恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

こまった性癖

2022年11月01日 | 日記
 この世に誰も死んだ人はいない。自分も死んだことはない。それでも我々は死ぬと確信していて、しかもそれがどのような出来事なのか、一切知らない。ただ、「死」という言葉はある。全く無内容な観念として。

 誰でも使う「私」と言う言葉は、特定の存在の形式を意味していて、それ自体は観念である。ただ、出来事としての「私」は、他の何事とも違う様態をしている。

 この出来事としての「私」は、あらゆるものが「ある」「ない」ことを成り立たせているのであって、その「ある」「ない」で「私」を語ることはできない。
「○○がある」「○○がない」を成り立たせていること、それ自体は「ある」のでも「ない」のでもない。

「死」も「ある」「ない」で語る範疇に無い。絶対にわからないものの「ある」「なし」が、わかるわけがない。

 にもかかわらず、我々は「死」も「私」も止めどなく語る。そして、何事かを理解していると、誤解している。とりあえず、その誤解を理解に錯覚しておかないと耐えられない。

・・・というようなことを考えて歩いていたら、待ち合わせていた人に全く気付かず、目の前をそのまま通過して、後で叱られました。

 徒歩、自動車、列車、飛行機を問わず、体が移動し始めると、どこかのスイッチが入って、頭が勝手に要らぬことを考え出す。どうしても改まらない私の性癖です。





ありふれた驚異

2022年10月01日 | 日記
 幼児期に病弱だった私は、幼稚園は「中退」の身の上で、小学校の最初の頃は、一週間登校して一週間休む、というような有様だったため、周囲の人間との「違い」に先鋭な意識を持たざるを得ませんでした。

 それはまず、「どうして自分はこれほど体が弱いのか」という問いになり、次に「どうして他の人は自分ほど体が弱くないのか」という疑問に結びつき、最終的に「なぜ自分は自分であって、他人ではないのか」という問題に構成されていきました。考えてみれば、これこそ私が生まれて初めて持った「哲学的」問いだったでしょう。

 しかし、この問いは病気と結びついているだけに、初期には体の問題に限定されていて、幼い頭で「違い」を考えても、出てくる結論は結局、「自分の体は他人の体とは別だから」という、ミもフタもないものにしかなりませんでした。

 とはいえ、この「別だから」は、問題の解決にはなりません。いわば人間の身体的な個別性という事実を述べるに過ぎないからです。

 ゆえに、「別であること」は問題のまま私の意識に沈んでいくことになります。

 そしてこのことが、後に面倒な本(哲学思想系)を読み出した頃、「主観」という概念に触れた途端に、強烈な生々しさで浮上してきたのです。

 思春期で自意識が昂進し始めた時期です。「別であること」が、体の問題から思想的問題に転換したわけです。

 自分の考えは自分だけのもの、他人は指一本触れられない。自分が見ているように世界を見ている者は誰もいない、客観的世界などどこにも無い。自分の存在は他のあらゆる存在とは決定的に違うのだ・・・・、というような、今思うと冷や汗がでるような恥ずかしい「思想」(思いつき)に興奮したものです。

 ある有名な哲学者が言った「存在するものが存在していることに驚け」というような文句を読んだ時には、多大な感銘を受け、戯言のような文章をノートに書きなぐった、地球の裏まで穴を掘って入りたいような、いたたまれない記憶があります。

 しばらくしてこの種の熱が下がってきたのは、それほど「主観」が独自で特別で驚異的なら、人間お互いに言葉が通じないだろうと気がついたからです。

 言葉が通じる以上、それほど違った考えや感情、感覚、すなわち違った「主観」を持つわけではないでしょう。

 もちろん、同じ物を見ても、見方によって違いが歴然と生じるでしょう。ただ、この「違い」の最終的な担保は、身体が別であること、その個別性にあるはずです。つまり、「主観性」の根本的なリアリティを支えているのは、身体の「個別性」というありふれた事実ではないか・・・そう思うと、子供の頃に学校を休んで寝ていた布団の中を思い出して、「形而上学的興奮」が一挙に冷めたような気がしたものです。

 私が面倒で抽象的な問題を考えるとき、常に「驚異的」アイデアを「ありふれた」経験に結びつけて考えるのは、「三つ子の魂」的なところがあるのだろうと思います。

 


番外:お詫びして訂正します。NHK「ブラタモリ」の件。

2022年09月05日 | 日記
 9月1日付けの記事「宣伝です」に、誤りがありましたので、訂正します。

 番組の撮影時に「台本」があったのは、案内人の私だけで、タモリさんご本人と女性アナウンサーの方は、完全なぶっつけ本番です。言葉が足りませんでした。

 番組とご両人の名誉に関わることですので、ここに訂正し、お詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。

 合掌

宣伝です。

2022年09月01日 | 日記
 今年の恐山例大祭も、規模縮小ながら無事終了しました。その大祭直前に「ブラタモリ」というNHKの番組の撮影がありました。

 私は、この番組の時間帯にいつもしている用事があるので、まるで見たことが無いのですが、それでも名前は知っています。そして、このことを人に話すと、聞いた者全員が一瞬、「えっ!」と言って絶句するので、超有名な、NHKの看板番組的なものであることは、容易に知れるところです。

 実際、NHKの制作スタッフの熱量は大変なものでした。撮影二か月以上前からの、私個人への取材をはじめ、数回にわたる打ち合わせ。担当のディレクターさんなどは、私もまだ読んだことのない資料や論文まで揃えて準備していました。

 そしてあろうことか、「台本」と「リハーサル」があったのです! これは初めての経験でした。

 「台本」(私の分だけで、タモリさんと女性アナウンサーの方は、完全なぶっつけ本番)には、日ごろ自分が恐山を案内している時の話と同じようなことが書かれていましたが(取材されているのだから当たり前)、問題はそれを言うタイミングがすべて決まっていて、主演のタモリさんに一定の質問をすることが必須とされていたことです。これは厳しかった。

 これまで私が参拝の方を案内するときは、相手と適当に会話しながら、話したいように話していましたから、ここを拘束されるのはつらい。

 ただ、タモリさんという方は、こちらが質問などして促さない限り、ずっと黙って相手の話を聞く人なのだそうで、案内人が勝手に喋っては番組にならないと、スタッフに妥協を懇請されました。

 私もまた、コロナの影響が長引き、参拝の方々の数もなかなか回復しない昨今、収束後をにらんで、いささか広報の必要を感じていたので、この下心故に妥協を余儀なくされました。

 すると、下心にバチが当たったか、収録2日前のリハーサルは雨。しかも途中から大雨。

 でも、スタッフは止めないのです。さすがのプロ根性です。まるで妥協せず、場面場面で撮り方を詳細に検討するので、やたら時間がかかります。何度か経験がありますが、よい作品の撮影は、おそろしく手間がかかるものです。

 しかーし! スタッフはレインコートを着ていましたが、私は傘だけ(風が強いと役に立たない)。パンツまでビッショリでした。リハーサル数日前のロケハンに二度つきあったお坊さんは、大雨と炎暑に祟られ、ずぶ濡れの翌日、頭の皮が剥けるほどの直射日光にさらされたそうです。

 スタッフの人たちも大ご苦労でしたでしょうが、私たちも大変でした。でも、今回あらためて「悟った」ことがあります。

 私は、大学卒業以来ずっと、読みたくない本は決して読まず、聞きたくない話は断じて聞かないという、言葉に関するわがままを貫いてきましたが、新たにもう一つ、言う気がないことを、言う気が無い時に言わされるのもダメだと、身にしみました(書きたくないことは、そもそも書けない)。もう二度と、台本とリハーサルのある番組には出ません!

 番組は9月10日の放送だそうです。あえて言わせていただきます。「苦労」の結晶です。ご覧くだされば幸甚です。





政治と宗教と暴力

2022年08月01日 | 日記
 もう先月のこととなりますが、極めて衝撃的な元首相射殺事件でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 とんでもない蛮行でしたが、一つだけ救いを感じたのは、今回、ほとんど国をあげてこの暴力を憤り、強く非難していることです。そして、多くの人々が、選挙中の暴挙で言論が委縮することを心配していました。私は、民主主義が我々国民に確かに根付いている証しに思われ、少しく安堵した次第です。

 その上で、私が特に気になったのは、狙撃者が政治的動機ではなく、自分の家庭を崩壊同然に追い込んだ宗教団体に恨みがあり、本当はその団体のトップを殺害したかったが、実行は無理そうだったので、その替わりに、この団体と元首相は関係が深いと思いこんで、彼を狙ったと供述しているらしいことです。

 すると、狙撃者は元首相の政治信条を理由にテロ行為を起こしたわけではないことになります。

 問題は、母親がのめり込んで、あるいは母親をのめり込ませて、結果的に家庭を崩壊させた、宗教の「暴力性」です。政治が暴力を動員できるように、宗教も暴力を動員できるのです(たとえば、心理的暴力としての「洗脳」、物理的暴力としての「十字軍」「ジハード」など)。

 もしそうなら、暴力は暴力を呼ぶでしょう。暴力にさらされたものは、暴力で対抗しようとします。

 私は、狙撃者の暴力を肯定するつもりは、まったくありません。しかし、「暴力に暴力で対抗する」という構造は、注意深く考えなければなりません。

 たとえば、ロシアの「侵略」はそれこそ「悪い」暴力で、ウクライナの「防衛」は「正しい」暴力になるでしょう。ですが、私がここでどうしても考えざるを得ないのは、世の中に「正しい」暴力、少なくとも「やむを得ない」暴力があるという、その考え方です。つまり、正当化し得る暴力があるということです。

 あの狙撃者が元首相ではなく、宗教団体トップを狙撃したら、あるいはそれに「理解」を示す人がいるのではないか。今、ロシアの大統領が誰かに暗殺されたら、喝さいを送る人は少なくないだろう。そこに「正義」を見る人が存在するはずなのです。

 私は、この「正義」を認めるべきでないと思うのです。そしてそのためには、「正義」の暴力を招く「最初の暴力」に、徹頭徹尾反対すべきだと思います。ということは、「最初の暴力」を正当化するあらゆる思想や言説に反対しなければなりません。

 政治であれ、宗教であれ、暴力を発動しようとする指導者たちは、自らの思想や言説への批判を認めません。暴力の正当性を毀損する批判的言説は徹底的に排除しようとします。

 もしそうだとすると、暴力を認めず、暴力に対抗する最大の抵抗は、思想信条の自由、言論表現の自由、結社集会の自由などを身を挺して守り抜く覚悟を決め、暴力と暴力を正当化する思想・言説を批判し続けることでしょう。それは、結局、民主主義による政治体制を護持することです。

 私は、今回の事件で、他でもない選挙の最中とはいえ、多くの日本人が民主主義の危機を感じ、それを護る行動として投票を呼び掛けていたことに、いま希望を持っています。

 







緊急:フェイスブック上に恐山の偽サイトがあります!宿泊のオンライン予約はしていません!!

2022年07月07日 | 恐山の参拝
緊急に申し上げます。

フェイスブック上に「日本三大霊場恐山」というタイトルのサイトがありますが、この偽サイトが現れました。正式のサイト(ホームページからリンクあり)では、「メッセージを送信する」というクリック部分(青地白ヌキ)がありますが、「予約する」という部分はありません。

恐山は現在、宿泊の他、法要等いかなる件に関しても、オンラインによる予約を行っていません。

恐山に関するオンラインによる予約を促すサイトは、すべて偽サイトですので、どうかご注意ください。


恐山に関するオンライン情報は、以下をご覧ください。

1.このブログ

2.現在の公式ホームページ「霊場恐山」(https://osorezan.or.jp)

気分次第で

2022年07月01日 | 日記
 経典を読んでいると、こんな話もあるのかと、びっくりすることがあります。以下は、初期経典にあるエピソードです。

 ゴータマ・ブッダの弟子グループが、別の修行者グループを訪問します。すると、この別グループの修行者が、悟りの至るための七つの修行(七覚支)を取り上げて、これらはブッダも説いているが、自分達も説く。ブッダが説くことと自分たちが説くことに何の違いがあるのかと、質問しました。

 七つの修行とは以下のようなものです。

一、おもいを平らかにする。(念覚支)
二、教えの中から真実のものを選択し、偽のものを捨てる。(択法覚支)
三、一心に努力する。(精進覚支)
四、真実の教えを実行することの喜びに住する。(喜覚支)
五、心身を軽やかに快適にする。(軽安覚支)
六、心を集中して乱さない。(定覚支)
七、対象へのとらわれを捨てる。(捨覚支)

 日本語訳が適切だとすると、一、四、五などは、具体的に何をするのか、判然としません。

 四は、修行すると自然に喜びが感じられるようになるから、それを手放すなということなのか、修行することを敢えて喜びとして、その思いを保てと言いたいのか、よくわかりません。

 五は、おそらく、修行して煩悩から解脱すれば、心身ともに楽になるということではないでしょうか。

 一番わからないのは一で、解釈がマチマチです。
 一説には、「正しい念」、つまり「苦・無情・無我」など、仏法の世界観を忘れずに記憶し続けることだと言います。
 あるいは、禅定と智慧のバランスをとることだとします。
 他には、心で今の瞬間の現象を自覚することだ説きます。これは念の原語「sati」を「気づき」と解釈するところからの言い分でしょうが、「sati」も元々の意味は、特定の物事を心に留めて忘れないことです。
「平らか」ということを、物事に対して価値判断をせず、そのものをそのものとして受容することだと考えれば、禅定に近い意味とも言えるでしょう。

 さて、弟子を通じて別グループの修行者の質問を聞いたブッダは、驚くようなことを言います。要するに、自分の説法との違いは、どのような場合にどの修行をするかを示すかどうかだと言うのです。

 まず、気分が鬱状態(惛沈・こんちん)の時は、五と六と七は修行してもダメで、そういう時は、二と三と四を修行すると気持ちが活発になると説きます。
 
 その反対に、気分が躁状態(掉挙・じょうご)の時には、二と三と四の修行は不適当で、五と六と七が気持ちを落ち着かせると言うのです。

 また一については、最後に、鬱・躁を問わず、いつしてもよいと教えているのです。

 この教えは、要するに気分に応じて修行をせよ、無理をするなということでしょう。永平寺時代、気分など一切無視して闇雲に修行していた私としては、この部分を初めて読んだ時に仰天したものです。

 ブッダは苦行を否定したと言いますが、それをこの教説ほど具体的に示すものはありません。ブッダの言葉の根底に一貫して響く、プラグマティズムの音色を聞く者は、私ばかりではないでしょう。
 





開山しました。

2022年06月01日 | 日記
 去る5月1日、今年も恐山は開山の日を迎えました。

 境内にただ1本の桜は満開でしたが、ゴールデンウィーク中は、季節外れの冷え込みで驚いてしまいました。

 にもかかわらず、今年は昨年の倍くらい、ウイルス禍前の6割程度の参拝をいただきました。大変嬉しく思った次第です。以下は、冷え込みの上に雨模様となった5月1日、参拝の方々に申し上げたご挨拶です。



 皆様、いくら本州最北とはいえ、5月にこの冷え込み、さらに雨の中、お参りをいただきまして、誠に有り難く存じます。

 ざっと拝見したところ、皆様マスクをお召です。このような生活も3年となりました。慣れか経験か、いささか先の見通しがついて来たようにも感じられますが、まだまだ油断はできない昨今です。

 その心配が尽きないうちに、今度はいきなり、いつの時代の話かと思うような戦争です。しかも、今や遠い国の戦いが、我々の生活を直接脅かしているのです。人々が戦火に苦しむ姿を連日目の当たりにして、自らの無力をつくづくと思う次第です。

 考えてみれば、東日本大震災以後を考えても、度重なる天災があり人災があり、今般の疫病があり、この戦争です。そのたびに、市井の私たちは自らできることの少なさを思う他ありませんでした。

 力を貸す自由な時間のある方、必要とされる能力のある方、提供できる資財のある方は、それぞれに苦境になる人々の力になっていただければ、それは大変結構なことだと思います。

 しかし、今それを持ち合わせていない人は、どうしたらよいでしょうか。できることは無いのでしょうか。

 天災、人災、事件事故、戦争などで、突然大切な人と引き裂かれるように別れなければならなかった方々が大勢おられます。人に命があっという間に奪われ、遺された人々には深い喪失のダメージがいつまでも消えません。

 私たちが、今すぐその方々の力になれない事情なら、その奪われた命を思いつつ、まずは自分に身近な人、さらに縁のある人の命を大切にしたらどうでしょうか。そして、そのようなご縁で織りなされる自身の日常生活を慈しんだらよいと思うのです。それは、ついには、奪われた命の重さと大切さを実感する営みなのです。

 人を大切にすると言う時、私は是非皆様にしていただきたいことがあります。それは、自分の思うところを言う前に、相手の話を聞いていほしいということです。自分の言い分を主張する前に、相手が何を考えているのかを、丁寧に受け止めてほしいのです。

 そうして、自分が正しいと思うこと・善いと思うことが、相手にとっても本当に正しく善いのか、静かに考えてほしいと思います。

 世の中に取り返しのつかない厄災をもたらすのは、「悪」ではなく「正義」です。「自分は絶対に正しい」と思い込む者が暴走すれば、何が起こるかは歴史が証明し、我々が今ウクライナで目撃していることです。

 まず相手の話を聞くこと、自分の正しさを疑える自省心を持つこと、もうこれ自体が反戦の行動であり、自由と公正さを守る力です。

 これは、生きている人だけのことではありません。亡くなった大切な方を想い、時に「あの時は自分の方が間違っていた」と気がつくことも、それ自体が深い深い供養であり、命を尊ぶ営みだと私は思います。

 本日は、それぞれにご供養の御霊がおありでしょう。どうかそのご供養の節、いわれなく奪われていった命に思い寄せて、ご焼香を願えれば、恐山と致しましては大変ありがたく存じます。

 皆様、本日はお参り誠にお疲れさまでございました。




 

正しく間違う。

2022年05月03日 | 日記
 中国の唐末期、雲門文偃という禅師がいました。この雲門禅師が行脚の修行僧に問いました。

「最近、どこから出て、ここに来たんだね?」

「西禅和尚のところからです」

「西禅和尚は、最近どんなことを言っているんだ?」

 修行僧は両手を開いて差し出しました。

 その途端、禅師は平手打ちを修行僧に一発。すると、修行僧が、

「いや、私にはまだ話があるんです」

 聞いた禅師は、両手を開いて差し出しました。

 それを見た修行僧は沈黙します。

 その途端、禅師は平手打ちをもう一発。

 

 この問答を、私は次のように考えます。

 雲門禅師が「最近どんなことを言っているんだ」と問うのは、西禅和尚がどのような境地に至って、どう教えを説いているのか、ということです。

 それに対して、修行僧が両手をさし伸べる動作をしたのは、和尚が言語では言えない境地を得て、言語を超えた真理を示しているということを伝えるためです。この時、具体的な動作は何でもいいのです。たとえば逆立ちでもよかったわけです。

 ところが、雲門禅師は平手打ち一発で、修行僧のやり口を否定します。これは「言語を超えた真理」が形而上学的な実体になってしまうからです。言語化できなければ、それは要するに「わからないこと」です。「わからないこと」を「真理」と断定する根拠など、あるはずがないでしょう。それは「ポンドカハリホレは、真理だ」と言うのと同じで、まるでナンセンスです。

 慌てた修行僧は、「まだ話がある」、つまり「言葉で言えない、と言っているのではない」と言い出します。

 禅師はすぐに両手を伸ばして、それはダメだと止めます。つまり、言葉で言えようが、言えまいが、何らかの「真理」を設定すること自体が、すでにダメなのです。

 「真理」は定義上、いつでもどこでも真理であるという絶対性がないといけません。しかし、人間は、ある時・あるところにしか存在できないのですから、この「相対的な存在」に「絶対的な真理」が認識できるわけがないのです。

 私たちが「真理」についてかろうじて言えるのは、自分たちの認識には限界があるということです。つまり、「言葉で言えない何かがある」と認めることだけです。しかもその限界は、その「何か」は、ただ沈黙することではなく、「言い得ないこと」を言い続け、かつ言い間違い続ける徒労でしか、示されません。

 我々は、「真理」という標的そのものに、「言葉」の弾丸を命中させることは決してできません。できるのは、全力を挙げて狙い撃ちをし続けて、常に外れる無数の弾痕の分布から、標的のおぼろげな輪郭を想像することぐらいです。

 しかし、撃たなければ、標的は無いも同然です。誰も撃たない標的は「標的」ではありません。まるで言語化されないなら、「真理」どころか、何があるのか無いのかさえわかりません。

 修行僧の動作と雲門禅師の動作の違いはここにあります。「絶対的な真理」を想定してものを言うのか、それともその想定自体が無意味だと考えるか。

 修行僧の沈黙に禅師が再び平手打ちを与えたのは、修行僧の沈黙が、未だ「言葉で言えない真理」を前提にしていたからなのです。
 
 

お知らせ:今年の恐山について。

2022年04月24日 | 恐山の参拝
お問い合わせがありましたので、申し上げます。

恐山は来る5月1日、例年通り開山の予定です。

宿坊の営業も通常にて行います。

以上、お知らせ致します。

何卒よろしくお願い申し上げます。

合掌

院代謹白