恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

テーマは何か

2023年12月01日 | 日記
 先日、中国地方の二つの県を、2泊3日で訪れました。永平寺時代の後輩のお寺に招かれたのです。

 道元禅師門下の曹洞宗寺院でも、本山や宗門認定の専門道場ならともかく、一般寺院で独立した坐禅堂を持つところは多くありません。私が招かれた2つのお寺には、それぞれ立派な坐禅堂がありました。
 
 実際、住職が坐禅堂と鐘楼(いわゆる鐘撞き堂)を造ることには、覚悟が要ります。坐禅堂を造った以上は、少なくとも自分が住職である限り、そこで坐禅をし続けなければなりません。禅師門下なら当然だろうと言われるでしょうが、修行僧であり続ける志を立て直す所業とも言え、簡単な決意でありません。造ったは良いが、最後は物置になってしまった、では余りに情けないでしょう。

 鐘楼もそうです。これを建てたとなれば、これまた住職である限り、毎日撞き続けなければなりません。つまり、一度建てた以上は、生涯ここで住職し続けると檀信徒に宣言するに等しく、これも簡単ではありません。世間には、タイマー付きの「自動鐘撞き機」があるそうですが、これは余りに寂しいでしょう。

 私が招かれた2つのお寺の一方では、鐘撞き堂の落慶に因み、檀信徒への説教と若手僧侶への講義を依頼され、他方では坐禅堂での講話と法要の導師をさせてもらいました。有難いご縁でした。ご参拝いただいた皆様、ありがとうございました。

 このうち、久しぶりに狼狽したのは、坐禅堂での講話をした時です。私は、この寺の住職から、近隣の僧侶が集まるから、彼らに対して話をしてくれ、と頼まれていたのです。ですから、多少経典や禅籍に触れて、それなりの話をすれば良いだろうと、そう考えていました。

 ところが、前日の夜、突然住職から電話があって、「すみません、直哉さん。うちで坐禅をしている在家の何人かが、お話を聞きたいと言っているので、よろしく」と言うのです。

 私は完全に僧侶向けの話を考えていたので、いささか気になり、「それ、何人くらい?」と訊いてみると、「四、五人くらいでしょうね」とのこと。ならば、少し言い回しを工夫すれば大丈夫だろうと、安心してその日は寝てしまいました。

 ところが、翌日その寺に着いて、いよいよ講話の時間になり、早めに坐禅堂に入って待っていると、やって来る人のほとんどが在家の方なのです。

「お、おい、これどうなってるんだ!?」

 私は永平寺時代に戻ったような語気で住職を呼びました。

「いやあ、えへへ、どうなってるんでしょう。私もこんなになるとは思わなかったんですよ。直哉さんなら大丈夫でしょ、まあ、お願いしますよ」

 永平寺時代と少しも変わらぬ態度でごまかされ、もうどうしようもありません。すでに坐禅堂は満席にちかく、30人以上の在家の方が入りました。もはや、用意の話はできません。中には、今日初めて坐禅堂に入り、坐禅をする人もいるらしいのです。

 私は急遽話を完全に変え、文字通り急ごしらえで40分を押し通しました。それほど暖かくない日だったのに、背中に汗をかきました。

 私はまず、自分が坐禅を始めた頃から話を始めました。最初は、正式な坐禅である結跏趺坐などとても組めず、半跏趺坐がやっとであったこと、以後40年、どのように坐禅と付き合ってきたかを聞いていただきました。その最後に私は言いました。

「皆さん。私が修行してきた坐禅は、昨今、世間で多く『瞑想』と呼ばれ、宗教色を排除したある種の精神衛生法として、『マインドフルネス』などと称されることもあります。精神衛生版フィットネスジムのように瞑想講座は繁盛し、瞑想専用ルームや瞑想グッズなどまで売り出されています。つまり現代人は、かくも精神的に疲労している、ということでしょう。

 私は今、そのような『瞑想』や『マインドフルネス』を否定しようとしているのではありません。実際、私に『心が疲れているので、坐禅をしたい』と言う人には、それ相応の坐禅の仕方を紹介しています。

 ただそれは、道元禅師の教えの文脈にある『非思量』の坐禅とは違います。これを行うには、仏法に対する学びと、坐禅する身体をきちんと造った上で、心身を制御する方法を手間と時間をかけて会得しなければなりません。

 ということはつまり、坐禅をしようという時、自分は何をテーマに坐禅するのかを明確にしておくことが大事なのです。それがたとえば、精神衛生法なのか、仏法なのか、という選択なのです。

 指導される側も、指導する側も、このテーマを共有しなければ、坐禅は深まらず、活かされません。

 今日、幸いにもこの坐禅堂で、皆様と共に坐禅をするという有難いご縁をいただきました。できれば今後も、それぞれにテーマを持たれて、さらに坐禅に親しまれてることを、願ってやみません。」



 

閉山しました。あと、若干のお知らせ。

2023年11月01日 | 日記
 恐山は本年も10月31日、無事閉山いたしました。ご参拝賜りました皆様、誠にありがとうございました。

 今年はコロナ禍が一段落し、全国的な傾向同様、恐山におきましても、ご参拝の方々の数がコロナ禍前に近い水準まで回復致しました。久方ぶりに大勢のご参拝を頂戴し、嬉しい限りです。

 今年驚いたのは、参拝は無論、宿坊に泊まられる外国の方が大変目立ち、例年にない数に達したことです。ほとんど連日、外国人どなたかの宿泊がありました。

 特徴的だったのは、その宿泊の方々の出身地のほとんどが、ヨーロッパだったことです。覚えているだけで、スペイン、イタリア、ドイツ、フランス、イギリス、ベルギー、オランダ、デンマーク、クロアチア、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、等々。団体も3組お越しいただき、驚いた次第です。

 この傾向が続くとなると、少なくとも英語のサービスが部分的にでも必要かと思いました。私の日本語の法話に、外国人団体全員が参加し、終わった後に通訳の方が内容を説明したと聞いては、せめて法話後に質疑応答の時間を設けるべきであったと、反省しました。来年以降の課題です。

 宣伝含みで恐縮ですが、お知らせを申し上げます。

 かねてより準備いたしておりました『正法眼蔵』講読本ですが、11月末の予定で、

『正法眼蔵 全 新講』第1巻として、春秋社から刊行いたします。正巻14・別巻1の全15巻になる構想で、ライフワークとして取り組むことになります。なんとか完成まで努力したいと思っております。

 あわせて、『正法眼蔵』を講義するシリーズ、「『正法眼蔵』私流」を、 来年1月16日より、東京赤坂・豊川稲荷東京別院様で開始いたします。
 
 講義は月1回(7、8、12月を除く)午後6時より90分、参加料として、お一人様1,000円を頂戴いたします。

 この参加料は、私が青森県から出講する往復交通費に充てさせていただきます。なお、4万円を超えた場合、超えた金額は別院様に喜捨申し上げます。

 豊川稲荷東京別院様におかれましては、以前の「仏教私流」に続き、会場のご提供を賜りました。まことに恐悦至極に存じ、深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

 以上、お知らせ申し上げました。何卒よろしくお願い致します。

合掌



 



雲水はつらいよ

2023年10月02日 | 日記
 禅の修行道場には、夏冬の2回、「安居(あんご)」と呼ばれる、言わば修行強化期間があります。期間中は境内から出ることを禁じ(禁足)、修行に集中するわけです。この修行は、ゴータマ・ブッダの在世時代からの伝統です。当時は「雨季の定住」という意味でした。。

 ゴータマ・ブッダの指導する最初期教団は、一か所に止まらず、行脚して修行していました。ただ、雨季は移動が困難な上、土中の虫や新芽を踏みつぶして殺生することを避けるため、一時的に定住して修行したわけです。

 初期経典には、ブッダがこの雨季の定住について語るものがあります。当時、ブッダは、ヴェーサーリ市郊外のベールヴァガーマカ村に滞在している最中に雨季を迎え、弟子たち次のように語りかけます。

「修行者らよ、あなたたちは皆、ヴェーサーリ市において、親友、知己、知り合いを頼って、雨季の定住に入りなさい。わたしは、ベールヴァマーカ村で雨季の定住に入る」

 初めてこの一文を見たときに驚いたのは、修行僧全員が一か所に定住して修行するのではないということです。私はこれを見るまで、自分の経験を前提に、当然全員一緒だ思い込んでいました。ブッダの信者である大商人あたりから提供された屋敷などで、集住したのだろうと。

 ところが、調べてみると、当時の教団は「知り合いを頼って」定住する者と、森の中に入って、仲間と野宿同然の「定住」をする者がいたようなのです。

 考えてみれば、最初期教団の最初期などには、まだ富豪の信者などいなかったでしょうから、定住も大変だったのでしょう。しかし、それにしても、「親友、知己、知り合いを頼って」とはキツいなあと、これを読んだ時にはつくづく思いました。いくら修行者に布施することが功徳として習慣化している時代と地域だとしても、ことは「定住」です。

 この「知り合い」が、出家後の仲ならまだよいとして、仮に出家以前の人なら、彼らに「定住」を頼み込むには相当の覚悟がいるでしょう。要は、一時期とはいえ純然たる「居候」です。修行僧が一切労働に関わらない以上、そうなります。

 自分の幼児期や、出家前の行状をよく知っている人たちに、「純粋居候」を依頼するには、修行僧としてのそれなりの態度や振る舞いで、「彼を世話してよかった」と思わせる決意と自信が必要でしょう。これを支える自律と自制の努力は、生半可ではないはずです。

 映画「男はつらいよ」の寅さんは、いつもは旅の空にあって、盆暮れに柴又に舞い戻ってきます。そこで血縁の無い「家族」に甘え、ほとんど好き放題の振る舞いをするのですが、彼は一時の「定住」の後、必ずそこを去って旅に出ます。無論、映画の上での話ですが、私にはそれが、まるで彼の厳然たる戒律のように見えます。

 寅さんは、「必ず去る」を前提に帰って来る。別れるために会いに来る。そして、死ぬために生きる。

「寅さん」という存在の哀愁と、その昔の修行僧の覚悟と自制には、何か相通じるものがあるような気が、私はしてならないのです。

 

 

恐山の石

2023年09月01日 | 日記
 年に2、3回程度のことですが、恐山には時として妙な封筒が送られてきます。その中には石が一つ入っていて、

「申し訳ありません。そちらの石を持ち帰ってしまいました。お返しします」

というような、短い手紙と、決まって千円が同封されています。

 これはどういうことかというと、石の送り主は、いわゆる「祟り」を心配しているのです。

 現在の恐山は誰も言いませんが、おそらく昔は言っていただろうと想像されるのは、

「恐山の石とか花とか、そういうものをこっそり持ち帰ると、かならず良くないことが起るよ」

 みたいなセリフです。

 こういうセリフは、要は、現在の景勝地によくある「勝手にものを持ち帰らないでください」という看板と同じで、神社仏閣でも境内の景観保存などの必要上、ものの持ち出しを防ぐ方便で、長い間「脅し文句」として使われてきたのでしょう。

 この「脅し文句」を、いま恐山のお坊さんが言うことはありませんが、仄聞するに、団体旅行の添乗員さんや、バスガイドさん、タクシードライバーなどの方々が、お連れになる「お客様」に「忠告」として言っているようなのです。

 問題はここからです。そういう「迷信」は一切気にしない人の中には、「記念」に恐山の石を持ち帰る者もいるわけです。

 実際持ち帰っても、特に問題は起こらないでしょう。

 ただし、どんな人でも、どんな家でも、生きていれば、そのうち必ず何かよろしくない事が起きます。それがたまたま、恐山に行った後に立て続けに起こったりすると、当事者は

「なぜだろう?」

となるわけです。そして、すぐ思い当たる「合理的」理由が見つからないと、「迷信」を一切気にしない人でも、

「ひょっとして、あの石」、「そういえば、あの石」、「きっと、あの石」


と、連想が展開して、「申し訳ありません」+千円 になるわけです。

 人間には、動物と共通する、強烈な本能的欲求があります。即ち、睡眠欲・食欲・性欲です。ところが、人間には、これら共通の本能的欲求に匹敵するか、それらを凌駕する、人間しか持たない、圧倒的な欲望があります。即ち、「理由に対する欲望」です。

 思うに、「理由に対する欲望」の圧倒的な強度は、ある根源的な不安に由来します。その不安とは、「自分がなぜ生まれてきたのかわからない」という不安、自己の存在理由が見い出せない不安です。

 この存在理由が不明で、自己の底が抜けている不安は、あらゆる工夫にもかかわらず、埋めることはできません。その根源的不安が「理由への欲望」を恒常的に強烈に刺激し続けるのだと思います。

「迷信」が世に消えることなく、「カルト」がはびこり、「霊感商法」が未だに通用し続けるのは、「理由への欲望」と「根源的不安」が、いかにしても解消されない、人間の「宿業」だからでしょう。

 ちなみに、恐山のものを勝手に持ち出す行為は、それ自体が「良くないこと」ですから、決してしないように、ご協力ください。

 






ありがちなこと

2023年08月01日 | 日記
「禅問答」と言うと、わけのわからない話の代表のように言われますが、すぐにわかるだけでなく、大抵の人が身につまされるような問答もあります。

 ある修行僧が、老師に質問しました。

「『仏の道に到ることは、難しいことではない。ただ選り好みすることを嫌うのだ』と言いますが、わずかでも言葉に出してそう言えば、選り好みでしょう。ここのところを、老師はどのように修行僧に教えて下さるのですか」

 ここで言う「選り好み」をするには、選択肢が用意されねばならず、ということは、「選り好み」の前提として、物事の「区別」が必要です。この「区別」は、言語の根本的な機能であり、さらに言語には「区別」から生じる「意味」を、それ自体で存在する「実体」であると錯覚させる力があります。この錯覚を解除しない限り、無常・無我・縁起の教えは体得できませんから、修行僧が引用する一文にも道理があります。
 
 だとすると、この引用された言葉も、言葉である以上は「区別」に基づくだろうから、「選り好み」になるだろうという修行僧の問いも、痛いところを突いていると言えるでしょう。

 これに対して、老師は言います。

「なぜ、君の挙げた言葉を含む全文を引用しないんだね」

 すると、修行僧が

「自分が覚えているのは、これだけです」

 そこで、老師は言います。

「まさにそれを『仏の道に到ることは、難しいことではない。ただ選り好みすることを嫌うのだ』と言うのだよ」

 老師の言は、我々がよく行いがちな、「自分に都合の良いところだけ、引用して使う」という態度への批判でしょう。ある単語・文・文章の意味は、それを含む全文のコンテクスト(文脈)に規定される以上、その全文の意味するところに見通しが立たない限り、部分の意味をきちんと捉えることはできません。老師はそこを指摘しているわけです。

 これはまったくその通りで、我々も肝に銘じなければいけないことですが、老師の言葉でもう一つ重要なのは、「選り好み」をしないからと言って、言葉そのものを否定するという「選り好み」をしてもダメなのだ、ということです。

 言語に囚われることと、言語を全否定して「言葉を超えた真理」を主張することとは、「実体」を設定する態度としては、変わりはありません。

 ある言葉が発せられた時、それはどういう条件下で、何を狙って言われていて、どれくらいの有効範囲を持つのか、それを慎重に考えることが、「選り好み」をしない態度なのです。すなわち、あくまでも言語によって、言語を相対化し、言語の限界を示すという、徒労に似た作業こそ、仏教における言語の扱い方なのだと、私は考えています。

身を以て

2023年07月01日 | 日記
 開山から1か月が過ぎました。今年はコロナ禍の下での規制が緩和され、恐山にもその影響か、5月の連休はもちろん、6月に入っても多くの参拝の方々にお越しいただいています。コロナ禍以前に戻ったとまでは言えませんが、ここ3年見られなかった数の方々がお参り下さり、恐山一同、有り難く存じております。

 緩和されたとはいえ、コロナ禍はまだまだ収束とは言えず、最近はまた感染者に増加傾向が見られます。にもかかわらず、恐山に限らず、多くの名所旧跡などに人出が戻っているという報道に接すると、丸3年以上の「自粛」が、我々にいかに辛いことだったかと、思われてなりません。

 それは単に「旅行欲」の話ばかりではありません。

 コロナ禍が始まって、まず我々に求められたのは、「ソーシャルディスタンス」でした。その強い要請と実際の不便から、突如世間に広まったのが、「テレワーク」であり、「在宅勤務」です。

 この「ディスタンス」の間を埋めるものとして急速に社会に浸透したIT技術は、仕事ばかりではなく、レジャー・娯楽方面にも急進出して、「バーチャル体験」を大規模に供給することと相成りました。

 この趨勢は、いわばIT技術による、我々のあらゆる体験における「身体性」の代替、あるいは消去に向かうものと言えるでしょう。

 しかし、未だ我々がこの「身を以て」実存する限りは、経験のリアリティを最終的に保証しているのは、まさに個々の身体そのものです。

 ということは、コロナ禍の3年は、人々はいわば「体験欠乏症」に陥っていたのであり、この旅行や対面活動の急回復は、ただの「欲」ではなくて、多少おおげさに言うなら、「実存の危機」への処方だったのだと思います。

「身を以て知る」「身に染みる」「身に覚えがある」「身につまされる」「身を粉にする」等々・・・、我々がこれらの日本語に意味を感じている限りは、当分「バーチャル体験」がリアルを呑み込むことはないでしょう。

 遠く下北半島まで足を運んでいただき、この霊場にお立ちになり、「地獄めぐり」をして、「極楽浜」でじっと手を合わせている方々を見ると、この地に「身に迫る」何かを感じることもお有りかと、お察しする次第です。

 

この先を考えるために

2023年06月01日 | 日記
 前々回の記事で、「 chat.gpt」などの所謂生成AIについて愚考しました。するとその後、この件で質問されたり意見を求められることが何度かあり、専門外の者が感想を述べただけなのに、妙な風の吹き回しになってきました。

 そこで、今後に鑑み、先々この件を考えるネタとして、メモのようなものを作っておこうと思います。

 生成AIについて考えるとき、事を二つに分けて考えたらどうでしょう。一つはその能力の評価、もう一つは社会的影響です。

 前者に関して言いうと、たとえば「 chat.gpt」相手に議論していると、時にこんなことを言い出します。

「私はあくまでも自然言語処理のAIであり、自分自身の考えや意志を持っていません。人工知能の技術的限界の範囲内で、正確な情報や適切な回答を提供することを目指しています。ただし、過去のデータから得られる情報に基づいて回答するため、時に正確でない情報を提供してしまうことがあります。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」

 ここからわかることは、

一、AIは「問い」を発見し、「問題」として構成することができない。自分自身に対して自ら「テーマ」を設定できない(少なくとも、今のところ)。
 ということは、最終的に人間に残される能力は、問いを発見することになる可能性がある。

一、AIは、「答える」機能しか持たない(少なくとも、今のところ)。
 ただし、過去の膨大な情報を収集して答えるため、「答える」能力は最早人間の及ぶべき域をはるかに超えているだろう。

一、「答える」能力は、どこまでも「過去のデータから得られる情報」を前提にしているから、AIに与えられた「問題」に関する専門家が「答え」を見ると、大抵は「どこかで見たことのある」「もう知っている」、即ち凡庸な「答え」しか出て来ない。

 だとすると、今後「凡庸な答え」を量産することはAIの独壇場になるでしょう。すなわち、あらゆる分野の多くの事務処理、あらゆる学校の学生が書く「レポート」の大半などは、AIの能力に及ばなくなるのは必定です。

 仮に、大学が学生の実力を知りたいなら、提出されたレポートではなく、レポートをネタに対面の口頭試問をして、書かれたことに匹敵する能力があるかどうか、評価しなければならないでしょう。

 では、社会的影響の方はどうでしょう。これには三つの側面があると思います。一つは「オリジナリティ」の問題=経済的な対価の問題、そして「フェイク」問題、さらに労働・雇用問題です。

 まず「オリジナリティ」の問題。これは要するに、文章なり画像なりの「作品」の作者が誰で、AIを道具として使って創作したなら、どこまでが「作者」の寄与なのかということです。

 この「オリジナリティ」が問題になるのは、「作品」が市場で売買される近代以降のことです。売買されないなら、誰がどう作ろうと何の不都合もありません。「作品」の対価を誰が受け取るのかを確定しない限り、売買する市場が成立しないから、「オリジナリティ」が問題なのです。

 ならば結局、現在の状況と同じです。「作品」の「盗作」問題に対処するように、この問題に対処するしかありません。ある「作品」について、誰がどのように貢献し、どうAIを使ったのか、それを鑑定する技術を開発し、専門の鑑定家を育成するわけです。その場合、「作者」は、「引用先」を明らかにするように、自分の使ったAIが、誰のどのような「過去のデータ」を使ったのか、明示しなければならないでしょう。

 次に「フェイク」問題。画像にしろ音声にしろ文章にしろ、驚くべき精度で「偽情報」を大量生産できる時代に突入しました。

 これは真偽問題をめぐる状況が次元の違う局面に入ったことを意味します。となると、真偽の判断のためには、最終的に情報の発信元を「身体的個人」として特定する方法を確立しなければならず、そのためには、現在のネット環境における匿名性のレベルを、かなりの程度引き下げることが、まず必要でしょう。

 匿名性がネットにおける大きな「強味」であることは理解できますが、局面が変わった以上、この「強味」は根底から再検討すべきでしょう。

 その上で、情報の真偽を判定する公的な独立機関を、分野別に複数設立する必要です。そうでないと、言論の自由が大きく毀損されることになりかねません。

 最後に労働・雇用問題。AIが現在の「ホワイトカラー」の仕事の大半を代替することは、近い将来避けられないでしょう。つまり、「失業者」が大量に出現するわけです。

 そういうと、必ず出て来る話が、「AIができることはAIに任せて、人はもっと『創造的な』仕事をすればよい」というものです。

 こういうことを気楽に言う御仁に私が訊いてみたいのが、「創造的な仕事がそれほど多くの人に可能で、それほど多くの人を必要とするのか」ということです。すなわち、大量に生じる「失業者」を吸収できるほどの「創造的な仕事」があるのか、大いに疑問なのです。

 もし無いなら、結局は「多くの人が働かなくても生きていける社会」を許容し、編成するしかありません(その場合、「働く人」と「働かない人」の関係をどう設定するかは大問題でしょう)。

 これはさらに根源的な問題を提起します。それはそのような「働かない社会」における、「アイデンティティー」の問題です。

 大雑把に言えば、近代以前、「そのヒトが何者であるか」は「身分」が規定したでしょう。それが近代以降は「職業」になりました。現代において「無職」であることが、時に「正体不明」の「危険人物」視を招くのは、そのためです。
 
 では、「働かない社会」で、ヒトは自らの「アイデンティティー」を何に基づいて構成するのでしょうか。「職業」ではなく「遊び」か? 何をしてどう遊ぶかが、人間の在り方を決めるのか? あるいは「アイデンティティー」を放棄して生きるか? それは可能なのか? ひょっとすると、最大の問題はこのことかもしれません。

「最大の問題」の彼方には、根源的な問題があります。

「今のところ」、我々は人間とAIを厳然と区別して考えています。どんなに有能でも、「AIには心がない」、と。

 しかし、AIはいつまでも「心がない」、即ち「自意識がない」ままでしょうか。DNAがコピーエラーを犯し、それが進化の引き金になったように、プログラムのバグの累積が、思わぬ「超プログラム」を生み出すかもしれません。

 そして、その「超プログラム」が、①何かするための道具を作る道具を作り、②何らかの疑問を持ち、③時に嘘を吐き、④損得の取り引きができるなら、それは「自意識」だと考える以外にありません。なぜなら、「自意識」とは、自己についての意識ではなく、自己と他者(対象)との関係に対する意識、関係に関係することだからです。

 以上の4つは、予めプログラムできません。①と②は、その時その場での、対象と主体の関係を認識できない限り、不可能です。③と④はさらに面倒で、他者と自己の意志と欲望を想像し認識できない限り、あり得ません。

「超プログラム」の出現がお伽噺なら、それで構いません。ですが、人間の脳にチップを埋め込み、ネットに直に接続する実験が始まったらしい現在(「フォーブス・ジャパン」5月27日配信)、人類は自らネットに「超プログラム」を流し込もうとしているようにも見えるのです。

 

べろべろばー

2023年05月02日 | 日記
 八時半の電車の中は、通勤や通学の人々が互いの体で互いの体を押して、時に波打ちながらも、無事に立っている。その光景は昔ながらだが、当節はこの混雑の最中に、人はそれぞれ、いくつもの体の隙間から片手を抜き出して、スマートフォンを見ているのである。

 このいつもの様子が、その日いささか違ったのは、ほぼ黒と紺の一色の車内に、パステルカラーの親子が一組混じっていたことだ。

 三十歳くらいかと見える母親は胸に乳飲み子を抱き、幼稚園の帽子らしきものを被る女の子が、母親の左腕につかまって立っていた。胸から迫り出した赤ん坊は、前に坐る男の頭のすぐ上に来ていたが、幸い、彼はスマートフォンに没入していて、赤ん坊の尻には気がつかない。

 姉らしい女の子は、林立する周りの男の中に埋没して、自分の上空の酸素を吸われてしまって苦しいかのごとく、時々口を開いたり閉じたりした。

 私は、この母親のすぐ右隣りに立っていた。何もこの時間に電車の乗らなくてもよさそうなものだ。まあ、事情があるんだろう・・・などと思うともなく思っていたら、いきなり電車が大きく横揺れした。

 すると、それまで首を上に90度折り曲げて、天井をぼんやり眺めていた赤ん坊が、「あー、あっ、あっ」と唸りだした。

 最初呟くようだったその声は、次第におおきくなった。「うああー、おうおう、ああー」

 母親の落ち着いた「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」も、赤ん坊の声に合わせてテンポが速く、口調が強くなった。

「あっ、あーあー、うああああ」

 周りの大人の何人かが、顔を母親に向け始めた。

「うっせえなあ」 

 かすかだが、私に聞こえるのだから確実に母親にも聞こえる声が、近くから漏れた。

 その時、赤ん坊が、息を止めて、顔中を丸めた紙のように皺だらけにした。

 アッ、泣く、と私が思った刹那、おそらく泣こうとして大きく口を開け、薄目を開けた赤ん坊が、私を見た。その瞬間、まさに条件反射で、私は無言のまま、目を大きく見開き、口を「あ」の字にして、舌を出し、

「べろべろばー」

 赤ん坊は驚いたのだろう。顔が固まった。この直後、自分が原因で泣かせたら、もっとまずい。私は続けざまに顔芸を繰り出した。

 すると、赤ん坊は、固まったままで、目だけ私を捉えている。

 隣の母親は私の左手の陰になり、顔芸を見ていない。周囲の者も、相変わらずスマートフォンか、そうでなければ眼を閉じた居眠り状態で、おそらく私の努力を知らない。

 が、ふと視線を感じて下を見ると、英語の単語帳を手にもった女子と視線が合った。合ったと思う間もなく、全く無表情なまま、彼女は単語帳に視線を戻した。

 大量の降車のある駅で、親子も降りた。おそらく、私の顔芸は結局、母親は無論、周囲の誰にも気づかれなかっただろう。

 私の降りる駅に着いた。ドアが開き、外に出た途端、左から声がした。

「ごくろうさまでした」

 リュックを肩にかけた女子が、私を足早に追い越した。

 彼女は見たのか。私はちょっと嬉しかった。

 そして、そのちょっとの嬉しさが、情けなかった。




番外:公式ホームページをしばらく閉じます。

2023年04月01日 | 日記
これまで外部に管理を委託していた「霊場恐山」公式ホームページを、3月末をもちまして、しばらく閉じさせていただくことに致しました。

これまでご覧いただいた方々、またホームページを通じて「太鼓橋」にご寄付を賜った方々、誠にありがとうございました。

ホームページの再開は、今後折を見て、院代または恐山スタッフの管理で行いたいと思っています。
その間、当ブログが、ネット上における恐山「公式」情報の、唯一の発信元となりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

院代合掌


AI老師は「脅威」か

2023年04月01日 | 日記
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」

『正法眼蔵』「現成公案」の巻にあるこの有名な一文を、昨今話題のソフト「Chat.GPT」に解釈させると、次のようになります。

「この文は、仏教における自己修行の意味を述べています。直訳すると、『仏教を学ぶということは、自己を修めることである。自己を修めるということは、自己を超越することである。自己を超越するということは、万物に対して真理を証明することである。真理を証明するということは、自己や他者の身心を超越して解脱することである。』となります。つまり、自分自身を修めることで、自分自身や他人の身心を超越し、真理を証明し、解脱することが仏教の目的であるということが述べられています。」

 私は驚きました。このレベルの文章は、その昔に坊さんの書いた解釈本にいくらでも出て来たからです。しかも、文章の明晰さは、そのほとんどより、はっきりこちらが上だと思います。

 そこでさらに、「実存哲学的に」解釈するように依頼すると、

「この文には、実存哲学的な要素が含まれています。具体的には、人間存在の自己超越性や解脱の概念が示唆されています。
まず 、『自己をならふ』という表現は、自己の内面に向き合い、自己を理解し、自分自身を超越するための修行を行うことを意味します。これは、実存主義においても重要な概念であり、自分自身を知り、自分自身を受け入れ、自己を超越して自由に生きることが求められます。
また、『自己をわするる』という表現は、自己という概念自体を否定し、超越することを意味します。これは、実存主義においても中心的なテーマであり、自己中心的な見方を捨て、他者や世界との関係性を通して自己を理解することが求められます。
さらに、『万法に証せらるる』という表現は、真理や宇宙の本質を理解し、自己を超越することで、普遍的な真理を理解することができるということを示唆しています。これは、実存主義における『本質的に人間は自由である』という命題にも通じるものであり、自己を超越することで、人間存在の本質や目的を理解することができます。
最後に、『自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』という表現は、解脱の概念を示唆しています。自己を超越し、他者や世界との関係性を通して自己を理解することで、自由な存在となり、解脱することができるということが示されています。」

 言いたくはありませんが、引きこもり同然の生活をしていた学生時代の私が、徹夜で晦渋な哲学本を読んで「睡眠不足ハイ」になりつつ、自己陶酔の果てに書いた文章のようです。

 囲碁や将棋で、プロの名人がコンピューターに負け、会話するロボットが現れ始めた頃、私はいずれ、小説やドラマの脚本を書き、作詞作曲をし、絵を描いたり彫刻するロボットが出て来るのではないかと思いました。

 なぜなら、人間の「創作」という行為も、基本的には、各ジャンルの過去のデータを踏まえ、設定された目的に合わせた一定の方法で、そのデータを編集することだからです。ならば、「何をするか」という目的の設定は人間がするにせよ、「一定の方法」をプログラムできれば、ソフトが「作品」を出力するでしょう。

 しかし、それができる時代がこんなにも早く来るとは。しかも、過去のデータの蓄積は、人間の脳の及ぶところではありません。つまり、ソフトに比べれば、学者の「博識」、図書館の蔵書など、ものの数ではありません。

 いまのところ、もっと長い、数段落にわたる『眼蔵』の文章を解釈させると、稚拙さが目立ちますが、このソフトは無料なので、多くの人がアクセスすればするほど、「学習」を続けて進化し、精度を上げるはずです。ならば、コントロールの仕方によっては、次第にある種の「独創性」を示すようになるでしょう。将来、驚くべき内容の『眼蔵』解釈本が出る可能性は、決して低くありません。

 では、人間の出る幕はなくなるのか。人間が書くよりずっと優秀なAI老師の解釈が登場して、我らが師家の「提唱」は無意味になるのか。

 名人がソフトに負けた将棋界は、今、新たな世代が現れ、大スターが君臨しています。彼らは、将棋ソフトを勉強のために縦横に活用し、人々を魅了する勝負を繰り広げています。

 ならば、我々もソフトに学んで、それを上回る『眼蔵』解釈を提出すればよいのです。

 さらに言えば、ソフトはあくまでも過去のデータを蓄積して編集するに過ぎません。それを行う目的は人間が設定するのです。では、なぜ人間はそれをするのか。けだし、我々が自らの存在の意味を問い、何らかの方法を選んで、生き方を構築していくためでしょう。

 ソフトの『眼蔵』解釈がいかに優れていたとしても、出てきた解釈を受けて、人間の生き方に位置づけて語ることができるのは、我々なのです。それに共感するのも反発するのも、我々です。
 
 我々の中の何人かは、仏教や『眼蔵』を必要とするでしょうが、全てのAIには、仏教も『眼蔵』も要りません。と言うよりも、我々に仏教が必要である限り、AIの解釈だけで事は済まないのです。

 おそらくは、僧侶だろうと学者だろうと、今後の仏教の学びは、予想のつかない展開に向かうでしょう。今の私には、それが悪いことのようには、思えないのです。