ある住職と檀家の会話。
「私はねえ、世の中、何があるかわからない、そう思って生きてきました。だから、その日一日、目の前のそのこと一つを、一生懸命やってきました。それだけです」
この住職は、近所の人が「あばら家」と称していた荒れ寺を、托鉢をしながら立て直した人です。
住職のこの言葉を聞いて、檀家の銀行支店長いわく、
「なるほどねえ。それが仏教の世界なのかもしれませんね。我々シャバのサラリーマンは、逆ですよ。『何があるかわからない』なんてことが、ビジネスの世界にあってはいけないのです。見積もりだ、手形の決済だ、計画や企画だと、あらゆる予定があらかじめ立てられていて、それに間違いなく合わせていくのが当たり前なのです」
では、この住職は、何の思慮も無く、場当たりで生きてきたのでしょうか。決してそうではないでしょう。「何があるかわからない」諸行無常の世界で、発心し、「志」を立てつつ、「目の前のそのこと一つ」に取り組み続けたのでしょう。
彼が住職になりたての時、総代さんがこう言ったそうです。
「いいんですか? ここで。それにしても、よくこの寺に入る気になりましたね」
住職は言ったそうです。
「あなはそう言うが、この先何があるかわからない。5年先、10年先、どうなっているかは、私とあなた次第でしょう」
この話を聞いて、私が思い出したもう一つの話。
新しい弟子を得度した師匠いわく、
「この先が大変だぞ。お前、本当に大丈夫なのか?」
弟子、即答。
「はい、石に噛り付いてもがんばります!」
「そうか。だったら、いま、そこの庭石を食って来い」
「・・・・・」
「噛り付く石があれば、まだよい。それさえなかったら、どうするんだ?」
追記:次回「仏教・私流」は、12月はお休み、1月28日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。