恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

発言責任

2016年10月30日 | 日記
 時々講演だの講義だのをしていますが、それらはお坊さん限定のものもあれば、一般向け(もちろんお坊さんも含む)のものもあります。

 そんとなき、話の流れで、日本の伝統的な仏教教団(檀家制度を基盤とする宗派)のゆくえ、みたいな話になるときがあります。

 そういうとき、よく話していたのは、これからの僧侶は、ゴータマ・ブッダと自分、自派の宗祖と自分、ブッダと宗祖、それぞれの関係を根底から考え直して自分の考え方を確定し、その上で教え(考え方と修行法)を語らないと「自分の言葉」を持つことは出来ず、聴衆をインスパイアできない、ということでした。

 つまり、今後の伝統教団の「布教」の成否は、僧侶それぞれが、自分に本当にブッダの教えが必要なのか、宗祖の教えのどこに共感と確信を持つのか、ブッダと宗祖の教えの核心をどう把握しているのかを、クリアに語るだけの修練にかかっているということです。

 そうして話の終わりに、「僧侶になったから住職になることもあるのであって、住職になるために僧侶になってはならない」などと、言い放っていました。

 するとある日、本来は想定していなければならなかったのに、実際には想定外のことが起こりました。私とは違う宗派の若い僧侶(住職後継者)が、講演を聞いて私の弟子になりたいと言ってきたのです。

 いわく、

「私は寺の生まれです。いま、住職である父を補佐していますが、特に強制されてそうなったのではありません。寺を継ぐように言われたこともありません。寺の息子でよいことばかりあったわけではありませんが、私は育った寺の生活が好きだったし、檀家さんにも大切にされ、ありがたかったです。

 ただ一つ、大きくなるにつれて、少しづつ萌していった不安と疑問は、父の話や書物で次第に理解できるようになった宗祖の教えに、どうしても違和感が残る、心から納得できないことでした。

 最初のころは疑問と言っても曖昧でしたから、自分の意志で父を師匠に入門し、宗門の大学に入りました。ところが、専門的に学ぶようになればなるほど、自分の思いと宗派の教えが食い違うように感じるのです。

 その頃は父も私を後継者と定め、檀家さんも大いに期待してくれていました。自分で言うのも何ですが、私は理解力はあるほうです。とりあえず疑惑は封印して、周囲の期待を背に懸命に勉強し、寺の法要や行事にも自分から進んで出ました。

 数年後卒業し、本格的に寺で活動を始めてからは、膨らむ疑惑に無理やりプレッシャーをかけながら、考えた末の理屈で気持ちに折り合いをつけて、説教もするようになりました。

 説教の評判はよかったのです。ですが、よければよいほど、私はつらくなっていきました。檀家さんには、それは熱心な信者が何人もいて、私より深く宗祖を敬愛しているのです。そういう人に対して、私は確かな信心がないまま、説教して「感心」されている。これでは自分も他人も欺いているようなものでしょう。

 ちょうどそのころ、私は、たまたま読み始めた『正法眼蔵』や道元禅師の教えに、強く強く魅かれるようになったのです。こっそり坐禅も始めました。あなたの東京の講義にも、いろいろな理由をつけて通いました。まるで『隠れキリシタン』みたいでした。

 そんな日々が続くうち、私は段々追い詰められたような気持になってきました。そしてもはや気持ちの折り合いをつけがたく、どうしたものかと思っていた矢先、あなたの今後の僧侶の在り方につての講演を聞いたのです。

 そのとき、私は自分の底が割れたような気がしました。その通りだ、このままではいけない。考え直すべきだと」

 この若者の話を聞いて、私は容易ならざることになったと思いました。

「君、家族はいるのですか?」

「はい、妻と息子が」

 ということは、もし彼が「考え直して」私の下で出家すれば、父母を見捨て、檀家さんの信頼を裏切り、妻子を危機にさらす、文字通りの「出家」になりかねません。彼は私の気配を察して、すぐに言葉を継ぎました。

「ご懸念はわかります。リスクの高さは承知の上です。そこで、お願いがあります」

 彼は真直ぐに私をみつめ、落ち着いた声でゆっくり言いました。

「私はこれからもう一度、自分が信頼するある老僧の下で、初心にかえって宗祖の教えを一から学び直します。それが何年かかるか、今はわかりません。でも、学んだ末、それでも宗祖の教えに納得することができなければ、あなたの弟子にしてください」

「わかりました。ただ、私の下で出家するには絶対の条件があります。ご両親と奥さん、そして檀家さん、少なくとも総代さんたちの了解を必ず取り付けてください。最後は私が直接皆さんにお会いして、お気持ちを確かめます。彼らを説得できないようでは、今後他人にまともな説教などできません。いいですか?」

「承知しました。お言葉に従います」

 ここまで言われれば、覚悟せざるをえません。発言の責任は、まさに私にあります。そしてそれが、齢60に近くなった者が次世代の人間に果たすべき役割でもあるのでしょう。
 

 

お手紙ありがとうございます。

2016年10月20日 | 日記
「悟り」が何なのか教えて下さるという、ご親切なお手紙ありがとうございます。久方ぶりにこの種のお手紙を拝読いたしました。

 貴台のお話では、誰かの本を読み、書いてある通り修行したら「預流果」を得られたとのこと、謹んでお慶び申し上げます。

 さて、御説によると、脳が色々と余計なことを考えて「世界」や「自己」の存在を錯覚するので、特定の方法(主としてある種の瞑想)によって、その錯覚と錯覚する主体をありのままに観察できれば、錯覚はことごとく解消される。そうなったときが「悟り」であって、そのときのありのままに観察する主体こそが「本当の自分」だ、というアイデアのようです。

 私は出家して以来、このテの話を、上座部から大乗まで様々なデザインで、それこそ耳にタコどころか、顔中にタコができるほど繰り返し聞かされて、心底から辟易しきっています。大変申し訳ありませんが、私は、「悟り」と「本当の自分」が出てくる言説には、もはや全く興味も関心もないのです。面白いとも役に立つとも思いません。ただの駄法螺にしか聞こえず、自分には端的に不要なのです。

 以前にも書いたので、長々繰り返しませんが、それまで「悟った」ことがない人に、ある日特異な何事かが起ったとしても、それが「悟り」だとわかるはずがありません。すると、だれか別の「悟った」人に「君は悟ったよ」と「認定」しもらうしか、自分の「悟り」を証明できますまい(貴台の場合は他人の書物を証拠としているようですが)。

 すると、事情は先に「悟った」人も同様ですから、その証明は次々に遡り続け、結局、釈尊まで至ります。

 ところが、当の釈尊は「悟り」が何なのか、自分の口で語っていません(それを明言する文献が無い)。となれば、物は言いよう、考えようで、あとは支持者の分布と多寡の問題にすぎず、「悟り」の内容は結局、ポジショニングによるでしょう。

「本当の自分」も同じ。「本当」を判断する「正しい」根拠は一切ありません。せいぜい「とりあえず今は、これを『本当』にしておこう」程度のことです。

「観察する主体」にしても、それがあるなら、「観察する主体」を観察することが可能ですから、ことは無限遡及になります。どこで「本当の自分」を打ち止めにするかは、完全な恣意でしょう。

 少なくとも私には、今やそんなことはもうどうでもよいのです。

 私は、坐禅という身体技法を使って、言語機能と自意識を低減させることによって、「自己/世界」というがごとき、通常の二元的認識パラダイムを解除できることを知りました。わかったのは、そこまでです。それ以上の話は、所詮お伽噺にしかなりません。

 現在の私の、日常生活における坐禅の位置づけは、およそ以下のようなものです。

「二元パラダイム」解除によって「自己」「世界」を初期化して、いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし、その土台からあらためて「自己」と「世界」を仮設する。その過程で、「自己」と「世界」は、<それはいかにあるべきか>という「問題」として構成されていく。この「問題」に、時の条件に応じて適宜選択された方法でアプローチし、できる限り明瞭に言語化する。

 かくして「問題」が取り組むべき「テーマ」にまで構成されたなら、まずは好悪・善悪・虚実・正誤のような価値判断を一切差し控えて、「テーマ」をめぐる諸存在の関係性を認識した上で、それに取り組む具体的な工夫をする。実際にやってみれば中々上手くいかないこの行為を、それでも繰り返して改善しながら習慣にできれば、「悟り」も「本当の自分」もまるで必要がない。意味もありません。

 以上、所感です。あしからず、御免ください。

同一性と差異性

2016年10月10日 | 日記
何ものかを言語化するということは、すなわち同一性を設定することです。個々別々の物体を「茶碗」と命名する行為は、それらを同一の意味で規定することだからです。これを換言すれば、概念化(=「同一」の認識)ということでしょう。

 言語化・概念化は、まずは同一性の設定ですが、この行為は必然的に、言語化・概念化された当のものとそれ以外との差異性を発生させます。つまり、同一性の設定が、同時に差異性を惹起するのです。

 差異性の認識は、差異性の言語化・概念化のことですから、それはすなわち「差異」としての同一性の設定ということになります。

 これに対して、まさにそこにおいて最初の言語化・概念化が起こる、それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な事態こそ、「無常」「無我」、さらに言うなら「非思量」と呼ぶべき事態でしょうが、この事態そのものは決して認識できない(言語化できない)わけで、「同一」でも「差異」でもありません。言語に可能なのはせいぜいその事態を「指し示す」ことくらいです。

 このとき、その指し示しは、「同一」と「差異」を構成する言語行為への、言語による絶えざる批判によってなされるほかありません。つまり、「非思量」的事態とは、言語による言語への批判可能性として現成しているのです。

 にもかかわらず、近代科学や上座部の存在論のごとき要素分割主義は、概念化された「要素」の「同一」と「差異」の組み合わせでその「認識」を構成しているわけですから、少なくとも「非思量」的事態とは、無関係な議論になるでしょう。

 すなわち、そのような存在論は不可避的かつ根本的に「無常」「無我」を誤解するのです。

 たとえば、「無常」を「何もかもが絶えず変化(=差異化)する」ということとして理解(「刹那滅」的理解)するなら、「変化」という認識(概念化)が必然的に同一性を要請してしまい(「同じ」何ものかについてしか、「変化」は言えない)、「無常」でなくなってしまいます(もし「刹那滅するもの」自体が刹那滅すると言うなら、今度は刹那滅が刹那滅して、何も刹那滅しなくなる)。

 したがって、問題は「変化」の認識なのではありません。その認識を成立させる言語化・概念化という行為を批判することなのです。