恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

自己からの逃走

2021年12月01日 | 日記
 今から80年前、太平洋戦争開戦の年に出版された本に『自由からの逃走』があります。エーリッヒ・フロムという社会学者の著作で、私も大学時代に読みました。

 実は私は、この本を書店で見たとき、その題名だけで勝手に頭が回転し始めたことを覚えています。それほどこの題名は私にはインパクトがありました。その時に私が考えたのは次のようなことです。

 ひと口に自由と言っても、人間は束縛から自由になる場合は、なるほど結構なことだが、その後、今度はそのまま自由に生きて行けと言われると、そう簡単にはいかないだろう。

 例えば、自らの将来を決める時、具体的には選択に次ぐ選択が身に迫る場合(自由の実質が選択の自由になる)、選択肢に関する知識を得て、決定の責任を自ら負うことは、往々にして大きな負担になる。

 それを誰かが引き受けて、万事よろしく手配してくれれば、そのほうが自分は楽だし、結果も自己決定によるより、はるかにマシということになるかもしれない。

 ならば、手元の「自由」を誰かに引き渡し、決定の困難や責任の重みから逃げようと考えてもおかしくない。まさにこの傾向が個人を超えて社会全体の風潮になった時、すなわち社会秩序が動揺して、個人の多くが方向性を見失い、決定の困難と責任に耐えがたくなれば、多くは自由から逃走して、そのことが全体主義の台頭を招く事態に至るだろう。

一つ注意しないといけないのは、今の時代、全体主義はかつてのファシズムやナチズムのように過激な政治体制で出現するとは限らないことです。

「自由からの逃走」は、一面「面倒がなく、ラクになる」というところがありますから。今後、IT技術などを用いて情報を操作し、AI技術を駆使して人間がものを「考える」ことが代替されるようになれば、それを「便利でラク」だと思えば、人々は無自覚かつ積極的に「自由」を全体主義に譲渡するかもを知れません。

 実際に本を読んでみると、当時の私の考えと重なるところや、感心する卓見が多々あったのですが、個人における決定の困難と責任に関する言及は、あまり多くなかったように記憶しています(むしろ無意識を通じて作用する社会常識や社会秩序のダイナミズムを重視しているように思えた)。

 最近この本のことを思いだしたのは、昨今のいわゆる「ポピュリズム」的政治家の各国における登場に際して、あらためてこの著作に言及する言論人が何人かいたからです。

 そこでふと思いついたのが、「自己からの逃走」という言葉です。

 以前にしばしば言及したように、「自己」という実存は、最初から負荷がかかっています。つまり、その存在が「他者から課せられる」構造になっているからです。肉体も言語も社会的人格(名前)も、すべて他人から与えられ、他人を通じて「私」が何者であるかを知らされなければなりません。

 その場合の「他者」は特定の誰かではありません。いわば自己が自己である不可欠の条件として存在構造に組み込まれているものなのです。したがって、この他者との関係が不調になると、「自己」という実存には重大な危機が生じ、それが大きな負担になります。負担が耐え難くなれば、その「自己からの逃走」が起きるでしょう。

 では、「自由からの逃走」が全体主義を招くとすれば、「自己からの逃走」は何を招くでしょう。

 一つは依存症でしょう。私は何人か依存症に苦しむ方とお会いしたことがありますが、どなたもその根底に、人間関係の葛藤があり、そこから慢性的な苦痛を受けていました。

 依存症は、いわば何かに「溺れる」ことで、自己を忘却し、「他者から課せられた自己」という構造から離脱したいのです。これが極端になれば、自死に到るかもしれません。『自由からの逃走』のフロムに言わせれば、それが「マゾヒズム」になるでしょう。

 あるいは、課す「他者」を抹消して構造から逃避しようとするかもしれません。その場合、これは「動機なき殺人」「無差別殺人」「死刑なるための殺人」になるかもしれません。

 なぜなら、そのような殺人者は特定の誰かを恨んだり憎悪しているわけではないからです。彼らが取り除きたいのは、「自己」の条件として組み込まれている「他者」であり、それは彼らには他者一般、「誰でもよい」他者として現れるからです。フロムの考えでは、それが「サディズム」に当たると思います。

 ただ、私は逃走そのものが悪いとは考えません。問題はその方法なのです。苦境を脱する方法の一つとして、逃走という選択はあるべきです。

 たとえば、「出家」はその方法の一つでしょう。それまでの「自己」から離脱して、次の「自己」を手作りする。これが仏教の「出家」なら、「出自己」と言い換えることもできるでしょう。

「自己」からの逃走が、「自己」の否定や破壊になることは避けるべきでしょう。「自己」とは、「人間」という実存がこの世で採用せざるを得ない存在形式なのです。ならば、場合によって形式の変更や改良は、あり得るはずです。

 けだし、「自由」と「自己」は根源的には負荷としての存在なのであり、それを逃げずに、取り扱い方を考えつつ、あえて引き受ける決意と覚悟によってこそ、「自由」は実現し、「自己」は発動するのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅れる言葉

2021年11月01日 | 日記
 恐山の秋季祭が無事終了した直後、とあるメディアの企画で対談をしました。わざわざ関西からいらっしゃった対談相手は、藤田愛さんという訪問看護師の方でした。

 関西では、今年春の新型コロナウイス大流行が、入院できずに「自宅療養」(実際には自宅放置でしょう)状態のまま、大勢の患者さんが亡くなるという惨事を招きました。

 藤田さんは、その最中、若い看護師さんを率いて、感染症とのギリギリの戦いの最前線で苦闘された方です。

 お目にかかった最初から、私は「この対談、大変かもなあ」と思いました。法要の直後にご挨拶をいただいたので、そのまま本堂をご案内したのですが、ほとんど私の言葉が聞こえない様子でした。おそらく、胸に畳み込んで来た様々な感情や思いがあって、恐山に着いた途端に、その雰囲気に飲み込まれたのだと思います。

 感受性が強く、厳しい経験をした人の中には、恐山の雰囲気に強く感応する人が少なからずおられます。藤田さんも、まさにそういう人に見えました。

 食事が終わり、夜の対談になった時には、話し始めた最初から、大きく見開かれた目が潤んでいました。

 藤田さんは、修羅場とも言うべき状況の中、看護のリーダーとして奮闘してきた方です。春の流行が一段落した後は、その過酷な経験と、そこから得られた知見・提言を、様々な公の場で語って来られたそうです。そういう役目も十分に果たす、気丈な方なのだと拝察します。

 しかし、生きるか死ぬかの人を前にして、普段ならば対処し得るはずなのに、薬も器具も、受け容れてくれる病院も無い中で、彼女自身が経験した感情や思い、その悲しみと苦しさ、それらはまだあまりに切実で、語ろうとしても言葉が心に阻まれてしまうようでした。

 彼女の涙は、ただ自分の感情から流れるだけではなく、言葉が追いつかない切なさにも由来していたでしょう。

 訪問看護は、混乱の中とは言え、設備とスタッフが控える病院で、患者を看るのとはわけが違います。苦しむ人の家の中、家族の中に踏み込んで行くわけです。そこには、疾患とは別に、患者に絡みつく様々な困難さえあったでしょう。感染をきっかけに家族が激しく争うところで、看護したこともあったそうです。

 敢えて類型化して言い切れば、医師は基本的に病気を相手にすればよい立場でしょうが、看護師の相手は人間です。病気の治療が不可能になれば、医師の役割はそれまでです(緩和医療はまた別の話です)。しかし、看護師はその不可能の後、最早患者ではなく、人間に関わるわけです。ならば、病院でなく、さらにその患者の家にまで行けば、もはや彼だけの問題ではすみません。

 息子をなんとか入院させてくれと手を合わせて懇願する老母を前に、どうしても病院が見つからず、やっと見つけた病院に搬送できた翌日、母親に様子を尋ねる電話をしたら、息子はその朝に亡くなっていたこともあったそうです。

 前日に症状が軽かったので大丈夫だろうと、訪問の順番を後に回したら、部屋ですでに亡くなってしまっていた。その事実を言うだけで、藤田さんの声は震え、何度も何度も消えました。

 私は藤田さんに思わず「交通事故のような経験」と言ってしまいました。彼女にはこの「交通事故」という言葉が随分印象深かったようです。

 交通事故に遭うとわかっていて、事前に準備できるわけがありません。事故はいきなり起こり、驚愕と恐怖に襲われ、どうしたらよいかわからないまま、それでも何かをしなければなりません。

 交通事故なら、普通は警察と救急車を呼ぶことまではできるでしょう。しかし、藤田さんの経験したことは、警察はともかく、もう病院も保健所も頼れず、救急車を呼んでも来てくれない危機的状況だったのです。

 藤田さん同様、大きな災害、事故の被害者、理不尽な犯罪の被害者、そして遺族、この方たちの経験には、言葉が追いつきません。遅れてしまうのです。しかし、この遅れを耐え、言葉が追いつくまで悲しみと苦しみを抱え続けることが、私は必要だと思うのです。

 その過酷な経験を語ることで意味を与え、誰かがそれを聞くことで、ついには「私」という物語の一部として織り込まれていくことが、人が生きる上で必要なのだと、私は思います。
 
 この度の藤田さんとの対話は、人と言葉の関係について、感慨を新たに考える機会となりました。




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと始めました。

2021年10月01日 | 日記
 遅くとも還暦までには始めたかったのですが、中々着手できず、この春ようやく始めたことがあります。『正法眼蔵』全87巻及び拾遺5巻と「弁道話」の講読と現代語訳です。

『正法眼蔵』は旧草と言われる75巻と新草12巻を称するのが一般で、それに拾遺として数巻が加わります(「弁道話」は当然のように『眼蔵』として扱われることが多いですが、全くの別物)。私としては、大方が現在入手しやすい、岩波文庫版に収録されている巻の全てを対象に、講読と現代語訳をしようと思っています。

 最近出版された『眼蔵』本は多くが僧侶ではない方によるもので、しかも全巻を扱うものはありません。古いものでは、『正法眼蔵全講』と題した、岸沢惟安老師の全巻講義があります。私の企画はそれ以来です。

 私としては今回、本文・講読・現代語訳という構成で全巻解釈を目指しています。無謀と言われて当然で、命あるうちにできるかどうかというところでしょう。
 
 旧知の出版社がこの企画を引き受けてくれたのですが、驚いたのは全3冊に編集したいというのです。普通なら本文だけでそのくらいになりそうな量です。加えて講読と現代語訳をすれば、ざっと3倍です。それを全3冊となれば、一冊は辞書か事典、レンガのようになるのではないか? 心配です。

「3冊なら、読者が全部買ってくれる可能性は高まりますが、全10冊とかですとねえ・・・」
 
 そう言われると、確かにそうだなとは思うのですが、私はどうしても全巻講読と、本文・講読・現代語訳の構成だけは死守したいのです。これを3冊でやると言う編集者を信用してはいるのですが、やはり一抹の不安が。

 最初の1冊の出版はまだまだ先になりそうです。そこで、原稿の一部を紹介して、こんな感じのものにしたいというところを、お目にかけたいと思います。もし機会があったら、アドバイスいただけると有難く存じます。


正法眼蔵第二 摩訶般若波羅蜜

 この巻は、道元禅師による『般若心経』の解説である。
 表題はサンスクリット語の音写で、「摩訶」の意味は「偉大な」、「般若」は「悟り至る深い智慧」、「波羅蜜」は「彼岸に至る」、である。「彼岸」は、我々の生きる世界に対して、解脱や悟りによって到達する世界を言う。すなわち「悟りの世界に至る偉大なる智慧」が、「摩訶般若波羅蜜」の大意である。
『般若心経』は、大乗仏教における般若経典群が提示する「空」思想の核心を説くもので、日本で最も親しまれている経典の一つであり、複数の宗派で読誦されている。

《本文》
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見、これ般若なり。

《講読》
『眼蔵』で特徴的なのは、引用する経典や論書などの読み方を換骨奪胎し、まるで違う意味に読み替えて、極めて独自の思想を展開して見せることである。その代表的で、かつ最初の例が、本巻冒頭の一文である。
 
冒頭の「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」は、漢訳『般若心経』では「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」であり、読み下せば、「観自在菩薩が深き般若波羅蜜を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見したまえり」となろう。
 
 すると意味は、「観音菩薩が悟りに至る深き智慧の修行をしている時、人間の存在を構成する五つの要素はすべて空、すなわち実体を持たないものであると、認識した」となる。「照見」は悟りの智慧によって照らし・見極めた、ということである。
 
 ところが、『眼蔵』は「観自在菩薩」の対として新たに「渾身」の語を挟んだ上で、この通常かつ常識的な読み方を一変させてしまう。その読み方を構造的に示せば、観自在菩薩=行深般若波羅蜜時=渾身=照見五蘊皆空、である。読み下せば、「観自在菩薩は行深般若波羅蜜時であり、その渾身が照見五蘊皆空である」となる。この著しく独創的な読みは、行為が存在を規定するという縁起的観点に依拠している.
 
 観自在菩薩は観世音菩薩とも言われ、大乗仏教では慈悲を象徴する菩薩である。ちなみに菩薩は、上座部では如来が成仏する前の修行段階の身を意味し、大乗仏教では、すでに成仏できる段階なのに、衆生を救済するために、敢えて成仏せずに世に留まる修行者を言う。
 
 この「観自在菩薩」と称される存在の仕方は、深遠なる般若波羅蜜を修行している限りにおいて、構成され・維持される。つまり、そのように修行することによってのみ、菩薩であり得るというわけである。

 ここで「時」の一字に注目しなければならない。存在が行為に規定されているとは、存在が時間的であることを意味する。その行為する時間を担い、現実化するのが菩薩の全身体であるが、その身体を菩薩の身体として実存させるのは、「五蘊はすべて実体ではない」と認識する行為なのである。この行為無くして、菩薩の存在も身体も無い。無いなら、別の存在であり、別の人である。
 
 この冒頭一文は、存在するものの存在の仕方を、縁起としてみる考え方、その縁起の実質を行為とするアイデアを鮮やかに提示している。だから、「五蘊」の色薀・受薀・想薀・行薀・識薀を五つの「般若」だと言い得るのだ。

 「薀」は集まりの意味であり、「色」以下は集まりの構成要素である。本来は人間の存在を構成する要素を言うが、色薀が人間の身体と同時に物質一般をも含意するので、結局五蘊で一切の存在を構成することを主張している。色薀は身体を始めとする物質であり、受薀は感受作用、想薀は表象作用、行薀は意志作用、識薀は認識作用を担保する要素である。
 
 これらは仏教的には煩悩の発生源と目されるが、縁起の観点からすれば、要素に実体は無い。この「実体は無い」というアイデアは、常に何ものかについての認識であるから、そのように認識された対象は、それ自体が「般若」の智慧として改めて現成する。「五枚の般若」とはその謂いである。
 
 だとすれば、「実体は無い」という「空」の認識が「照見」で、その「照見」こそが「般若」であることは自明であろう。つまり、般若とは、空の認識に至る智慧のことなのだ。
 
 以上に見たような、原典の文脈を縁起的観点から解体して、既成の固定した意味や概念を無効にし、改めて観無常の思想を語る独特の手法は、以下の各巻でも多用される。その結果我々が目にするものは、すでに出来上がっている思想の表現と言うより、無常であるが故に固定しがたい思想を語ろうとする、言語の運動なのである。即ち、『正法眼蔵』とは、完結しがたい思想的運動として現成するのだ。


《現代語訳》
 観自在菩薩は、深遠なる空の認識に至る智慧を修行している限りにおいて実存する。その実存を担う身体は、存在を構成する五つの要素には実体が無いと認識することにおいて、菩薩の身体として現成する。そのように認識することが、空に至る智慧なのである。




 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問題の所在

2021年09月01日 | 日記
 私は昨年の4月8日付の記事(「番外:アンタは本気か?」)で、政府がパンデミック対策で大幅に人流を抑制し、人と人の接触を減少させようというなら、目的と期間を限定したロックダウンのための法律を、直ちに制定すべきだと主張しました。当然のことだと思ったからです。

 強力なワクチンや治療薬が普及するまでは、この法律を武器に、しばしばロックダウンを繰り返して、極端な蔓延を回避するしか有効な手段がないことは、少し考えればわかることでしょう。

 後に、防疫についての考え方である「ハンマー・アンド・ダンス」という言葉を知りました。ロックダウンの「ハンマー」で叩いたら、しばらく規制を緩めて「ダンス」を楽しませ、それで感染が増えたら、またハンマー叩く。これを繰り返しつつ、感染を鎮静化させるというのです。私の考えていたことと同じです。

 ならば、政府がやるべきことは、「ハンマー・アンド・ダンス」の見通しと対策を国民に具体的かつ十分に説明し、それに必要な負担の理解を得る努力でしょう。そして、決めたら断固として実行する。それほど難しいアイデアではないはずです。

 ところが、我が日本国の政府は、そのような対策を今に至るまで全く行おうとしませんでした。やっていたのは「後手で」「場当たりで」「希望的観測ばかりの」「責任の所在が不明な」ことばかりで、目前に見せられたのは、状況変化に右往左往する無様としか言いようのない姿です。

 こいつらはバカなのか?

 しかし、いくらんなんでも、全員バカぞろいという組織はないでしょう。しかも、その「バカ」は我々が選んで任せている以上、むしろ我々の「バカ」が反映していると考えるほうが真っ当です。
 
 すでに世上でも、敗戦と東日本大震災と今回のパンデミックを比較して、指導者層(権力機構)の振る舞いに共通するものを指摘する議論が出てきています。父親が昔、「最初の失敗は許すべき。2度目の失敗は責任を問う。3度同じ失敗をするヤツは馬鹿だから、諦める」と言っていましたが、もう3度どころか5度目で、しかし諦めてすむ話ではありません。

 これほど繰り返すということになると、やはりその時々の個人の資質の問題ではなく、国民の資質の問題と言わざるを得ないのではないでしょうか。

 このとき、私が思うに、我々日本人に乏しいのが、「根拠やデータを明示して自分のアイデアを他人に説明した上で行動し、結果の責任をとる」「説明を聞いた側も、納得したなら応分の協力を義務と心得て、反対なら対案を出す」という行動パターンです。

 私はこれを、現下の政治家は無論、概して我々「日本人」に大いに不足しているものだと思います。

「説明と納得、責任と協力」を重んじる行動は、特に非常時には大事でしょう。全員が初めて経験する事態に対しては、トライ・アンド・エラーで打開を図るしかないからです。そのリスクを共有するのに、説明も納得も無く、責任も負わず、協力の義務もなくては、どうしようもありますまい。

 ところが、地縁血縁をモデルに長らく共同体を組織してきた「日本」においては、そうである以上「ありのまま」「そのまま」で物事が進むことが理想とされます(基軸の地縁血縁が簡単に変化しては、共同体の秩序を作ることはできない)。つまりは、「前例」にならって、そつなく真面目に事を処理することが第一とされ、それができる能力が尊重されるわけです。

 ならば、「ありのまま」大事の組織の中で、お互いに説明を求めたり、責任の追及や協力の義務を明確にする態度は、組織に分断と摩擦を持ち込むことにしか見えず、まずは回避されるか、そうでなければ徹底的に排斥されるでしょう。

 したがって、共同体の「ありのまま」を破綻させる危機的状況に立ち至ると、我々「日本人」が持つ指導者たちは、いつの時代にも対処の当事者能力を失うことになるのではないか。

 もしこれが「当たらずと言えども遠からず」ならば、今回のパンデミック後に我々がしなければならないのは、将来の危機を当然のことと考え、これまでの失敗の過程を政治・社会・経済の各方面から徹底的に検証し、脱「ありのまま」の行動パターンを、小学校から学ばせることでしょう。一番必要な教育改革・社会改革とはこれで、小手先で入試をいじったり、上滑りのデジタル化の音頭をとることでもありません。


 



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魅惑の「独覚」

2021年08月01日 | 日記
 仏教の修行僧を三種類に分ける考え方があります。「声聞(しょうもん)」「独覚(どっかく)または縁覚(えんがく)」「菩薩(ぼさつ)」です。

「声聞」は、ブッダの教えを聞きながら修行し、四聖諦を悟る者を言います。

「独覚」は、ブッダの教えを聞かないまま、十二支縁起を悟り、それを他人に説かない者です。要は師匠を持たず、僧団に属さないで、単独に修行する者でもあります。

「菩薩」は、初期仏教(上座部、あるいは部派仏教)では、ゴータマ・ブッダの修行時代を言います(釈迦菩薩)。大乗仏教では、すでに悟りを開いているのに、人々を救済するために、あえて成仏せず涅槃に入らず、釈尊の教化や救済を助け、代行する者です。

 このような3種類の区別は、大乗仏教が成立した後、それ以前の初期仏教に対する優越性を強調するために設定されたものです。そこで強調されているのは、「声聞」と「独覚」は自分の修行と悟り(自利)に固執・専念して、衆生の教化や救済は無視しているが、「菩薩」は自らの悟りや修行より、まさに教化と救済(利他)の為に尽くす、という違いです。

「声聞」の悟りに四聖諦が当てられ、「縁覚」に十二支縁起が当てられるということは、「菩薩」には空・縁起ということでしょう。いかにも教条的です。

 大乗のイデオロギッシュなアイデアを棚上げして、この区別を見直してみると、いろいろ面白い解釈ができると思います。

「声聞」は要するに普通のブッダの弟子です。ですから、四聖諦を納得できれば、さらに十二支縁起など、他の教えを学んだに違いありません。さらに一人前になれば、当然、自分の弟子や在家の人々に教えを説いたでしょう(でなければ、存在意義はない。布施もされない)。自己の悟りだけですますはずがありません。

 考えてみれば、仏教の救済とは、詰まるところ、成仏する(させる)ことです。そのための教えを説くのは、まさに「利他」行に他なりません。無視どころの話ではないでしょう。

「独覚」について言うと、私は長年、この存在の不思議さに魅惑されてきました。

 本当にブッダの教えを知らぬまま、十二支縁起を悟ったなら、要するにその人もブッダだということでしょう。ゴータマ・シッダルタだって、ブッダに教えられて悟ったわけではないのだから。ということは、当時ブッダは大勢いて、特に珍しくなかったということです。

 しかし、これでは仏教の卓越性を主張できないので、いかにも具合が悪く、後に教団が大きくなると、ゴータマ・ブッダは、過去世で別の先輩ブッダの下で修行したという物語を創作する必要が出て来るわけです(ジャータカの有力な存在理由)。

「独覚」にもグループを作るタイプと、単独で修行するタイプがいたようです。私はしみじみ思うのは、やはりどこにでも集団生活に馴染めない者がいたのだなあ、ということです。私はそこのところに、なにかつくづく、ホッとするものを感じるわけです。

 そして、とにもかくにも、このタイプを否定せず仏教徒に加えているところに、度量の大きさを感じます。

 ですが、それにしても、ブッダにも会わず単独で修行して、それなりに悟られてしまっては、ブッダのみならず僧団・教団も存在意義を問われかねません。そのような言わば「異端者」が、何ゆえに曲がりなりにも長らく認められてきたのか。疑問と魅力が尽きません。

 

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外: 今年の山主上山式につぃて

2021年07月16日 | 恐山の参拝
毎年恒例の恐山大祭・山主上山式は、本年略儀にて次のとおり執り行います。

日時: 7月22日午前10時より
場所: 恐山総門より

なお、本年は都合により、山主に代わり院代が上山致します。

院代謹告

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミナミジ(キ)サイチョウ

2021年07月01日 | 日記
 ひと月ほど前、聞こえてくる話はウイルス禍とオリンピツクの是非一色という、怒りと憂鬱がないまぜになったような、今に至る重苦しい気分の日々の中、「それにもかかわらず」というよりも、「そうだからこそ」と言うべきか、突如として動物ネタが3つ、連日ニュースやワイドショーで取り上げられました。ニシキヘビの脱走、外国での象の集団移動、そして「巨大怪鳥」(ワイドショーのタイトルです)の捕り物です。

 立て続けに起こったこれらの事件は、何か異様な陽気さと盛り上がりで、全国規模の話題になりました(象はその後どうなったのか?)。このうち、ヘビと象については、人的被害が懸念される面があり、無邪気に面白がれるものではありませんでしたが、ペットショップから逃げ出した「怪鳥」は、大きいとはいえ、人にも家畜にも農作物にも、特に害を与えそうもなく、その上「怪鳥」の名にふさわしいエキセントリックな容姿で、心置きなく楽しめる「騒動」でした。

 私もテレビで初めて見たとき、また変わった鳥が逃げたんだなと、そのインパクト十分な面相に興味をそそられましたが、画面にその鳥の名称が出たときにはビックリしました。「ミナミジキサイチョウ」に見えたのです。慌ててネットで調べると「ミナミジサイチョウ」だとわかりましたが、本当に驚きました。

 そうしたら、鳥の捕獲ニュースが流れた後、知人から「南直哉長老が捕まったと、ネットに出ているぞ」と知らせてきました。同じことを考える者がいるんだなと苦笑しましたが、そうなるともう、なんだか怪鳥が「他人」に思えません。

 どう見てもわが国では「規格外」としか思われない姿形の鳥が、囚われの身から自由になり、しばしの自由を味わった後、ついに捕獲される。この成り行きを見ていると、「いつでもどこでもアウトサイダー」みたいな意識で生きて来て自分としては、あえなく御用となった鳥の身の上に、一抹の同情を禁じ得ません。まあ、いくら逃げ回ったとしても、あの容姿ではいずれ捕まるか駆除されたのは必定だったでしょうが。

 鳥でさえこの始末ですから、人間の場合ならなおさら、完全な自由のままではいられないものです。「この支配からの卒業」と歌った歌手がいましたが、「この支配から卒業」すれば「別の支配に入学」するのが人間の常でしょう。

 人間は社会的実存です。一定の秩序、すなわち習慣や制度の下で生きていくしかありません。それには確かに支配と束縛の一面がありますが、日常生活を維持する基本的なインフラでもあります。

 毎日の衣食住の調達や維持を支える秩序が安定していればこそ、我々は「自由」に振る舞えるわけです。一切合切を任され「何もかも自由」にしろと言われたら、たちまち「不自由」になるでしょう。

 結局、自由と秩序は矛盾に満ちた共存関係に留まるほかありません。このとき、我々が秩序の中で自由を維持するために絶対に必要なのは、秩序を変更する手続きや方法を手元に確保していることと、暴力や実力行使ではなく、それが言論で行われる限り、自分の考えや主張を否定する発言や活動を行う権利に、最大限の尊重を与えること、この二つです。

 この支配から別の支配に服さざるを得ないとしても、この二つが手元にある限り、「自由」は消滅しません。ちなみに、いま曲がりなりにもこの二つを保証する政治・社会制度は民主主義しかありません(民主主義を否定する主張を当然として認めることが、民主主義の本質であり、他に類を見ない決定的な政治思想的強さと長所)。私が民主主義を支持し続ける所以です。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外:今年の恐山例大祭について

2021年06月07日 | 恐山の参拝
 恒例の恐山例大祭(7月20日~24日)は、新型ウイルス禍に鑑み、来年に引き続き今年も、規模を縮小して行います。誠に残念ですが、22日の山主上山式は中止します。

 来年の通常修行を期し、皆様のご理解をお願い申し上げます。

 院代謹白

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤバい勘違い

2021年06月06日 | 日記
 このブログにも面会要領が記載されているように(「カテゴリー」欄参照)、今は疫病のせいで休んでいますが、従来は私と面談したいという方には、日時と場所で折あっていただいて、お目にかかるようにしています。

 わざわざ時間と手間をかけて(ちなみに、お目にかかるのは無料です。念のため)、見ず知らずの坊さんに会いに来られるのですから、それなりに問題を抱えている方がほとんどです。

 事情を聞けば深刻な事態になっていることも多く、苦しい心情を察することもできるのですが、そんな面談の最中、時として私はある種の言葉を聞くと、急に気持ちが引いてしまうことがあるのです。

 それは「死んだほうがまし」とか「死ねばラクになる」、あるいは「生まれてこなければよかった」など、当人は涙ながらに語るような言葉です。

 私はこうした文句を聞くと、たちまち感情が蒸発して、妙な理屈だけ迫り出してくることが多いのです。それというのも、この生き死に関連の話は、ほとんど物心つくと同時に宿痾のごとく考え続けてきた過去があるからです。
 
「死んだほうがマシ」「死ねばラクになる」「生まれてこなければよかった」、およそこういう話は、「死んだ後」と「生まれる前」を、今まで生きて来た自分の経験と比較した上でしか、言えないことでしょう。

 ところが、誰も「死んだ後」と「生まれる前」を経験していない以上、実はこの比較は、今まで生きて来た経験と「死んだ後」「生まれる前」との比較ではありません。実際には、すべてが生きて来た経験の中でのみ行われている比較に違いありません。

 このとき、生きていれば苦楽はつきものだとしても、「死んだ後」「生まれる前」は経験外の領域ですから、それらの苦楽について言えることは何もないはずです。「マシ」で「ラク」で「よかった」かどうか、原理的にわかりません。つまり、話として苦楽は無いも同然でしょう。

 すると、いま生きている人のうちで、苦楽を差し引きして苦が勝ると感じる者か、理屈でそう主張したい者にとっては、件の比較の実質的意味は、死後とも生前とも何らかかわりのない、「生きている間、苦しいのと苦しくないのと、どちらがよいのか」という、すぐに結論の出る当たり前の話でしかありません。最近少々流行しているらしい「反出生主義」がただの勘違いに過ぎない所以です。

 ついでに言うと、この先の世の中、もうよいことが無さそうだから、みな子供を作るべきではないという一部の言い草は、単に余計なお世話に過ぎません。生まれてもいない他人(子供は他人である。忘れてはならない)の将来の善し悪しを、予め決める能力と権利を持つ者など、この世に誰もいないのです。

 子供を持ったなら持ったなりに、その存在に全責任を負って、自分が死んでも生きていけるようになるまで、できる限り面倒を見ればよいだけです。そうする者しか「親」と呼んではいけません。また、それ以上のことを「親」はすべきではありませんし、する必要も無いのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開山しました。

2021年05月10日 | 日記
 誠に残念ながら、未だコロナウイルス禍が終息しない中、今年5月1日、恐山は開山の日を迎えました。以下は、開山当日のご挨拶です。

 皆様、本年度の開山初日、お参りお疲れさまでございました。未だ新型ウイルス禍が収まらぬ状況でこの日を迎えざるを得なかったことは、誠に残念に存じております。

 昨年の恐山は宿坊を閉鎖し、恒例の夏の例大祭と秋季祭も規模を大幅に縮小して行いました。今年はできうる限りの感染対策を施し、宿坊は開かせていただきました。おそらくは、皆様方の日常も昨年以来、一変されたのではないでしょうか。

 私自身にも驚くようなことがございました。住職している寺の檀家さんに葬儀を断られたのです。

 亡くなったのは明るく人気者のお婆ちゃんで、いつも冗談で「方丈さん、私ももうすぐだから、その時はよろしくお願いします!」などと言って笑っていた人です。喪主の息子夫婦から「お葬式は方丈さんとは別の和尚さんで」と告げられたときは、大ショックでした。

 しかし、理由を聞けば致し方ない。夫婦二人とも高齢者施設に勤務していたのです。しかも、私はその頃、第二波ピークの東京にいたのです。

「ごめんね、方丈さん。万が一にも私たちが持ち込むわけにはいかないの」

 これがソーシャルディスタンスというものでしょう。

 しかし他方で、有名なコメディアンが急逝したとき、私たち日本人はこのウイルスの恐ろしさを初めて実感したと言えるでしょう。就中、彼は家族の誰にも看取られず、そのまま直ちに火葬されてしまいました。実兄の方が自宅前で弟の骨壺を呆然とした様子で抱えていた姿は、我々に衝撃を与えました。
 
 看取りと弔いの機会を奪われたとき、大きなダメージが遺族に残ることは、その後も様々な事例で我々の知るところとなりました。

 以来今に至るまで、私は改めて「ご縁」というものの意味をつくづくと考え直しました。

 皆さん。私たちは今、本当に無力です。ウイルスは猖獗を極め、医療は限界に近付きつつあります。ワクチンの普及はままならず、今後の変異はワクチンの効果を奪うかもしれません。変異によっては、従来の我々の個人的予防も難しくなりかねません。

 かくも無力なとき、我々にできることは多くありません。ですが、それでもなお一つ、今してみる意味のあることを、私は申し上げたく思います。

 それは、生きていく上で、自分にとって何が本当に大切なのか、誰が一番大事なのかを、よく考えることです。

 これを考えることは、結局、自分は誰と何を共有したいのかを考えることであり、それが「ご縁」の在り様であり、生きることのリアルな意味ではないでしょうか。

 様々なご心配のあることは私も同様です。しかし、どうか一時でも、心静かにご自身をめぐるご縁に思いをはせていただきたいと、2021年の開山にあたり、切に願うところでございます。

 本日はお参り誠にありがとうございました。


追記:今年の恐山について。

〇開山期間、入山・閉山の時刻には変更ありません。

〇法要、売店と軽食店の営業も変更ありません。

〇宿坊も例年どおりに開いておりますが、感染症対策のため、検温・手指消毒、対人距離の維持(ソーシャルディスタンス)などにご協力をお願いします。

〇宿泊予約の方で、検温の結果、体温が37.5度以上の方と、そのお連れ様には、宿泊をご遠慮願います。

〇夏季例大祭と秋季祭の実施方法については、現在検討中です。ご参拝ご予定の方は、日にちが近くなりましたら、電話にてお確かめください。

〇宿泊者向けの院代法話は中止します。恐山は、屋外に大量の小虫が発生するため、夜間に窓を開けての換気ができず、感染の懸念が払拭できない現状では、実施は困難と判断致しました。

〇院代法話は、9月の日中に複数回行う予定でいます。日時は後日当ブログでお知らせします。

〇「坐禅と講話の会」は今年も中止します。

〇ウイルス禍の状況によっては、入山・宿泊などに変更が生じることがあります。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする