恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

組織と場

2020年11月30日 | 日記
 修行道場にまだ在籍していた頃にも一度ありましたし、その後にも何度か勧誘されたことに、私を「囲む会」というか、「南さんの話を聞く集まり」を作ろう、というものがありました。

 そういうお誘いをいただけるのはありたいことだとは思ったのですが、私はそのたびに即座に断りました。それは次のような理由からです。

 気心の知れているような少人数で、時々仏教をはじめとする様々な話題を論じ合うのは、まことに面白いし、結構なことだと思います。その時には、テーマによっては、私がしばし「教師」役というか、指南を務めることになるかもしれませんし、聞き手が「生徒」のような立場になるかもしれません。実際、そういうことは今までも何度かありました。

 しかし、それはあくまでもそのとき、その「場」のことであり、たとえそれがある程度持続するにしても、要は共通の関心や問題がある限りのことであるべきだし、それで十分だと、私は考えています。

 ところが、これが次第に大人数になるか、あるいは、中の一人が集団から利益を得たいか、すでに得ている場合には、そこから「場」の「組織」化が始まるかもしれません。

「組織」化が始まると、メンバーと資金を管理するルールと、その管理を任務とする「幹部」のような人間が現れ、中心人物の「側近」も出てきて、最終的にメンバーは「指導者」を頂点に階層化されていくでしょう。

 すると、自由な議論の「場」は無用になり、「指者者」の言葉を丸呑みして「組織」に貢献することを求めらるようになりかねません。このとき、もはや「場」は有害視され、排除されるでしょう。

 私は、それがたまらなく嫌なのです。少なくとも私は、自分の言った文句に一々頷いて、その端から丸呑みするような人間に囲まれたいとは思いません。たかが自分程度の人間が言うことに、ただ感心して拳拳服膺している連中など、薄気味悪いだけです。少しでもその可能性があることにはかかわらない。そう思ってきました。

 が、世の中には、そういう連中に囲まれることが好きな者もいるでしょう。「指導者」とか「教祖」になるには、それも必要な資質なのかもしれません。

 ただ、私は、ゴータマ・ブッダを囲んだ集団にも、イエスや、道元禅師などの鎌倉時代の祖師方に従った人々にも、とりわけ彼らが存命中に、「場」以上の「組織」ができていたとは思えません。たとえ、その兆候はあったにしろ、人数に応じた「場」の整備程度の段階だったと考えます。少なくとも、彼らが自ら「組織」を望んでいたとは想像しがたく、望むいわれもなかったはずです。

「組織」化が急速に進んだのは、彼らの死後、集団がさらに大きくなり、その集団を維持することで利益を得る者が現れてからのことでしょう。すると、集団の存在根拠であった今は亡き「指導者」の求心力を高めるため、彼の言葉と業績は金科玉条として神格化され、集団内で反論批判できない無謬の「聖典」となるでしょう。

 私はもちろん、「組織」はすべからく悪で、常に忌避されるべきだと言いたいわけではありません。ただ、ともすると社会における「組織」化の圧力は高く、我々にとって「場」を創造し確保することは必要で、その意味は小さくないと言いたいのです。特に「宗教」をめぐっては。


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ほめる技術

2020年11月20日 | 日記
 かの大評論家、小林秀雄の短いエッセイの中に、批評とは「人をほめる特殊の技術」だという一節があります。これは実に彼らしい卓見で、これまでにもそのとおりだと思うことが多々ありましたが、最近またそれを実感する、私が存じ上げる二人の方の好著を読む機会がありましたので、ご紹介します。
 
 ひとつは、宮崎哲弥氏の『いまこそ「小松左京」を読み直す』です。

 氏の仏教についての造詣の深さや、政治社会関係の発言の切れ味は、かねてからよく存じていましたが、いわゆる「サブカルチャー」に関する彼の広汎な知見については、管見にして今まで直接触れることがありませんでした。

 SF小説が「サブカルチャー」に属するかどうか、私には定かにわかりませんが、本著は、大作『日本沈没』などで知られる、戦後日本におけるSFの泰斗、小松左京を縦横に論じる快作です。

 実は私は小松の作品を一つも読んでいません。ただ、『日本沈没』は、1973年に出版されるや、空前の大ベストセラーになり、たちまち映画、テレビ、ラジオでドラマ化され、コロナ禍の今年もアニメーション版が製作されたと思います。我々の世代で知らぬ者は、まずいないでしょう。

 宮崎氏の著作は、この大ベストセラー作家の数ある作品を詳細に分析して、そこから、驚異的に該博な知識を蓄えた、極めて先見性の高い、文明史的展望を持つ、戦後最大の思想家としての小松の相貌を描き出したものです。

 なかんづく、『日本沈没』に東日本大震災を重ねる人は多いでしょうし、『復活の日』は今回のパンデミックを想起させるでしょう。これら予言性に満ちた作品の他に、それこそ宇宙と人間の存在そのものを追求するような、おそるべき射程距離の作品も数多くあります。

 宮崎氏はそのような小松の天才性を深い敬意と共に、実に見事に論じています。

 もう一冊は、釈徹宗師の『天才 富永仲基』(新潮選書)です。

 私は、富永仲基の主著『出定後語』を、学生時代に読みました。当時はまだ仏教そのものに関して認識が浅かったので、彼についても、当時としては斬新な文献学的批判を通じて、いわゆる「大乗非仏説」を証明し、儒教側の排仏論に根拠を与えた町人学者という、通り一遍の理解しかありませんでした。
 
 釈徹宗師が本書で強調してやまないのは、富永の分析手法が当時の思想水準において、傑出した独創性を持ち、世界的な思想史上でも、これほどの先進性は驚異的であり、まさしく今日の日本が誇るべき比較思想の天才だということです。ここにも、彼に対する師の満腔の敬意を感じます。

 彼はほとんど独学で比較思想的な方法論(有名な「加上」説など)を開発して、今日では当たり前になっている仏教経典の文献学な批判研究を行い、その歴史的な成立過程を明らかにしたのです。師に依れば、同様の手法が西欧で聖書などに用いられたのは、20世紀に入ってからだそうです。

 師の説でさらに興味深いのは、富永は決して排仏論者などではなく、思想的には中立な「学者」なのであり、むしろ日本で初めて宗教多元主義的な立場で諸思想を論じた人物だということです。

 本書は、これまで知る人ぞ知る存在であった富永仲基のユニークな思想を、実に水際立った鮮やかさで、必要にして十分な記述によって、一般読者に紹介しています。

 私は、この二冊で、本当に久々に読書の楽しさを味わいました。両書に共通する唯一の欠点は、この本を読むと、小松や富永の原著を読まなくてもよいような気分になることでしょう。それほどの出来だと思います。

 批評はまさにほめる技術です。



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細かいけれど大事かな。

2020年11月10日 | 日記
 道元禅師門下の坐禅作法は、禅師の著作である『普勧坐禅儀』に依ります。

 私もこの方法で坐禅しますし、指導するときも同じです。そうすると、自分もかつて疑問に思い、今も坐禅の初学者から時々質問されることがあります。それは、『普勧坐禅儀』の中の一節、「欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して」という、いささか細かい部分についてです。

 この一節の言うところは、足を組み手を組み、坐禅の姿勢を正しくした上で、文字通りに解釈するなら「大きく深呼吸を一回して、左右に上体を揺らして(振って)」から坐禅に入りなさい、ということでしょう。

 すると、まず出てくる疑問は、深呼吸は1回でいいのか、ということです。

 私が初心者に指導する場合は、この深呼吸は、腹式呼吸への転換と、体内の空気の入れ替えを目的に行うもので、必ずしも1回である必要はなく、複数回でも構わないと申し上げます。初心者が自覚的に腹式呼吸に転換して、その呼吸を落ち着かせるには、数回行うほうがよいでしょう。

 問題は次です。私も初めの頃はそう思い、初学の人からも言われるのは、「せっかく正しい坐禅の姿勢(坐相)を作り、呼吸も一定させたのに、その後で体を左右に振ったら、姿勢も呼吸も乱れるから、もう一度やり直さなければならず、二度手間ではないか?」、ということです。

 これはある意味もっともな話で、指導者によってはこの一節について、「この部分は順番を言っているのではない。要するに欠気一息と左右揺振をすればよいので、事の前後は問わない。揺振が最初で一息が後でもよい」と言ったり、「これは同時にやるのだ。深呼吸しながら、その息が乱れないように、ゆっくり体を振る」と言う者もいます。

 私が思うのは、とりわけ未だ自分の坐相が確立しない初心のうちは、一息の後で、体を最初ゆっくり大きめに振り始め、次第に振幅を小さくして、上体の中軸を定め、坐蒲(坐禅用クッション)に腰をなじませたほうが、坐禅の落ち着きはよいということです。

 坐禅を安定させるには、極力体から力を抜かねばなりませんが、これが一般人や初心者には中々できないのです。そのために、坐禅直前に多少大きめに体を振り、力を抜く前提として、筋肉の緊張を緩めなければなりません。

 順番を変えて、この揺振の後に一息するとなると、今度は呼吸の落ち着きが悪い。私の経験では、むしろ一息してから揺振したほうが、最終的に呼吸と坐禅の安定が早いのです。

 では、ある程度坐禅に親しんだ人の場合はどうでしょうか。

 自分の坐相がある程度固まり、坐禅の習熟度が増すと、一息・揺振の順番の意味が自ずと実感されてくるはずです。

 坐禅を繰り返し修行して、坐相の定まりがよくなれば、腹式呼吸への転換は、ほとんど一回の呼吸で実現し、一挙に深くなります。

 しかし、いかに微弱とは言え、呼吸である以上、首から腹にかけて、さらに内臓の筋肉に一定の力が入ります。そこで、この余計な力をいわば振り落とすように、軽く小さく上体を左右に振るわけです。

 この最後の揺振は本当に小さく軽く行えば十分なので、呼吸にまるで影響しません。このことは、坐禅を習慣的に行う人には、自然に理解されてくると思います。実際、私も一息と揺振の順番については、初心者やまだ経験の浅い人からしか訊かれません。

 というわけで、『普勧坐禅儀』の教示する作法は、そのとおりに行った方が合理的だと、私は思います。

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もう誰かが

2020年10月30日 | 日記
 もし仮に、全自動飛行機というものがあったとしても、今すぐ乗りたいという人は、そう多くはないでしょう。全自動乗用車も市販されていない現状では、無理もありません。

 しかし、そのうち全自動乗用車が登場し市販され普及したら、どうでしょう。全自動飛行機への「抵抗感」は薄まり、いつか「当たり前」になるかもしれません。

 このコロナ禍で、いわゆる「巣ごもり」需要が増え、コンピュターゲームもよく売れているそうで、その中でも「どうぶつの森」というソフトが大人気だそうです。そのことを伝えるテレビニュースを見たとき、ふと思ったことがあります。

 いわゆる「オンライン寺院」を超えて、完全なバーチャル宗教も、まんざらあり得ないことでもないな、と。

 要は、教祖も信者も全部、ネット空間上のアバターで組織される宗教です。これは、身体的修行を要件とする宗教では実現困難かもしれませんが、一神教的な救済型、あるいは現世利益型の教義を持つ、つまり説教・祈祷を主な活動とする宗教なら、かなり可能性ある試みではないでしょうか。

 身体的修行を要件とする宗教も、人間の意識と記憶をまるごとチップにコピー・保存できる技術ができたあかつきには、バーチャル教団を運営できるだけのノウハウを持てるかもしれません(修行体験を臨機応変かつリアルに語れるテクニック)。

 さて、このアバターによるバーチャル教団が成立したとして、アバターの主人である教祖が死んだとしたら、どうなるでしょう。

 教祖の言動はすでに十分AIに蓄えられていたとします。彼の死を隠した上で、誰かがプログラムを開発して、彼の思考パターンをアルゴリズムとして設定します。そこに自己学習機能を加え、常時ネットに接続して膨大な宗教的言説を収集・解析して、結果的に説教もすれば信者と対話することもできるような、教祖らしく振る舞う能力を持つアバターが出来上がれば、当面教団が維持される可能性は高いでしょう。

 その後ある程度の時間が経過して、教祖の死亡が公になったら、当然のことながら、教団には非難が集中し、弱体化するはずです。

 しかし、もし「教祖アバター」は依然として学習を繰り返し、その言語能力とコミュニケーションスキルが高まり続ければ、最初からアバターの信者になる人が少なからず出てくるのではないでしょうか。「教祖アバター」は「アバター教祖」になるというわけです。

 翻訳機能が充実すれば、この教祖はあらゆる言語で信者に対応できるのですから、巨大世界宗教への道も、前例のないレベルで大きく開けます。

 このアイデア、もう誰かが始めているのでしょうか? 始めていたら、実際にはどうなるのでしょうか? 全自動飛行機が実用化された頃には、どうなっているでしょうか?

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用心するに・・・

2020年10月20日 | 日記
 昨今問題になっている日本学術会議における任命除外の件、様々な分野の人たちから批判や意見が出ていますが、寡聞にして、宗教界・仏教界からの発言を知らないので、ここで存念を記事にしておきます。

 すでに大方が発言しているとおり、人事と組織問題は別で、今回の問題の根本は、学術会議の会員任命に当たって、過去に前政権の政策に批判的であったと衆目が一致する6人の学者の任命を、現政権が忌避したという、人事案件でしょう。

 そうでないなら、任命しなかった理由を6人個別に明らかにすればいいだけの話で、それができないから、「総合的俯瞰的」などという、誰に向けた何の説明なのかもわからない、愚にもつかない言い訳をするわけです。

「そのことが直接学問の自由の侵害には当たらない」という意見もありますが、少なくともこの件は、現政権が一定の意志を持って(意志が無ければ「除外」はできない)、特定の学者を排除したのですから、「侵害」に当たらなくても「脅威」「抑圧」にはなる話です。

 よく言われますが、今回の場合も「用心するに越したことはない」ケースだと、私は思います。この社会における我々の「自由」は脆いものです。守る意志が無ければ、草葉の露の如く消えるでしょう。

 私は、人々が言いたいこと(差別や誹謗中傷は論外)を言える、言いあえる社会を守ることは、命を守ることと並んで、最優先すべきことだと思います。思想良心・言論集会・信教学問などの自由は、死守するに足る価値です。宗教者の土台も、まさにこの自由にあります。
 
 ならば、「用心するに越したことがない」ことは、今般映画界からの声明にもあった、マルティン・二―メラ―牧師の有名な言葉が切実に語る通りです。

 ついては、やはりこの件は少なくとも、我々が用心する必要はないと明らかに示すために、任命権者が6人個々の除外理由を具体的に語るべきであり、それができないなら除外を撤回し、6人を任命すべきです(いまさらしないし、できないでしょうが)。組織改革は、その後が順序というものです。

 私は、過去に当ブログで、具体的な将来を危惧した記事を書いたことがあります。トランプ大統領誕生のときと、東京オリンピツク決定のときです。両方ともロクなことになるまいと思って書いたのですが、今や想定の範囲を超えてしまいました。

 トランプ大統領が「吾我名利」の政権運営をするに違いないという見当は、まあ、少し考えれば誰でもわかる話ですが、ここまで大規模かつ先鋭化するとは思いませんでした。

 邪な「大義」(「復興五輪」は「コロナ克服五輪」に変更だって)と詐欺同然の「理由」(今年も猛暑でした)で呼び込んだ東京オリンピツクが、人心を収攬できずに迷走するのは当たり前の話で、数々の不手際が起こるのも驚きませんでしたが、まさか延期になるとは思いませんでした。

 この二つの「想定外」は、コロナ禍が私に思い知らせたものです。そして、私はこう考えました。

 もはやトランプ大統領は、ただの「吾我名利」ではすみません。彼は、人が議論し選挙で代表を決め、国の意志を決定するという、民主主義政治の根幹を腐食させてしまいます。民主主義政治の存在を前提にして、これを批判改良するのではなく、そのものを腐食させるのです。

 民主主義体制への批判は当然です。民主主義は改良の持続が必須であり、それが自由を守ることに直結します。しかし、現大統領の起こしている事態は、ナチスのワイマール体制の破壊に近い。彼の再選が阻止されることを、私は願っています。

 オリンピツクの延期で私が思ったのは、アテネに始まり今般の東京に至った、いわゆる「近代オリンピツク」は廃止するか、少なくとも10年くらい中断して、意義と開催方法を徹底的に再考すべきだろうということです。

 ベルリンでヒトラーが演出したナショナリズムに染め上げられ、ロサンゼルスでは米国テレビ局の商売のタネにされたオリンピツクは、いまさら「平和の祭典」だの「参加することに意義がある」だのと言い募っても、興ざめするばかりです。

 スポーツは、所詮は遊びです。コンピューターゲームさえオリンピツクに取り込もうというのだから、自明でしょう。また、遊び以上のものに祀り上げてはいけません(健康至上主義と軍事独裁体制の相性の良さ)。だったら、同好の士が集まって、できる範囲の規模で楽しめばいいだけです。

 この疫病下で、開催都市と開催国が開催の可否を主体的に決定できず、経費の節約さえままならないなど、言語道断です。こればかりは国と都の責任ではなく、現在のオリンピツクシステム自体がダメなのです。少なくとも、テレビ局支配と、それと結託した「五輪貴族」とも称されるIOCの意思決定機関を解体して、出直すべきでしょう。

 用心するに越したことはありません。
 
 

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切なさの向こう側

2020年10月10日 | 日記
「最近、クリスチャンの人と会ってね」

「クリスチャン? 君も間口が広いんだな」

「その人、ここ4、5年のうちに身内を二人、亡くしてるんだ」

「ほう」

「最初は父上で、これはしばらく病床について、家族に看取られて亡くなったそうだ」

「もう一人は?」

「それが今年、思わぬことで突然、姉上を亡くされたんだ」

「それはショックだったろうな」

「で、その人がしみじみ言ってたんだが、父上のときは、それなりに家族は大変なこともあったが、十分看取りもできて、最後の最後まで家族の時間を共有できたそうなんだ」

「なるほど」

「で、そのときは、自分の思いとして、お父さんは天国に行ったと、同じ信仰を持たない父とは言え、安らかに来世へと旅立ったと、そう思えたという」

「ところが、姉上ではそうならない」

「そのとおり。突然、断ち切られるように死に別れると、そんな気持ちになれない」

「いわゆる死に目にも会えなかったわけか」

「そういうことだ。そうなると、気持ちは悲しみを通り越して、何でこんなことになったのか、という嘆きになる」

「行先を思うどころか、その出来事自体が理解できずに混乱するわけだな」

「天国のことなど、まるで頭に浮かばなかったらしい」

「天国とか極楽とかを素直に想うことができるには、それなりのプロセスが必要というわけか」

「そういう気がするね。不慮の死別、突然の別れ、それも事件・事故・災害のようなものに遭っての死別となると、往々にして『なぜこんなことが・・・』という答えの出ない問いに襲われ、それが激しい自責や後悔の念となって、遺族を苦しめる場合がある」

「あのとき自分がこうすれば、こんなことにならなかったのではないか、もっと自分にできることがあったのではないか・・・・・、そう思ったりするわけか」

「無理もないと思うんだ。でも、そういうときに僕が残念というか、忘れてほしくないと思うのは、遺族の激しい自責や後悔は、亡くなった人への深い愛情、大切に思う気持ちがあればこそなんだ。その気持ちは、すでに十分伝わっている。自責や後悔は、しばしばそのことを忘れさせてしまう。感情がそれらに蹂躙されて、ひどい時には健康さえ害する」

「確かに、愛されて亡くなった人が遺族を責めるとはとても思えないよな」

「自責や後悔の念はわかる。そう簡単には消えるはずもない。また性急に消す必要もない。ただ、それを抱きながら生きるとすれば、亡くなった人を愛し、大切にしてきた日々を、決して忘れずに思い起こしてほしい。それがとても大事だと、僕は思う」

「確かになあ。だが、それにしてもキリスト教徒がお寺に、か」

「不条理な出来事に突然遭うと、『万能の神』より『諸行無常』のほうが人情の機微に触れるのかもしれないな」

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別れを取り戻す

2020年09月30日 | 日記
 岩手県の新聞社から依頼されて、「復元納棺師」の肩書を持つ笹原留似子さんと対談しました。

「復元納棺師」とは、笹原さんがたった一人で始めた活動に、依頼者が名付けた呼称だそうです。つまり、彼女以前にそのような仕事をする人は無く、彼女が始め、開拓し、育てた技術なのです。

「納棺師」と言う仕事は、すでに知られています。遺体の身と衣服を調え、棺に納める業務です。

 他に「エンバーミング」と呼ばれる仕事もあります。これは遺体を消毒・保存処理したり、部分的に修復する技術です。

 笹原さんの仕事は、これらとは違います。彼女は、事件・事故・災害などで大きく損壊した遺体を、生前の面影に近いところまで「復元」し、遺族が大切な人との「別れ」を実感し、納得できるように導くことなのです。

 私はいくつかの遺体のビフォー・アフターの写真を見せてもらいましたが、実に驚くべき技術でした。

 他人が見たらトラウマになりそうな、損壊と腐敗のある死体です。触ることはおろか、見ることもできない人は少なくないでしょう。

 ですが、当時医療機関に勤務していた彼女は、宗教家であった母親を通じて初めての依頼が突然あったとき、事情もよく呑み込めず現場に行き、いきなり死体を見せられたのだそうです。

 遺族や周囲の人からなんとか修復してくれと頼まれ、驚いたり恐怖に駆られる以前に、悲嘆する遺族を見て、「何とかしなければならない」と覚悟を決め、半ば剥がれた顔の皮膚を手でつかんで伸ばすことから始めたと言います。それができたところに、私などは彼女の「才能」を感じざるをえないところです。

 以後、依頼に応じて自分だけで学び工夫して技術を高め、さらにそれが評判を呼ぶようになったのだそうです。そして、その活動が劇的に広がったのが、東日本大震災の厖大な犠牲者と遺族のための活動でした。

 笹原さんの「復元」の目的であり要諦は、遺体に生前の表情を取り戻し、遺族が大切な人との「別れ」を十分にできるようにすることです。したがって、単に物理的に復元しても無意味であり、遺族との対話を重ねて、その人らしい面影を作り上げていかねばなりません。

「笑い皺が見つかると嬉しい。それを頼りに復元していくと、優しい表情が戻るんです」

 彼女のこの言葉が、「復元」がただの「修復」とはまったく違うことを、如実に語っています。

 震災で母親を亡くした男の子は、ずっと悲しそうな表情を見せず、棺にも寄り付かなったそうです。笹原さんは夫たる父親に依頼され、その母親の遺体を、何度も会話を重ね、3時間近くかけて修復しました。

 ようやく復元が終わり、いやがる息子を父親が無理に引っ張って、棺の中の母親と対面させたとき、息子は初めてわっとばかりに大声で泣き出し、号泣は止まなかったそうです。

 突然母親を奪われた衝撃は、まだ幼い息子には理解しがたい出来事で、悲しむ余裕も泣く力も出なかったに違いありません。おそらくは、笹原さんによって蘇った母の顔に出会って、凍結していた彼の感情が一挙に流れ出したということでしょう。

 以前に本ブログで「葬式の意味」という記事に書きましたが、笹原さんは、いわば「死体」に人格を取り返し、正にある人の「遺体」とするという、極めて重要な仕事のパイオニアなのです。それによって初めて納得のいく「別れ」ができるようになり、ついに死者が立ち上がるわけです。その死者と遺族が関係を結び直していく営みを「弔い」と言うのだと、私は思います。

 笹原さんのお話でもう一つ非常に印象深かったのは、虐待死した幼児の遺体の復元の例でした。

 3歳くらいにしか見えないその子供は、母親のネグレクトによる餓死だったそうです。骨と皮だけになったその遺体の復元は、母親ではなく、警察や救急など、その時初めて遺体に接した人々が子供への同情のあまり(何人もが男泣きに泣いて、その子を抱いたそうです)、依頼してきたのです。

 母親は、復元の過程も、復元を終わった後も、子供を見ようともしなかったそうです。笹原さんは、自ら母親の手をとって、その顔に触れさせました。

「冷たい」
「そうだね。死ぬと冷たくなっちゃうんだよ」

 私は、そのときのことを語る笹原さんの表情に、母親を責める気持ちを見ませんでした。

 もちろん、母親の罪は言語道断です。どれほど非難されても仕方が無いでしょう。私も似たようなニュースに接するたび、大きな憤りを禁じ得ません。

 しかし、私はそういう時にいつも、憤りとは別に、そういうことをしてしまった親の事情、彼または彼女がそれまでどういう生き方、在り方をしていたかが、思われてなりません。

 もしかしたら、幼少期に安心できる場所がなかったのではないか。普通なら親や、そうでなくても誰か大人に、自分自身を十分に肯定され、受け容れられ、自分はここにいていいんだと、心から思える体験を奪われていたのではないのか。

 いわゆる「虐待の連鎖」とは、自己の居場所を奪われ続けた者の連なりのことのように、私は思うのです。

「死者」が立ち上がり、それを立ち上げる人が「遺族」となる過程を思う時、笹原さんのお話と仕事は、私に多くのことを教えてくれました。

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やりくり問題

2020年09月20日 | 日記
 いわゆる「初期経典」に、ゴータマ・ブッダの言葉として、修行僧の生活を語る一節があります。そこには次のようなことが書かれています。

「比丘は、わずらわしいことが少なく、すべき作業が少なく、扶養しやすく(質素であり)、生活必需品においてよく満足している」

 そして、彼らは少食であり、睡眠も短く、教えをよく学んでちゃんと記憶し、禁欲の生活を実践して、「動揺のない境地(悟りや解脱と称される境地であろう)」に到達するとされます。

 この話を「境地」抜きにして読むと、書かれているような生活をしている人は、現代日本に少なくないような気がします。特に、それこそ「さとり世代」と言われるような人々の中には、まさに比丘同然の毎日を過ごしている方がいるのではないでしょうか。

 比丘にしろ現代日本人にしろ、ここで問題なのは、このような生活を維持する手段、具体的に言えば資金を、どう確保するかでしょう。しかも比丘は原則として個人ではなく、集団で生活しているわけですから、かなりのコストがかかるはずです。

 とすると、この「わずらわしいことが少なく、すべき作業が少なく、扶養しやすく(質素であり)、生活必需品においてよく満足している」生活をするために、かなりの努力と配慮をして、自分たちの生活の意味と価値を世間(パトロン)に認めてもらい、資金を出してもらわなければなりません。

 つまり、静かで質素な生活をするためには、随分な努力をせざるをえず、それには結構わずらわしく、すべき作業も多いことでしょう。道元禅師が弟子に語ったことの中には、信者からもめ事の仲裁を求められたら、どちらかに一方的に肩入れせず、当事者がよく話し合うように言って聞かせよ、というような教えもあるのです。結局、修行僧の生活も、世間の人々と同じように、面倒に満ちているというわけです。

 というわけで、修行者は、わずらわしいことが少ない生活をするために、わずらわしい手間を厭わないという矛盾を引き受けざるをえず、他方で世間の人々は、ラクに生きようとして苦労するという、ありがちな倒錯に陥ることも多いでしょう。

 出家在家にかかわらず、所詮やりくりの問題からはこの世で解脱し切れないとすれば、聊か寂寥を禁じ得ないながら、決してこれを軽んずることなく、問題に正面から取り組む覚悟を決めるほかありません。あくまでも、それが己れの志を護持する土台なのです。腹の話を馬鹿にして、頭の話はできません。


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ゴジラ、ウルトラマン、鉄人28号

2020年09月10日 | 日記
 私は1958年生まれで、ゴジラを見たのは第5作か6作目の作品で、鉄腕アトムと鉄人28号はオリジナルの白黒テレビシリーズの世代でもあり、ウルトラマンもそうです。

 以来、現在に至るまで、ゴジラは何度もリメイクされ、ウルトラマンのシリーズは絶えることなく人気を博し、鉄人を嚆矢とする巨大ロボットアニメ―ションは、マジンガーZやガンダムなど、その進化を続けてきました。

 これら怪獣もの、変身ヒーローもの、巨大ロボットものは、単に続いているだけでなく、映像技術の進歩のみならず、ストーリー性も高度化し続け、「子供向け」の時代はとうに過ぎ、いまや日本の「文化」です。

 子供のころから、リアルタイムでこの発展過程を見てきた私にとって、前々から不思議だったのは、なぜ日本においてこれらの作品群がかくも高度な表現を獲得できたのか、ということです。

 私の狭い知見でも、怪獣・ヒーロー・ロボット作品にかけては、欧米その他の作品と比較しても、段違いの質・量だと思います。

 このとき、怪獣は恐竜(ジェラシックパーク)ではなく、ウルトラマンは人間的ではありません(彼が人間を偽装しているのに対して、スーパーマンは人間の養子になれた)。そして、巨大ロボットものは日本オリジナルと言ってよいでしょう。こうした独特の想像力はどこに由来するのでしょうか?

 私が思い当たるのは、「日本」と称される共同体が、地縁血縁を組織構成の原理として「近代国家」まで構築し得た、ほとんど唯一の例だということです。地縁血縁共同体の正統性を根拠づけるのがアニミズムです。

 その最たる例は「天皇」で、日本における天皇制の存続は、『古事記』の神との血縁が、未だに共同体の正統性の根拠になっていることを意味しています。ということは、それを可能にするアニミスティックな思考や情緒が、未だに深く我々の心性に根付いているわけです。

 だとすると、ヤマタノオロチは元祖怪獣でしょうし、神が人になったり(現人神)人が神になったり(天神様)する以上、変身ヒーローにも抵抗がなく、巨石・巨木などの御神体信仰は、巨大機械に無理なく感情移入できる心的土壌になっていると言えるでしょう。

 つまり、ゴジラ、ウルトラマン、鉄人28号などは、まさしく日本の「伝統文化」なのだと、私は思います。

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方向感覚

2020年08月30日 | 日記
 東日本大震災で混乱した前の政権を「悪夢のような」と嘲罵した長期政権は、コロナ禍で迷走を重ねた果てに、いきなり2日前に頓挫しました。「国難」と呼ばれるような危機や難局に際して、我が国の政治家や政権が、立場を問わずいかに脆弱かということが、よくわかりました(他の国でも似たようなものと言えなくもないが、ドイツなど、いくつかの女性政治家の政権はコロナ禍対策で支持を得ている)。

 この様子を見ていて、私が少しく考えたのは、政治と学問(主に科学)、あるいは政治家・官僚と専門家の関係です。このとき、原発や感染症に関わる学問や専門家は、天文学や物理学の場合と違って、政治・経済的領域(エネルギー問題、公衆衛生問題)に強く関与せざるを得ません。

 しかし、専門家とは、その名の通り、ある分野に限ってそこを深堀する人たちでしょうから、その知見自体は政治的経済的、あるいは社会的な大きな文脈から外れています。その文脈を見出し、当面の問題に彼らの知見を具体的に活用していくのが、政治家や官僚の役目でしょう。

 ところが今回のコロナ禍で、「専門家会議」が自ら「前のめりになった」とか「政策を決定しているような印象を与えてしまった」などと反省している有様は、政治家や官僚が科学的知見を効果的に現実に適用するだけの準備も能力も持っていないことを、端無くも露呈するものでした。

 この無様な状況は、以外に根深い問題だと思います。なぜなら、このような科学的知見の取り扱いの拙劣さは、根本的な問題として、政治家・官僚の側、特に政治家の多くに、世界観や歴史観、すなわち「教養」が致命的に欠落にしていることに起因しているのではないかと思うからです。

 もちろん、目前の危機的状況への対処は喫緊の問題でしょう。また、前例のないことでもあれば、誰がやっても中々成果はあがらないかもしれません。ですが、深刻な危機は往々にして目の前の問題ではすみませんし、そのすまない事態のほうが、実はもっと重要です。

 規模の大きな災害などは、その社会・共同体が潜在させてきた構造的な弱点や問題点を一挙に露わにします。それを確かに把握して解決へと導くには、それまでの経緯を読み、今後の展開を見通して、露呈した課題を社会的・歴史的文脈に位置づけ、共同体全体の方向性を見出し、行動を促さなければならないはずです。

 この文脈を読み、今後を見通す方向感覚を養うのに、不可欠なのが教養なのです。リーダーにそれが乏しいとき、これは彼に従う者の命運を左右する問題になりかねません。

 私は政治家を直接多く知るわけではありません。しかし、その範囲で言っても、昨今の政治家の器量には大きな不安を感じます。

 資料や書類を読んでも読書の習慣が無い政治家は多く、酷い者になると新聞さえ読まないのです。まるで「最近の若者」同然で、これが一国の「選良」「リーダー」ではまずいでしょう。

 もちろん活字を読むばかりが教養を養う道ではありません。しかし考える力を養い、社会や歴史を読み、自らの価値観や世界観を確立するには、ある程度の読書量は必須と言わざるを得ません。
 
 私の狭い知見でも、最近の政治家は損得とウケ狙いで行動しているようにしか見えないときがあります。時々宗教や哲学に関心があるように振る舞う者もいますが、その大半は自分の凡庸なアイデアを装飾するのに哲学や宗教の文句を使っているだけです(顧みると、数少ない例外は、大平正芳と中曽根康弘かもしれません。支持するかどうかは別ですが)。

 今回のコロナ禍は「歴史的転換点」になると、多くの人が言い、政治家もそう語ります。その転換がIT社会の進展程度に考えているなら、「歴史的」の名が泣くでしょう。事は、資本と自然と人間の運命の問題なのです。

 どう考えても、今の彼らの方向感覚は、私には心配の種にしかなりません。

 

 

 

 



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