恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

いわば美魔湖?

2024年08月01日 | 日記
 写真は恐山の宇曽利湖です。写真はネット上のものを拝借しました。雰囲気がよく出ていると思います(撮影者の方がわからず、恐れ入ります)。 

 宇曽利湖は火山の噴火でできたカルデラ湖で、水深の違いがある上に、そこに空の色が映って、湖面が七色に輝くと言われています。もちろん、日本にも世界にも、美しい湖は数多くあり、景勝地にもなっていますが、ただ宇曽利湖の美しさには、何か尋常ならざるものがあるような気が、私にはするのです。

 「神秘的」と形容される湖は少なくないように思うのですが、私が宇曽利湖に感じるのは、むしろ「魔術的」と言いたくなる何かです。

 宇曽利湖には「極楽浜」と呼ぶ白い砂浜がありますが、時々そこに、若い男性や女性が一人で坐りこんで、何時間も湖を見つめていることがあります(それほど多くはないが、中高年もいる)。一度、午前10時頃見かけた女の人が、夕方の4時に、同じ場所で同じ姿勢のまま、坐っていたのを見ました。

 7,8年前だったと思いますが、参拝の方が、「湖の浜に変な人がいます、ずぶ濡れで歩き回っています」と、知らせに来ました。

 急いで行ってみると、確かに若い男が全身びしょ濡れで右往左往しています。びっくりして、事情を訊くと、眼が痛くて開かないと言うのです。

「湖の水が目に入って・・・・」
 
 宇曽利湖は湖底からも火山ガスが噴き出していて、水は強酸性です。それが目に入ったら、眼科で洗い流してもらっても、一週間近くは痛みが残るほどです。入った直後は、刺すような、焼けるような激痛です。

「君、まさか泳いだの!?」

「あの・・・、ずっと湖を見ていたら、なんだか歩いて行けそうな気がして・・・」

 それで、つい足を踏み入れて行ったら、いきなり深みにはまって、溺れかけたらしいのです。運よく、やっとの思いで浜に戻れたものの、水に眼をやられて何も見えず、浜をふらふらと歩き回っていたわけです。

 思うに、いかに神秘的な湖でも、他ではこうしたことはまず起きないでしょう。しかし、それが宇曾利湖だと起きる。ここが魔術的に思えるのです。

 この、ある種異様な美しさは、何に由来するのか。

 先に宇曽利湖は強酸性だと言いました。その結果、植物を含めて、ほとんど生き物がいません。例外として有名なのはウグイで、これが唯一の生き物と言うくらいです。しかも、湖に広範囲かつ多量に生息するわけではありません。

 この動植物がほとんど生きられない環境が、湖水を非常に澄んだ清浄な状態にしているのです。それは言わば、死を湛えた美しさと言えるのではないでしょうか。この美しさが、我々の内側にある死を触発するように、私には思えてなりません。

 死は、自分の外側ではなく、内側にあります。死は、我々に外から近づいてくるものでも、我々が近づいていくものでもありません。死は、我々が生きていると、その内部に育ってくるのです。

 我々が「生きる」という言葉に実感を持ち、「生きる意味」「命の重さ」などという言葉が理解できるのは、死ぬからです。

 生にかかる死の重力を、宇曽利湖は感じさせてくれる、そんな気がするのです。

 
 

  

作法とマニュアル

2024年07月01日 | 日記
 修行道場に入門すると、日々の物事の進め方には厳格な手順が定められていて、それに従うことが必須とされます。いわゆる「作法」です。

 私が修行した道場は、それがひと際厳格で、とりわけ食事作法はなどは、最初の頃は作法どおり食べることで精一杯で、味などまるでわかりませんでした。お腹が空き切っているのに、食べ物が喉を通らない思いをしたのは、後にも先にも、あの時だけです。

 どうしてこれほど厳格に作法の遵守が求められるのか、入門後しばらくは訳がわかりませんでしたが、しばらく四苦八苦しているうちに、作法がそれなりに身についてくると、なるほどと思うようになります。

 まず、何かを行う時に手順や方法が決まっていると、間違いが少ないのです。特に集団で作業する時などは、ミスでお互いを妨げることがありません。それは同時に、効率の良さにつながります。作法に馴れると、度々考える必要が無く、ほとんど流れ作業のように物事が進むのです。

 この「作法」の正確さと効率の良さは、他の分野や業務では、「マニュアル」と呼ばれて重宝されます。一度物事が「マニュアル」化されると、正確さと効率性のみならず、業務の引継ぎにも便利ですから、次第に仕事の「マニュアル」依存が起きたりしがちです。

 とはいえ、これが経済活動の分野になると、状況の変化にすばやく対応しなければなりませんから、「マニュアル」の見直しや調整、あるいは改変などが必要で、同じ「マニュアル」が長く利用されることは稀でしょう。ですが、修行道場の場合だと、別に競争相手がいるわけでもなく、日々の修行生活に大きな変動はありませんから、長きにわたって同じ「作法」が引き継がれるわけです。

 さらに言うと、この「マニュアル」と「作法」には、決定的な違いがあります。それは「敬意」の有無です。

 「マニュアル」を正当化し、その正当性の根拠となるのは、一にかかって物事を進める上での正確さと効率性です。それに対して、「作法」は、正確さと効率性の他に、さらに重要な、自分が関わる人や物への敬意があるのです。それの無い「作法」は、ただの「マニュアル」に過ぎません。

 修行僧が食事の時に、あれほど厳格な作法を実施するのは、この食事に至るすべての人と食べ物の縁に、感謝と敬意を表するためです。それがあるから、「作法」はそれを見る者に美しさを感じさせるのです。正確さと効率だけでは美的にはなり得ません。

 けだし、業務の「マニュアル」と修行の「作法」の中間に位置するのが、「職人仕事」とか「職人芸」と呼ばれる行為でしょう。

 これは確かに業務ですから、正確さと効率は必要でしょうが、職人の仕事には、まず自らの仕事に対するプライドと、仕事の対象への明らかな敬意があります。だからこそ、彼らの振る舞いには、我々が「見ていて飽きない」美的な要素が、多く存在するのです。

「マニュアル」が文化になりにくく、「作法」と「職人仕事」は明らかに文化の範疇に入るのは、その根底に敬意があるかどうかです。

 

番外:『正法眼蔵』私流・第7回のお知らせ

2024年06月25日 | 日記
東京赤坂・豊川別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第7回は、

 7月・8月は休講とし、9月13日午後6時より行います。

なお、誠に恐縮ですが、この回より、別院様の開場時刻を午後5時30分にさせていただきます。

その他の参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

止め時の難しさ

2024年06月01日 | 日記
 以前、知り合いのタクシードライバーと元警官が同じことを言っていました。

「人が運転を続けていれば、いつか高齢になり、その結果必ず事故を起こす。起こす前に自分で止めるか、人に言われて止められれば、それは立派だが、ほとんどそうはならない。何らかの事故を起こしてから止める。物損の事故ならまだしも、人身事故なら後悔しても追いつかない」

 つまり、多くの人は、軽重はともかく、何らかの事故を起こすまで、車の運転を止めないということです。私の知る限り、80過ぎても運転を続けていた人の多くは、事故を起こしてから、家族に反論の余地なく叱られて、運転を止めています。

 老朽原発の使用を延長するらしいですが、このまま使い続けていたら、いつか必ず事故が起きます(延長が60年で終わる保証はない)。政府と運営会社が自分で止めるか、世間に言われて止められれば、それは立派ですが、おそらくそうならないでしょう。つまり、何らかの事故を起こしてから、運転を止めるでしょう。

 しかし、その事故が、軽微で終わる保証はありません。もし、かの福島原発レベルの事故が起こったら、その責任は誰がとるのでしょうか。

 かつて私が修行した永平寺は、原発が集中立地する福井県にあります。いま私がいる恐山もまた、原子力施設が集まる青森県にあります。もし大規模な事故が起これば、800年近い歴史を持つ修行道場も、1200年続く霊場も、その姿が変わらぬまま、立ち枯れるがごとく滅亡することになります。これを許容することは、私にはできません。

 もう一度申し上げます。どのような機械も装置も、使い続けている限り、いつか必ず壊れ、事故を起こすのです。それは、人が老い、病み、死ぬのとまったく同じことです。




番外:面会再開のお知らせ。

2024年05月14日 | 面会について
コロナ禍の最中に停止していた、希望者との面会を再開します。ご希望の方は、下記の要領にてお申込み下さい。


一、面会希望の封書を送っていただく。

「面会希望」の一文(それ以外の文章は不要です)、お名前、住所、連絡先電話番号(携帯電話のものが有難いです)を明記したものを、当面福井の霊泉寺に、必ず封書でお送りください。

 宛先: 〒910-2165 福井県福井市東郷二ケ町27-4 霊泉寺

 注意! お名前・住所・連絡先電話番号の3つが揃わない場合、当方から返信・返答をしません。

一、遅くとも一か月以内に、当方から記載された電話番号に連絡申し上げる。

 このとき、日時と面会場所をご相談の上で決めます。
  
 なお、面会場所は、恐山、東京都内、福井市霊泉寺のいずれかになります。このうち、東京と霊泉寺での面会は、極めて日時が限られ、また実際の面会まで長くお待ちいただく可能性があります。あしからずご了承下さい。

一、合意の日時と場所で面会。

 なお、この手続き以外の面会・面談、メールや電話による相談には一切応じません。また、突然お送り下さる手紙やメールなど(寺院業務やその他仕事上のものは除く)にも一切お返事しませんので、あしからずご了解ください。

 この記事は本ブログのカテゴリーに残しますので、よろしくお願いいたします。


番外:『正法眼蔵私流』・第6回のお知らせ

2024年05月11日 | 日記
東京赤坂・豊川別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第6回は、

 6月21日午後6時より行います。

 なお、参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

解釈とは?

2024年05月01日 | 日記
『正法眼蔵』の解釈本を出してから、そろそろ五か月。にもかかわらず、ほとんど反響が無くてがっかりしていました。つたないながら、気合を入れて書いたつもりなのに。
 
 褒めてくれとは言わない、批判で構わない。いや、むしろ批判が知りたい。そう思って、普段は自分の本の書評レビューなどほとんど見ないのに、これだけは毎日、その種のサイトをチェックしていたのですが、出てこない。

 ・・・・・と、嘆いていたら、出ました。しかも、自分の解釈意図を説明するのに絶好のレビューで、ここに紹介させていただきます。が、その前にまず、私の解釈意図を簡単に申し述べます。

あの解釈本の冒頭で、私は、自分がこの本を読むに際して採用する読解方法を、あらかじめ提示しました。

 なぜなら、あらゆる本において、「著者自身の考え」は本人に直接訊いてみる以外にわからないからです。読者はあくまで本を読んでいるにすぎず、その内容は読者の頭の中に出来上がるにすぎません。その内容に「著者自身の考え」そのものが無条件かつ自動的に出現するはずが無いのです。

 である以上、自分の読み方を予め示して、読者が原本を読む時の参考に供する、というスタンスの方が、解釈本としてまともなスタイルに思えたわけです。

 したがって、この種の解釈本の中で得てして、「道元禅師は、〇〇と考えたのである」などと著者が書いているのを見ると、鎌倉時代の他人の考えが、どうして20世紀生まれの著者にそんなにクリアにわかるのか、不思議でたまりませんでした。

 と、申し上げた上で、私が読んだレビューをご紹介します。

「これを道元の『正法眼蔵』だとするのは大きな問題である。著者が過去に刊行している仏教論は、著者自身の論理である以上は何も問題ない。しかしこれは一応、道元の『正法眼蔵』という原作の解説、現代語訳だとしている以上、当然、原作に忠実であるべきだが、明らかにこれはあくまでも著者自身の個人的な道元論であり、正法眼蔵論にすぎない。道元はその逸話から、非常に神経質な性格だったことが知られている。その道元がもし、南直哉氏が『正法眼蔵 全 新講』と題して、このような内容のものを道元自身の原作として出版していることを知ったら、どんな反応を示しただろうか。」

 ここでレビュー者が拙著を「著者自身の個人的な道元論」とおっしゃるのは、誠にそのとおりです。

 ですが、解釈本が「当然、原作に忠実であるべきだ」としても、その「忠実さ」は誰がどのような基準で判断するのでしょうか。ある解釈が「原作に忠実である」ということは、「事実」ではなくて、読み手がそう「考え」「感じ」ているにすぎません。ならば「忠実である」と考え・判断し・感じる根拠は何か。これを説明しなければなりません。もっといえば、レビュー者が「忠実である」とする解釈を、自分でして見せるか、「忠実である」解釈本を推薦するべきでしょう。

 最後に「どんな反応を示しただろうか」と言われても、誰にも分らないとしか、言いようがありますまい。ただ、私は、案外褒めてくれたのではないかと思います。なぜなら、経典等の原本を自分独自の手法で読み換えることは、道元禅師自らが『眼蔵』の中で何度もしていることだからです。その点では、私は禅師に「忠実」です。

 


番外:告知と宣伝です。

2024年04月15日 | 日記
 東京赤坂・豊川別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第5回は、

 5月9日午後6時より行います。

 なお、参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

 
 続いて宣伝です。

 来る17日、拙著が発売になります。

『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)です。

 レジに持っていきにくいタイトルかもしれませんが、その節はネットでよろしくお願いいたします。

ケアの思想

2024年04月01日 | 日記
 先日、終末期医療に関わる医療者(医師、看護師、介護士など)の方々にお話をする機会がありました。この時、私が考えていたのは、ケアという行為の根本的な問題でした。

 通常、心身に不調のある方に対する医療的介護的ケアこそが、ケアという行為の本領のように思われるでしょうが、私は、ケアは人間の存在の仕方を規定する、根源的な行為だと思います。

 我々は自己決定で生れてきません。肉体も社会的人格も他者に由来します。自己が自己であることは、その最初から他者の配慮と承認によるのであって、その存在そのものが極めて脆弱なのです。この他者による配慮と承認こそ、根本的な、いわば存在論的なケアだと言えるでしょう。

 終末期のケアは、もはや治療の限界を超え、人間的な脆弱性が剥き出しになった状態で行われる、存在論的ケアの極相と言うべき事態です。

 この時、終末期の人をケアする人(医療関係者)も、人間である以上、存在論的ケアを必要とするはずです。非常に困難な状態にある人に向き合い続けることは、その人の剥き出しになった脆弱性を通じて、今度は自己に潜在している脆弱性が、強烈に自覚されることになります。ならば、このケアする人をケアすることを無視して、そもそもケアは成りたたないでしょう。

 私は、ケアは連鎖すべきだと考えます。そしてケアは双方向的であり得ると思います。ケアされる人は、行動が大きく制限されようとも、少なくともケアする人に敬意とねぎらいの気持ちは持てるはずです。これは、おそらく存在論的ケアの土台であり、あらゆる「自己」に必要とされることなのです。

 私は、ケアの連鎖に宗教者が連なるべきだと思いますし、連ならなければならないと思ってきました。微力ながら、機会を与えられれば、今後とも、この問題に取り組んでいこうと、考えています。

番外:『正法眼蔵』私流・第4回のお知らせ。

2024年03月24日 | 日記
 東京赤坂・豊川別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第4回は、

 4月13日午後6時より行います。

 なお、参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。