休み、1月28日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


閉山の秋

2010年11月20日 | インポート

Photo  ずいぶんと時間がたってしまいましたが、写真は10月31日、今年の恐山閉山日の様子です。龍天善神をお祀りする場所から、境内の様子を撮りました。上から、山門と地蔵殿が写る参道、その次が、境内右手にひろがる宇曽利湖と外輪山、三枚目は、宿坊右手の景色です。おそらく、今年の紅葉のピークの頃合だったでしょう。

 今年も無事、この日を迎えることができたのですが、実は前日、大騒動になりかけた事件がありました。午前中、宇曾利湖の向こうにひろがる原生林に山菜採りに入った高齢者の男性が、一時行方不明になったのです。

 80歳近い友達同士の男性二人で午前9時ごろ恐山に着き、じゃあ12時にここで落ち合おうと約束して、駐車場で別れたのだそうです。ところが、そのうち一人が午後2時を過ぎても帰ってこない。

 この時期、恐山は午後4時を過ぎると急速に暗くなり、4時半を回れば、若い人でも足元が危Photo_2 なくなります。明るくたって、道に迷えばそれっきり、の原生林なのです。まして、今年は全国的に熊の出没が数多く報告され、恐山周辺でも目撃情報がありました。襲われでもしたら大変です。

 恐山従業員があちこち捜しても見つからないまま午後3時、院代の頭には「恐山で山菜採りの男性不明」というニューステロップが浮かび、マスコミにマイクを突きつけられている自分の図さえ想像してしまいました。ついに、ご家族に地元警察への捜索願をだしてもらうよう説得し、30分後には複数の警官が到着。

 これ以上待っても出てこないなら、本格的な捜索を開始しようと皆で覚悟を決めた、その矢先の午後4時ごろ、ご当人が「ちいっと時間がかかったな」という風情で、ゆうゆうと登場なさいました。

「いやあ、わし、足が悪いでの、休み休み来ただよ」

Photo_3  腹を立てる者など、誰もいませんでした。満場一致、「よかった!」だけ。

 ただ、後日、この人物が山菜採り行方不明3度目の「常習者」だと判明し、某恐山スタッフいわく、

「あのじいさん、山菜少しくらい置いていってもよかったよなあ」


ありのままの不自然

2010年11月10日 | インポート

「ありのままでよいのです」とか「ありのままの私を見てほしい」という言い方を、時々耳にすることがあります。そのたび、私はいつも、わかったような、わからないような、妙な気持ちになってしまいます。いったい、「ありのまま」とは何か、どういう状態なのか?

 少なくともそれは、やりたい放題のわがまま勝手、無遠慮・野放図の行いを言うわけではないでしょう。「よい」と言うぐらいですから。

 このとき、「よい」だの「見て」だのと言う以上、言う方は「ありのまま」がどういうことを意味しているのかわかっているはずです。

 しかし、わかると言うなら、それは「ありのままでない」状態との区別ができる、という意味でしょうから、もはやそれは概念です。だとすれば、「ありのまま」とは「特定の概念に規定された状態のまま」ということになるでしょうから、これはどう見ても、「ありのまま」という言葉で人が言いたい意味とは違うはずです。

 とすると、「ありのまま」とは、特定の条件の下で可能になった、特定のパターンの存在様式で、当事者がその状態をもっともリラックスできると感じられる時、それを「よい」と言えるのでしょう。

 ということは、「ありのまま」は、かなり「ありのまま」ではない努力の結果、可能になるということになります。

 同じような意味不明瞭な言葉に、「自然体」というものがあります。これは何か?

 これまた、いくら「自然」と言おうが、まさか欲望や本能のままの振る舞いを言っているわけではないでしょう。

 この言葉が使われる場面を見ていると、ある人物の佇まいや身の処し方が、どこでもいつでも、力み無く適切で落ち着いている状態を意味しているように思います。

 だとすると、これには非常に高度な身体技法の習得が必要でしょう。たとえば、武道や芸能、あるいは宗教的作法など、特定の枠組みにおける身体技術を極めて高い完成度で身体化した者だけが、これを土台として、他の場面局面の行動の仕方にも自在に応用でき、それが結果的に、見ている者に「落ち着き」や「余裕」を感じさせるのでしょう。

 ならば結局、「ありのまま」も「自然体」も、「ありのまままに自然に」、そうなれるわけではない、ということですから、この言葉を使ってあまり安直なことを他人に言わない方が無難だと、言わざるを得ません。