恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

対話の中で

2017年06月30日 | 日記
▼お医者さんと
「結局、最後は敗北する職業です。大変だと思いますが、そのつもりでやることです」

▼教師と
「親の子育ては試行錯誤の連続ですが、あなた方は失敗せずに試行錯誤するという無理を周囲から要求されるところが、非常に辛いだろうと思います」

▼母親と
「私の母は、口に出して約束したことは必ず守ってくれました。そして、自分に誤りがあるとわかったときは、大人に謝るのと同じように、はっきり子どもに謝りました。これは信用の根本であり、したがって『躾け』と『教育』の土台です。私はいま見習っています」

▼父親と
「母親は時として無意識的に忍耐できますが、父親はそれほど『賢く』ないので、常に努力して忍耐しなければなりません。自戒です」

▼自称「引きこもり」の若者と
「要するに、死ぬまで引きこもれる金があるのかどうか、一人で部屋の中で稼げるスキルがあるのかどうかです。前者は昔『高等遊民』と言いました。後者は完璧な『独立自営業者』でしょう。そのどちらかが可能なら、何の問題もありません。あなたの場合、堂々と引きこもればよいのです。うらやましい」

▼中学生と
「勉強するのは、今より自由になるためだな。しないと生きられないわけでもないし」

▼後輩と
「寺があって、住職がいても、そこに仏教が無い。そうならんようにしないと。お互いに」

ナンパと後悔

2017年06月20日 | 日記
 その日、私は珍しくモノレールに乗って羽田空港に向かっていました(実は、飛行機が嫌い)。

 日中ながら乗客は多く、私は荷物置き場付近にずっと立っていました。すると、いつ間にか右隣に、いわゆる「ヤンキー風」「ギャル的」少女(ほぼ間違いなく10代半ば)が立っていたのです。

 金と白に染め分けられたクルクルの巻き毛が何本も垂れ下がっている上に、バービー人形のような派手なメイク。オレンジ色のタンクトップ(という名前の服があったような)と銀色のショートパンツ、耳と首と両指と両手首、さらに両足首と腰に何本ものリングとチェーンが巻き付き、高下駄のようなサンダルの革ひもが膝まで結び上がっていました。

 あまりにインパクトのある風体に私は怖れをなし、まかりまちがって痴漢かなにかに誤解され、「インネン」でもつけられては目も当てられないと、立ち位置を左に1メートル弱、不自然でないよう用心しながら移動しました。

 すると、あろうことか、彼女は正確に1メートル弱身を寄せてきて、私の顔を見上げたのです。仰天した私は、イースター島のモアイ像のごとく、直立不動で車窓の倉庫街に視線を集中し続けました。

 言いようのない緊張と緊迫の数分後、モノレールは羽田の第二ターミナルに滑り込みました。

「よかった・・・」

 何が「よかった」のかわかりませんが、私は思わず独り言ちてエスカレーターに乗り、改札に折れようとしたところで何気なく振り返ったら、なんとバービーギャルが後ろにいたのです!

「わあっ!」と叫びそうになりました。私は、自分がモアイ状態の最中に、彼女はどこかで下車したと思い込んでいたのです。

 すると、彼女はニッコリ笑って、

「お坊さんでしょ!」

「えっ、ええ、そう・・・」

「ねえ、ちょっとお茶しよ!!」

「えっ! ええっ・・・と、お茶・・・!?」

「時間無い?」

 時間はありました。搭乗時間まで1時間以上あったのです(私は駅や空港には早く行く主義)。

「うん・・・。ちょっとそういうわけには・・・、すみませんね」

 私は彼女の視線を切ると、ほとんど一目散という有様で、手荷物検査場に向かいました。

 振り向きませんでしたが、私は彼女が後姿を見ていると思いました。

 文庫本くらいにしか見えないバックだけを肩にかけていた少女です。空港に用があるとはとても思えません。偶然ではなく、彼女は私についてきたのです。そして、何か話がしたかったのでしょう。

 しかし、そのとき私はあの恰好を見て、なんだか面倒なことになりそうで嫌だったのです。

 私は搭乗口についてからも、ずっと彼女のことを考え続けました。明るく、屈託なく笑いながら「お茶しよ!」と言ったのは、実は勇気を振り絞ったのかもしれない。親でも友達でもない誰かに、どうしても話したい何かがあったのかもしれない。

 あそこで「お茶」は嫌だったにしろ、寺の連絡先でも教えて、また気が向いたら連絡するように言えばよかったのに。

 自分と話をしたいと言う人に対して、時と場所で妥協してくれる限り、面会を断らないと私が決めたのは、もう20年近く前の彼女との出会いからです。

不可能な「自己」

2017年06月10日 | 日記
 仏教の初期経典には、

「〇〇は『わたしのものではない、わたしはこれではない、わたしの我(実体)ではない』」

 という文句が繰り返し出てきます。仏教が「わたし」の実存に直接言及する、最も基本的な言い方です。これをよりわかりやすく書き換えると、

「Aはわたしのものではない、わたしはAではない、Aはわたしの我ではない」

 ということでしょう。「A」とは「五蘊」すべて、要するに任意のものです。

「Aはわたしのものではない」とは、「所有」が対象を思い通りにすることを意味する以上、この文句は「思い通りにする」行為で「思う主体」を根拠づけることは不可能だと言っているのです(ということは所詮、デカルト的な「思う故に、有り」は成立しない)。

 次の「わたしはAではない」とは、Aが任意である以上、言語によって行われる「自己」の認識はすべて成立しない、という意味になります。同時に、言語化されない「自己」認識は自分以外の誰にも伝達できないわけですから、一切無意味です(本人の「錯覚」と区別できない)。

 最後の「Aはわたしの我ではない」は、「わたしがわたしである」ことを根拠づけるものが「わたし」それ自体に無い、と言っていることになります(Aが任意である以上、コンテクスト上の機能としては、「無我」と同じ)。

 ということは、人間が行う「自己」認識はすべて錯覚だということです。しかも、その錯覚は言語の機能です。

 ということは、この錯覚なくして「人間」の生活は不可能ですから、要は、錯覚の自覚を維持しながら上手に使い回すしかないでしょう。

 そのとき大事なのは、常に仮設的な存在である「自己」がどのような条件下で成立しているのかを、よく考えることです。