恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

思うんですが。

2019年09月20日 | 日記
 時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。

 先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。

 彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。

 その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。

「あなた、今のクリニックで苦情は?」

「ありません」

「院長から何か怒られた?」

「全然」

「じゃ、なぜ辞めなくちゃいけないの?」

「なんというか、自信が・・・」

「自分のテクニックに自信が無いの?」

「あまり器用じゃないし・・・。皆が僕を見ているようで・・・」

「あなたねえ、腕さえ良ければ、誰が見ていようと構わないでしょ。それに1年無事でやってるなら、基礎的なテクニックはあるんでしょう」

「かもしれません」

「だったらねえ、要は経験と勉強と練習でしょう。あなた自分の能力と時間のすべてを勉強と練習に注ぎ込んだことがあるの?」

「そのつもりだったんですが・・・」

「違うよ。本当にそうしてみてダメだと言うなら、もう自分で見切りをつけて、とっくに辞めてるよ。あなたね、今後3年すべてをつぎ込んで勉強し、寝る間も惜しんで練習しなさいよ。辞めるのは、それからだよ」

「あなた、父上のお仕事は?」

「歯医者なんです」

「なんだ、後継ぎか」

「違います。父は継ぐのに反対でした。この地方でこの業界は今後厳しいと。でも、僕は自分の意志で、この道を選んだんです」

「だったら、お父さんの医院を滑り止めにしなよ。最後にオヤジにお前の腕ではダメだと引導を渡してもらってから、見切りをつけて辞めればいい。実際、君は恵まれている。それまでは、自分が不器用だと言うなら、四の五の言わず、人の10倍努力して腕を鍛えなよ。そういう寿司職人知ってるよ。親方から見込みがないと言われながら、必死の努力で一人前になった人」

「あと・・・・、学会に行くと前の医院の院長や同僚と会うんですが、どうすれば・・・」

「あのねえ、そんなの挨拶して終わり! あなた、勉強に行ってるんで、付き合いに行ってるんじゃないでしょ。あとは無関係。もうどうでもいいの。学会で出世でもしたいの、あんたは?」

「いいえ・・」

「じゃ、彼らが今の君と何の関係があるの!」

 これは彼に限りません。4、5年前、私は、修行道場6年目の古参和尚で、当時29歳の修行僧から、相談があるんですがと言われたとき、その和尚曰く、

「ぼく、下の者(後輩の修行僧)が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」

 びっくり仰天!私が6年目と言えば、まさにダースベイダー時代。「下の者」なんぞ眼中に在りませんでした。

 どうしてこうも彼らはデリケートなのか。
 
 一つ思いつくのは、彼らは失敗を極端なまでに恐れているのではないか。ある集団や共同体の中で、自分が不協和音を出すことを、極端に気にしているのではないか。それは結局、その集団や共同体自体が、社会経済構造の変動と競争環境の激化にさらされて、余裕を失い、メンバー以上に組織自体が失敗を恐れているからではないか。

 だとすると、これは問題です。なぜなら、これからの社会は、前人未到の荒野を行くようなもので、これまでの手法は通用しません。次の世代のトライ・アンド・エラー、試行錯誤によって道を拓いてもらうしかないのです。

 それをこんなに委縮させてはいけない。私は、気の持ちようでどうにでもなる簡単な話に見えながら、何か深刻な問題に逢着した気がしました。
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三つの難題

2019年09月10日 | 日記
 今後の社会における決定的な問題は、環境問題、AIとバイオテクノロジーの劇的進展から生じるでしょう。この件に関しては、過去の記事でも何度か触れましたが、ここでもう一度整理して起きたいと思います。なお今回は、環境問題には触れず、AIとバイオテクノロジーの発達から想像される我々の「実存」の問題に絞ります。

1.AI・バイオテクノロジーと「労働」
 私がここで問題とするのは、AIの進化が「人間の労働を奪う、人間が無用化する」、という「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ないということです。
 自分が何者であるかを、「職業」を拠りどころに意識していた実存は、次は何を拠りどころに「自己」を規定するのか。その規定のツールを誰がどう与えるのか。
 同じような事態は、バイオテクノロジーの発展による、寿命の極端な延長によってももたらされるでしょう。
 AIであれ人間であれ、この「拠りどころ」ツールを与える者が、次の時代の支配者となるはずです。

2.AI・バイオテクノロジーと「意識」の変容
 意識と脳の生理的過程の相互関係(または平行関係)を量子レベルにまで解析できれば、意識を電子チップにコピーするか、あるいは意識相互をダイレクトに接続したり、インターネットに接続して無限大に拡張することも可能でしょう。
 さらにバイオテクノロジーが肉体を改造するか機械と融合させ、拡張した意識を受容し得る身体を提供するなら、「自意識」はどのような変容を被るのでしょうか。それは「自意識」と呼びうるものなのでしょうか。

3.AI・バイオテクノロジーと「死」の消去
 2の状況は、意識の機械的身体へのコピーや、肉体の改造(脳移植)や製造(培養された肉体への意識の移植)を通じて、「死」を消去することに通じます。もし「死」が失われれば、「生」は意味と価値を失い(誰も死なないなら、「しなければならない」ことは無くなり、それはつまり「意味」も「価値」も無くなるということ)、実存の様式としての「自己」「人間」は無化する(「自意識には一つの身体」という従来の実存原則が失われる)ことでしょう。

 このとき、1は宗教に過大な負荷をかけることになるかもしれません。もし労働にかわるアイデンティティーの根拠を宗教に要求するなら、宗教は巨大な権力を手にすることになり、過酷なイデオロギー闘争の当事者になりかねません。
 
 2と3は、宗教、特に普遍宗教の存在意義を壊滅させるでしょう。最後にかろうじて残存するとすれば、人間が自然に組み込まれていた時代のアニミズムが、デジタルアニミズムやAIアニミズムに変貌して、生き延びた微弱な意識に「神」を提供するかもしれません。その「神」はもちろん、AIが生み出す巨大クラウドでしょう。

 では、この3つの問題に、仏教はどういうスタンスをとることができるでしょうか。いま私が漠然と考えているのは、以下のようなことです。

 一つは、「死の消去」は仏教の教えが肯定するものではないだろうということです。「ニルヴァーナ」を目指す仏教は、「死の受容」こそがテーマなのであり、そこに逆説的に「受容する自己」の存在意義がかかっています。
 
 他方、「自己」という実存様式(自意識をもつ実存)は、仏教にとって最終的な意味も価値も持ちません。そもそも仏教はヒューマニズムではないのです。
 ただし、仏教の狙いは、「自意識」を無化、あるいは無意味化することではありません(特定の意識状態・「境地」への到達を目的とするものではない)。そうではなくて、ニルヴァーナ(死の受容)に方向づけられた実存として、それ相応の自意識に改造することです。これが上述した逆説的な「自己」の存在意義なのです。

 いまだ十分な結論に至りませんが、これからも折に触れ、この問題を考えたいと思います。



 
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「師匠」の困難

2019年08月30日 | 日記
 思いつき禅問答シリーズ。

 ある禅師が修行僧を集めて言いました。

「お前たちは皆、酒糟で酔っている連中だな。そんな体たらくであちこち修行に歩き回っても、今日悟りを得ることなどできないぞ。そもそも、この国に禅師などおらんんことを知っているのか」

 すると、修行僧の一人が質問しました。

「では、あちこちにいる、修行僧を教え導いている人は、どうなんですか?」

「禅(の悟り)が無いとはいわん。ただ、その師がいないのだ」

 

 この禅問答の中で「酒糟に酔う連中」とは本物の酒を知らない者の喩えで、いい加減な仏法の知識に満足して、正しい仏法を知らないことを言います。

 この問答の通常の解説はおおよそ次の通りです。

「禅の教えが無いとは言わず、師がいない」とは、要するに「禅(の悟り)」とは、修行者本人の直接的な体験、心によって内面から体得されるものであって、それを教えられるような「師」はいないのだ。

 この解釈は、ただの体験を形而上学的な「真理」のごとく理念化する、一種の「体験至上主義」と言えるでしょう。

 私は例によってこの解釈をとりません。なぜなら、修行者本人の「体験」が本当に「悟り」かどうか、当人には原理的にわからないからです(これまで悟ったことがないのに、わかるはずがない)。

 だとすれば、誰か「先に」悟った者に「君のその体験が悟りなんだよ」と言ってもらわなければならないでしょう。つまり、体験それ自体は無意味なのです。「禅(の悟り)」があるなら、それを保証する「師」は必要条件です。

 にもかかわらず、「師はいない」というのは、その師の「悟り」体験も、体験自体は無意味で、そのまた師に保証されなければならず、ことは際限なく遡及します。

 この遡及を遮断するには、大元のゴータマッダご自身による「悟りとは〇〇である」という言明が必要ですが、この言明が経典に一切ないとなると、「体験」の意味を確定する「正しい」方法は無いことになります。

 すると、「悟り」確定に必要な師の保証は、所詮「参考意見」か「参照事例」にすぎません。

 すなわち、「体験至上主義」で押し通すと、「正しい悟り」を得た「師」などは幻想にすぎないという話になるでしょう。
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悲しみの過程

2019年08月20日 | 日記
 亡くした娘さんに手紙を書いて恐山に供えていったお母さんの話を、前に記事にしました。

 ところが、このような大切な人との死別を悲しみ、また悼む人に対して、仏教ではそういう思いを執着ととらえているのだから、早く克服するように主張する人がいます。その彼らがよく引き合いに持ち出す、初期経典の話があるのですが、それはざっとこんなものです。

 あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという女性が、遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」と、狂乱したように町中を歩き回っておりました。彼女はそれまで人の死を目の当たりにしたことがなかったのです。
 薬を求めて彷徨ううち、ゴータミーは、たまたまその噂を聞きつけた釈尊のもとに行って、同じように薬を求めました。
 すると、釈尊はこう言ったといいます。
「では、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことのない家からもらうのです」。
 これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれると思ったのでしょうか、あちこちの家を尋ね歩きました。しかし、どんなに探しても、死人を出したことのない家などを見つけることはできません。このとき、ついに彼女は人生の無常ということを知り、出家して後にさとりを得たのでした。

 私は、このエピソードを、死別の悲しみを否定的に考える例話として考えません。むしろ、人には悲しみの過程が必要だということを教えるものだと思います。

 キサー・ゴータミーが「無常を知った」のは、悲しみのまま彷徨いつつ多くの家を尋ね歩いたからです。彼女が「無常を知る」には、この「彷徨い」が是非とも必要だったのです。

 弔いは時として長い時間を必要とするものです。それはまた悲しみの時間でもあります。それを執着と言うなら、その執着から自由になるには、それぞれに十分なだけの悲しみの過程があるべきなのであり、「悟る」ためにはそれを否定しなければいけないというなら、そのような「悟り」は有害無益でしょう。
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「死」の消去

2019年08月10日 | 日記
 新刊で、無常・無我・縁起の教えを標榜する「仏教に輪廻説は不要であり、捨てるべきだ」と公言したところ、あちこちから反論や批判が聞こえてきました。

 そのほとんどは、拙著の中で言及した「無我輪廻説」の類で輪廻のアイデアを擁護しようというものでしたが、それとは別に、上座部・大乗、様々な経典・論書を引いて無我説と輪廻説の矛盾を解消しようとする主張がありましたので、これについて私の意見を述べておきます。

 その主張は大よそ以下のようなものです。すなわち、

 人間は、仏教で言う五つの存在要素(五蘊)で構成されていて、そこに霊魂のような実体はない。その彼が死ぬと、彼の五要素は捨てられ、「中有の五蘊」なる状態に転移し、その後次の母胎に入って、来世に生まれるのである。だから、「霊魂」などは存在せず、無我説と輪廻説はなんら矛盾しない。

 以上の考え方のナイーブさは、一目でわかるでしょう。すなわち、

 人間が何で構成されていようと、死ぬ前の彼と「中有の五蘊」状態と来世に出てきた者が、それぞれ全く別の存在なら、そもそも「輪廻」など言うも愚かで、単に生前の彼と「中有の五蘊」と来世の者が時間差で別々にいるだけです。

 姿形は違えども、彼と「中有の五蘊」状態と来世に生まれた者の間に、同一性を担保する「何か」を設定して初めて、「輪廻」を言う意味があるのです。そもそも「五蘊は捨てられる」と言うなら、捨てる「何か」がいると考えざるを得ないでしょうし、「中有の五蘊」に転移して母胎に入ると言う以上は、転移したり入ったりする「何か」が存在するわけでしょう。

 この同一性を担保する「何か」こそが、私が拙著で言う「霊魂みたいな」ものなのであり、無常・無我・縁起説と背反するアイデアなのです。

 その「何か」を暗黙の裡に(あるいは無自覚に)設定しながら、無我説と輪廻説の両立を安直に言い募るのは、考えの是非を言う以前に、理屈の立て方が拙劣です。

 多くの宗教は天国・地獄・来世・生まれ変わりなどを説きますが、これは要するに死の消去であり、「永遠の命」への欲望が要求するものでしょう。「輪廻」への強いこだわりも、その欲望の一種です。

 「永遠の命」を峻拒して、「完全なる消滅」としてのニルヴァーナを理想として説く仏教が、いかにユニークな教説であるかは、この一事を見ても明らかです。



追記:
 新著『仏教入門』の61ページに誤字がありました。ページ中ほどの「(無自性)」は「(自性)」の誤りです。お詫びして訂正します。申し訳ありませんでした。
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ある手紙

2019年07月30日 | 日記
 今年も恐山の例大祭が無事終了しました。ご参拝いただいた皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 恐山の本堂には、家族の方が持ち込むであろう、たくさんの故人の遺品が供えられています。その多くは衣服と遺影ですが、おもちゃや靴、鞄なども少なくありません。

 以前、手作りの等身大人形が置いてあって、仰天したことがあります。お子さんを亡くされた人が、長年一緒に暮らしていたのでしょう。顔の部分は何度も縫い直され、白かったであろう布も茶色になっていました。

 今年、本堂で法要に出たとき、たまたま目にしたのは、手紙でした。ピンクのかわいらしい封筒には、丸みをおびたやさしい字で「美樹ちゃんへ 母より」とありました。封筒からは便箋の文字もいくつか透けて見えました。「おかあさんは・・」という字もありました。

 その手紙には、真新しいシャープペンシルときれいな便箋がいっしょに添えられていました。

 まだ幼いお子さんを亡くしたお母さんが置いていったのだと思います。シャープペンシルと便箋は、美樹ちゃんに返事を書いてもらいたいという切なる願いゆえのものでしょう。

 おそらくは、このお母さんはこれからも、美樹ちゃんを繰り返し繰り返し思い続けるでしょう。思おうとしなくても、思われてしまうでしょう。そのどうしようもなく思われてしまう思いの中に、彼女は美樹ちゃんからのメッセージを受け取るのかもしれません。

 恐山は今も、死者とともにあり、死者に出会う場所なのです。

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思いつきいくつか

2019年07月20日 | 日記
今や、元気は「出す」ものではなく「もらう」ものであり、意見は「私的に」言うものであって、「私が」言うものではない。

皆で協力しよう!、と声高に言う人間が、協力の結果一番得をする場合が多い。

正しいと思ったことを繰り返し言う人より、往々にして、繰り返し言えば正しくなると思っている人の方が、強い影響力を持つ。

根本的に愚かな人間は、自分が言う場合も言われる場合も、批判と誹謗の区別がつかない。

器の大きい人とは、仕事を他人に任せることができて、結果の責任を自分で取る人であり、器の小さい人はその真逆である。

脳と意識の区別をつけずに論じる人は、地図に人が住めると考える人と変わらない。

老いと病に馴染むこと、他人を無条件に赦すこと。それを少しずつできるようにしていくことが、死ぬ練習なのだ。
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二つの諦め

2019年07月10日 | 日記
 仏教には「勝義諦(第一義諦)」と「世俗諦」という言い方があります。教義的立場によって解釈は様々ですが、たとえば中観系の解釈だと、おおよそは以下のようになるでしょう。

「勝義諦」は、「空」「悟り」「解脱」「涅槃」など、仏教の究極的境地や認識を意味し、これは言葉で表現することができない「真理」だとされます。

 これに対して「世俗諦」は、そうは言っても、何も言葉で表現しなければ、「真理」の存在さえ知ることはできない。この言語化された限りでの「真理」を「世俗諦」と言うわけです。

 この二諦説が俗化すると、仏教本来の真理(勝義諦)は世間を超越しているから日常生活と無縁になる。であるから、それはそれとして、日々の暮らしは世間の法律や習慣・道徳(俗諦)に随順すべきだという、安直な二元論に堕することとなります。

 では、私流に二諦を解釈するとどうなるでしょうか。

「勝義諦」には二つの側面があります。

 一つは、それ自体として存在するわけではない事物の実存を、言語がそれとは真逆の、それ自体に根拠を持って存在する「実体」のごとく錯覚させることを、暴露し批判することです。

 もう一つは、では「実体」と錯覚されている事物は、実際にはどう実存しているのかを説明することで、その核心となるアイデアが「縁起」です。すなわち、関係が存在に先立ち、存在を生成するという考え方を言うわけです。

 これに対して「世俗諦」は、ならば、その関係はどのように構成されるべきかを考え・実行すること(これには言語の機能が必須)です。このとき、その「考え方」や「実行の仕方」は、常に一定の条件に規定された暫定的なものであることを自覚しているべきであり、この自覚が「勝義諦」の言語批判に由来しているわけです。

 したがって、「勝義諦」は「世俗諦」に作用する限りにおいて有意義なのであり、「世俗諦」は「勝義諦」に依拠しない限り「諦」にならず、ただの「世俗」でしょう。

 このとき、私が排除するのは、「勝義諦」をなんらかの特殊な「境地(心身状態)」として存在論的に特権化し、これを「言葉で語りえない真理」として実体視することです。

 この考えは、結局「世俗諦」とされる「言葉で語られた教説」を二次的なものとして切り離し、最後には世間の道徳話同然に仕立ててしまいます。

 かくして、一方が実体論になり、他方が道徳話になったら、もはや仏教ではありません。

 要は、「勝義諦」と「世俗諦」を区別しただけで事が片付くと考えるのは誤解の元であり、大切なのは二諦の関係を定義することなのです。

 

 
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どこでも、いつでも、ちょっとでも

2019年06月30日 | 日記
「お前が今度出す本の表紙に、でかでかと坐禅姿が載ってるぞ。いい度胸だなあ!」というメールが知人から来ました。

 7月発刊予定のその本では、坐禅の作法を紹介する章の口絵写真と本体につける帯に、私の坐禅姿を使いたいという話を編集者からされて、何枚か写真撮影をしたのですが、表紙になるとは知りません。

 言われた通り、ウェブ上のショップで見てみると、なんと!?!

 帯と言うからには、本の三分の一程度の幅で、その右隅に私の写真がちょこっと使われ、残りに宣伝文句が入ってるのだろうと漠然と思っていたら、帯が全体の三分の二以上を占め、そのど真ん中に大きく私の坐禅姿があるのです。

 仰天です。その上「南流仏教入門書ついに成る!!」「私の考える仏教」などという惹句がついています。

 これはやりすぎだよお・・・・はずかしいよお・・・・出す前におしえてくれよお・・・・

 しかし、もう時すでに遅し!

 ただ、呆然としながら、しばし写真を見ていたら、坐相(坐禅の姿勢)自体は悪くないなと思えてきました。実は、私はこれまで自分の坐相を見たことがありませんでした。修行僧時代に一度、真後ろから坐禅姿を撮影されたことがありますが、正面は初めてです。

 そういえば、この撮影のとき、30代と思われるカメラマンが、写しおわった後に

「息してたんですか? 生きている気配がないですよ」

 と言い、立ち会っていた編集者も、

「そう、物みたい。それこそ仏像っぽい」

 この写真の撮影の時には、たぶん10分と坐っていません。ただ、事前に坐蒲(坐禅用クッション)を用意してもらったので坐りやすく、坐相の決まりもよかったのです。

 とはいえ、「生きている気配がない」とか「物みたい」という二人の感想は、かつて前永平寺貫首、宮崎奕保禅師の坐禅を見た時の私の印象とまったく同じでした。

 二人とも生身の坐禅姿を見たのはこれが初めてということでしたから、インパクトが強くて当座そう感じたのでしょうが、108歳の生涯を坐禅で打ち抜いた禅師に私が受けた印象と、同じようなイメージを彼らが持ったと言うなら、自分の坐禅も少しはものになって来たかと、じんわり嬉しい気持ちがしました。

「頑張って」坐っていた修行僧時代より、確実に進歩したことを一つ。

 永平寺に入ってから5、6年は、坐禅堂か、少なくとも畳の和室でないとまともな坐禅ができませんでした。そもそもする気にならないのです。

 ところが、その後永平寺の役職者になり、国内外の出張が多くなってからは、そんな「贅沢」は言えません。そこで、場所も時間も無視して、坐禅の出来はどうであろうと、とにかく1日1回は坐ると決めて、今までやってきました。

 このどこでもいつでも坐る(坐蒲の代用品には工夫が必要)ことができるようになったのが、おそらくは私にとっての明白な進歩であり、存外、大事なことかもしれないと、写真を見ながら思った次第です。
 

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結構じゃないの。

2019年06月20日 | 日記
 数年前、30歳過ぎの男性と。

「ぼく、引きこもりなんです」
(え? いま喫茶店で、ぼくと会ってるよね?)

「そうなんですか・・・・?」

「もう5年も」

「お家にいるんですね」

「いえ、アパートで」

「え? ご両親とお家にいるんじゃないんですか?」
(あれ?あれ?)

「ひとりです。で、もういいかげん、人と会って、社会参加しないと・・・・」

「あの、もう一度伺いますが、あなたはいま、ご両親とは別に、一人暮らしをしてるんですね?」

「はい。で、引きこもってて・・・」

「すると、家賃とか生活費とか、ご両親からもらって・・・」

「いえ、自分で手に入れてます」

「え? どういうことですか?」

「ぼく、オタクで」

「はあ?」

「グッズも集めてるんですが、それをネットで好きなもの同士、交換したり売り買いしていたら、だんだん人が集まってきて、それで面倒見るのが大変になったんで、手数料をもらうようにしたら・・・・」

「生活費が出るようになった」

「そうです」

「どのくらいもうかるんですか?」

「多いとき少ないときの波がありますが、ならせば、月に14、5万くらいかな」

「えっ! だったら、アナタ、自営業者じゃないの!」

「そうですか?」

「だって、稼いで自活してるんでしょ?」

「はあ・・・。でも、もっと人と会って、社会参加して・・・」

「あのね、アナタ、いま人に会いたいの? 参加したいの?」

「いやあ、特に・・・・」

「じゃ、いいじゃん! 問題ないじゃん!!」

「でも、そうしないと、ダメなんじゃ・・・」

「なぜ? 君は一人で暮らせるくらいの収入があって、ネットで稼げる程度に人とつながり、それ以上誰かと付き合いたいと思わないんでしょ?」

「まあ、そうです」

「じゃ、そもそも何が問題なの?」

「いやあ・・・」

「もし『引きこもり』が問題だと言うなら、問題の一つは、生活費を他人に依存していて、将来に大きな不安があるということだろ。次は、孤立しているとか、孤独だとかいうことだろうけど、それは他人とつながりたい、他人に認められたいみたいな欲求あっての話じゃないの。それが無ければ、ただ物理的に一人でいるだけのことで、孤立してもいないし、孤独でもないよ」

「そうなのかなあ・・・」

「だって、夏目漱石の『こころ』という小説に出て来る『先生』は、夫婦二人暮らしとはいえ、ほぼ引きこもり状態の財産持ちで、昔は『高等遊民』と言ったんだよ。アナタも『自営遊民』みたいなもんじゃん」

「ぼく。このままでいいんでしょうか?」

「何がまずいの? 少なくとも『今のところは』結構じゃないの」

「いいんですかねえ・・・」

「アナタが心から人と会いたい、社会に出たいと思わない限り、何の問題もないし、問題にならないよ」
(これで坐禅でもしていたなら、『森の行者』ならぬ、『街場の隠者』で通用するかも)



追記: また大きな地震がありました。被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。
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