恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

価値と無価値

2018年08月20日 | 日記
 スポーツなどの競技や囲碁将棋などの勝負事を見ていて、日ごろ思うのは、これらは価値があると思えば価値があり、無価値だと言えば、無価値だろうということです。

大の大人が大勢でボールを蹴りあったり、抜群に優秀な頭脳の持ち主が白黒の小石を延々と並べあっている姿を見ると、関心あるものにとっては、この上もない重要事であり、無関心なものにとっては、まったくの無駄でしょう。

 それというのも、こうしたスポーツや勝負事は本来遊戯であり、遊戯である以上は価値や無価値の判断、すなわち「なすべきこと」「なす必要のないこと」の判断から外れる行いだからです。

 それが、競技や勝負を行うのではなく、「見る欲望」を持つ人々がある程度の規模で現れると、需要に対する供給が生まれ、市場が出来て「プロ」が現れ、そこに「なすべき」「価値」が生まれ、遊びは労働となり、努力が必要になるわけでしょう。

 こうなると、近代社会においては、遊びは労働より劣位に置かれ、「プロ」が「アマ」に優越して、結局「職業」化した元「遊び」は、「価値あるもの」と認識されることになります。

 ところが、昨今のIT技術の進化で、人間の知的能力を凌駕するものが現れ、現在の職業のかなりの数がロボットなどに代替されることになると、労働に価値を見出し、「職業」にアイデンティティーを保証されるような、従来のような存在の仕方は、ナンセンスになるかもしれません。

 すると、遊びは労働化することで価値があるのではなく、まさに遊びであるがゆえに、楽しみであるがゆえに意味あるものへと先祖がえりするのではないでしょうか。

 労働として競技や勝負をするプロは、それを見て楽しむアマより下に位置づけられるかもしれません。古代ローマ時代のように。

 これは要するに、価値と無価値の逆転現象であり、遊戯の能力が人間の実存を価値づける時代に入ることを意味し、ついには労働が「趣味」化するでしょう。

「認められること」を根源的な欲望とする人間には、このような価値と無価値の「輪廻」が止まないだろうと、私は妄想しています。
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ブッダ「誕生」

2018年08月10日 | 日記
「君は、ゴータマ・ブッダの伝記的経典にある、いわゆる『梵天勧請』の話を随分と重要視しているな。どうしてだ?」

「ああ。ヴェーダ経典のブラフマンにあたる神が、悟りを開いたゴータマ・シッダッタに説法を請うエピソードだな。そのとおり、あの話と、それに続く最初の説法、『初転法輪』の話で、初めてシッダッタ青年はブッダになったんだ」

「悟ったときではない?」

「違う。『悟り』と称される何らかの体験、あるいは境地は、それ自体ではまったく無意味だ。幻覚や妄想と区別がつかない。大事なのは、その体験の後、彼が何を語り、どう行動したかなのだ」

「つまり、ある体験をどういうコンテクストに乗せるかが問題なのだな」

「そもそも、ブッダは自身の『悟り』体験やその内容について、一切語っていない。少なくとも経典にない」

「だから、彼以外の者が何を語ろうと、結局はお伽噺にしかならないわけか」

「そう。『梵天勧請』の話では、悟りの直後、シッダッタ青年は、誰にも自分の悟りは理解できないから、まるきり他人に話す気はなかったということになっている。ならば、この話のキモは、そのまま何も言わなければ、コトは結構な体験をしたシッダッタ君の自己満足エピソードで終わり、仏教にはならないということだ」

「ということは、その時点でまだブッダではない」

「本人には悟った者としての自覚や実感があっただろう。しかし、それなら、『自称ブッダ』に過ぎない。『自称芸能人』のうさん臭さと変わらない。『私』が記憶と他者の承認で成り立つように、『自称ブッダ』は他者から『彼はブッダだ』と認められねばならない」

「それが『梵天勧請』エピソード核心か」

「もう一つ。ブラフマンが勧請している以上、彼の『悟り』と称する体験とその教えは、ヴェーダの教えより優越しているという意味になる」

「つまり、ヴェーダ教説との差異こそが肝心なのであって、共通するものは二の次ということだな」

「だからこそ、その体験後にユニークでオリジナルな何かを語り、誰かを納得させねばならない」

「そうか。だから初説教になるわけで、昔の修行仲間に話をしてみたら、そのうちの一人がいきなり悟った(実際には、よく理解した、程度の意味だろう)」

「というか、ブッダが『彼は悟った』と認証した。シッダッタ青年以前に悟った人間はいないのだから、彼が認証するしかない。つまり、『悟り』の内容が明かされない以上は、先に『悟った』と自称する人が、何かを語って、聞いた側に何らかの変化があった時に、それを『悟り』と認証する手続きが最初から必要なのだ」

「ということは、『悟り』は一人で開けないのか?」

「そう。それでは『悟り』にならない。つまり、サンガと『悟り』は同時に成立する」

「その時点で、ブッダがブッダになり、彼の言葉は妄想ではなく教説になったというわけか」

「したがって、『悟り』自体はどう語ろうと無意味だ。あるいは、どう語っても勝手だ。後は『教説市場』でどれだけの支持を集めるかの問題に過ぎない」

「言い過ぎじゃないの?」

「でもねえ、ブッダと同じ修行をしていたわけでもなく、無論ブッダと『同じ悟り』を開いたわけでもない者が、話を聞いただけで『悟った』んだよ。ならば、話の中身はともかく、『悟り』体験そのものは大した事件じゃないね」

「言うねえ」

「うん。ともかく、ぼく、『悟り』や『真理』の話は全部ひっくるめて眉唾物にしか聞こえないの」
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「仮住まい」の私

2018年07月30日 | 日記
 お陰様にて、今年も恐山例大祭は無事終了しました。ご参拝いただきました皆様、お疲れさまでした。ありがとうございました。

 期間中、たまさか受付のカウンターに坐っていると、突然、

「あらあ、やっぱり、いた、いたあ! 南さんとこのナオヤくんでしょ!!」

 いきなり出家前の名前で呼ばれて、私はびっくり。目の前に80歳代と思しきご夫婦がニコニコしていました。

「びっくりしたでしょ!」

「はあ・・・・」

 奥さんらしきご婦人、

「私、〇〇(高卒まで数年住んでいた家の地名)の、あなたの家の裏の、リンゴ畑の隣の家に住んでいた、カトウ(仮名)です」

(さすがにそれはわからんなあ・・・)

 旦那さんのほうが

「本当にご立派になられて・・・」

「はあ、ありがとうございます、〇〇の・・・・」

 この後、私の父母の昔話になったのですが、私にはまったくお二方の記憶がないのです。

 この突然出現する、自分に記憶がまったくない人と、ほとんど興味のない昔話をしなければならない苦境に、このところよく陥ります。これもなし崩し的に続いてきた著書の出版と、場当たり的に出たテレビの副作用なのだと、最近は諦めています。

 以前、出版社から転送されてきた、大学の同窓生という人からの手紙に、

「背の高い彼は、いつもトレンチコートの裾を翻し、斜め下45度を見つめたまま、兵隊のような大股で、まっすぐキャンパスを突っ切って行った」

 という一節があり、大笑いしてしまいました。確かにあの頃、秋から春の半年くらい、3枚のタートルネックセーターと、一張羅のトレンチコートと、2枚のジーパンで暮らしていました。

 つるむ友達もなく、妄想で頭を一杯にしながら、上の空でどこかを歩いていた当時の自分が、いきなりフラッシュバックのように記憶によみがえりました。確かにこの手紙の主は私を知っているのでしょう。が、それが誰だかまるで見当もつきません。

 また以前、私が不在の恐山に、小学校の同級生を名乗る人物が現れ、受付で

「南くんはマンガと似顔絵が上手で、いつも周りを笑わせていた」

 と話していたそうです。ところが、私は小学校の同級生など、誰一人として覚えていません。

 地縁が薄く、帰属意識が極端に乏しい私は、引っ越しや卒業などのたび、それまでのことをほとんど全部忘れてしまうのです。
 
 ただ、かろうじて修行道場時代の友人の縁は今もつながっていて、それはありがたく思っています。

 ですが、私にはどこか、自分がこの世界のアウトサイダーであるという意識が残り続け、またそうあるべきだという思いもあって、帰属感が揺らぎます。

 おそらく私は、道場に対しても宗門に対しても、真っ当に固まった帰属意識というよりも、いわば「渡世人」のごとき、「一宿一飯の恩義」のようなものを感じているのでしょう。その方がリアルなのです。

 思えば、私は子供のころから、最後に安心して死ねる場所はどこだろうとずっと考えていました。それこそが自分の本当の「居場所」だと思っていたのです。

 しかし、そのうちに気がつきました。そんな場所はない。死ぬまでの間は、どこであろうと「仮の宿」だと。

 おそらくは、私の過去に対する意識の薄さ、その根にある、自分の存在に対する慢性病のような不安が、どのような場所にいても決して安住させないのでしょう。

「行雲流水」という言葉に、ロマンよりもやるせなさを感じてしまう私は、今更ながら、禅僧であることにさえ、どこか違和感があるのかもしれません。
 
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葬式の意味

2018年07月20日 | 日記
 葬式は死者にかかわる営為であって、死後の「霊魂」や特定の教義(たとえば、「輪廻転生」)にかかわるものではありません。

 まず、死者はこの世に実在するものです。見たり触れたり会話したりできる生者とは存在の仕方が違いますが、現に存在しています。それどころか、しばしば生者よりはるかに高いリアリティーで、実在しているのです。

 たとえば、近隣の小太りの青年が支配する国では、彼の祖父や父より高い強度のリアリティーで存在する国民は、誰一人としていません。あの国は死者が生者を支配する国です。

 考えてみれば、人のことは言えません。われわれ仏教徒も、2500年前に死んだ人物を根拠に生きているのですから。

 生きていても死んでいても、親は親。子は子、大切な人は大切な人でしょう。人間関係の枠組みは変わりません。彼らはこの世に実在します。「霊魂」などは、このような死者のリアリティーを説明する一アイデアにすぎません。

 また、いずれの宗教・宗派にも葬式をはじめとする死者儀礼がある以上、葬式そのものが特定の教義に関係ないことは自明です。

 葬式について考えるとき、以下の三つを区別して考えると便利です。その三つとはすなわち、「死体」と「遺体」と「死者」、です。

 この三つは、往々にして混同されていますが、まったく別なものです。

 まず「死体」。

 大事故などが起きると、メディアはたとえば、「死者123名」などと報道します。ですが、このときの「死者」は「死体」のことです。なぜなら、この報道では、「123」という数字にしか意味がないからです。つまりそれは、数えられる「物」なのです。

 ところが、これが「誰それさんの死体」、たとえば「お母さんの死体」となると話が違ってきます。これはただの123分の1に当たる「物」の話ではありません。「お母さん」という以上は、それは「子」に対して「お母さん」なのです。とすると、ある「死体」は、「お母さんの死体」となったとたん、生者の人間関係の中に引き戻され、「人格」を持ちます。この「人格を持った死体」を「遺体」というのです。「体を遺した人」がいるのです。

 葬式は「死体」ではできません。それは「遺体」に対してするものです。ということは、葬式は「死後」の問題ではなく、生者と死者の関係する現実の事象なのです。

「死体」や「遺体」は放置すると腐敗して分解され、そうでなければ埋められるか焼かれます。つまり「物」としては失われます。まさにこのとき、すなわち「死体」や「遺体」が「無くなった」刹那に立ち上がってくるのが、「死者」です。

 かくして、古今東西、宗教や信仰が持つ葬式儀礼に共通する根本的な意味は、ある人物について「彼は死んだ!」と確定することです。この確定によって「死者」を立ち上げ、彼をめぐる生者の人間関係の中に再び位置づけること、これこそが葬式の眼目です。

 そして、この立ち上がった「死者」と、彼が生きている間とは別の関係を結び直すことを「弔い」と言うのだと、私は考えます。

 結局、数ある死者儀礼やそれをめぐるアイデアは、この「死者」の立ち上げと、生者との関係の結び直しの便法というわけです。

 死が原理的に不可知である以上、生きている人間が自らの死を丸飲みするには、多くの場合、「死者」の実在を前提に、このような便法でストーリーを作るしかないのです。

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彼と彼らの死の後で

2018年07月10日 | 日記
 6日、オウム真理教事件の首謀者であり教祖・麻原彰晃と、教団幹部6人の死刑が執行されました。おそらくは残りの死刑囚も今後執行されるのでしょう。

 この事件については、事件以来ずっと私自身にこだわりがあり、著書の中で何度か触れ、本ブログでも言及しています(「17年目の氷解」)。

 今回、死刑執行にあたり、いま自分が考えていることを、書き止めておきたいと思います。

 まず、教祖について。

 私は、この事件の核心は、麻原の桁外れの権力欲だと思っています。

 権力は、暴力と、それを正当化するイデオロギー、制度とで構成されます。

 権力は剥き出しの暴力では成り立ちません。他者の支配を暴力だけで行うとすれば、常にその強度をめぐって闘争がやまず、支配は安定しません。暴力を維持し、それを無暗に行使せずに支配するには、暴力を管理しなければならず、その管理が正当であることを主張しなければばりません。イデオロギーを必要とするゆえんです。

 他方イデオロギーは、それを「真理」「正義」として主張するなら、そこに「普遍性」や「絶対性」が要求され、その「普遍性」を普遍的でもなんでもない人間の世において実現するとなれば、結局その「真理」「正義」を認めない者を排除あるいは消去するという方法に依る他ありません。このとき、イデオロギーは暴力を必要とし、その瞬間、「真理」と「正義」は権力化するのです。

 近代国家においては、暴力は「軍隊」と「警察」に集約されて、「自由」と「平等」を基礎とするイデオロギーと、それを制度化した政治体制(議会制民主主義)によって管理され、権力として確立されています。

 この体制において権力を得るためには、選挙を経て大統領や首相などになる他ありません。それには、現在の日本では、それなりの「家柄」と「財力」と「能力」のすべてか、特に優れたどれかが最低一つ、必要でしょう。

 いま、彼の権力欲の源泉を生い立ちに遡って検討することは、ここではしません。大事なのは、事実として麻原には、この「正規ルート」で権力を得る道が閉ざされていたということです。

 そこで彼はまず、宗教を利用してイデオロギーを自前で構築することから着手したのです。仏教を中心に様々な宗教の教義を独自の解釈で混交し、「超能力」を見せ金にしつつ、結局は輪廻と堕地獄という、俗耳に入りやすい幼稚で単純なアイデアで弟子や信者を緊縛することに成功します。

 すると残るは暴力です。おそらく彼は、教団を成立させる目途が立ち、ある程度の規模になった最初期から、武装化を念頭においていたことでしょう。

 選挙に出て負けたから武装化に走ったのなどというのは、きわめて浅はかな見方で、選挙出馬は「正規ルート」で「真理は実現できない」と教団に納得させるためのパフォーマンスに過ぎないでしょう。「選挙に惨敗し、彼はショックを受けていた」と言われていますが、おそらく彼はショックを受けた「フリ」をしただけです。

「正規ルート」の権力が人々の「生への欲望」を動力としているとすれば、宗教ルートの権力は死の不安に収斂する「実存不安」を刺激しながらエネルギーを備給していきます。彼にイデオロギーで取り込まれ、その権力欲に飲み込まれた弟子や信者は、まさにその実存不安に付け込まれたわけです。

 一度「真理」に帰依してしまえば、それが権力奪取の道具だと気がついたとしても、その「真理」が彼らの実存不安を塞ぎ、存在根拠として機能し続けていれば、教祖は裏切れず、指示には逆らえません。その裏切りや反抗は、そのまま自己否定になるからです。

 権力と実存不安は、いつの時代のどの社会にも存在し、存在し続けます。つまり、「オウム真理教」的事象は、極めて「人間的」な事象だと考えるべきなのです。
 

 
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「縁起」ノート

2018年06月30日 | 日記
 仏教の中心概念である「縁起」を考えるとき、以下の5つの意味を区別しながら考えたほうがよいと思います。


1、「原因ー結果」関係

 人間の思考規則としての因果律のことで、特に仏教的でもなく、仏教プロパーな概念でもありません。注意すべきは、それ自体が原理のごとく実在するのではなく、あくまで人間の基本的な思考方法だということです。

2、「十二支縁起」

 これは「無明」から「老死」までの12項の因果連鎖で実存を説明するもので、上座部ではこれらを過去・現在・未来に配当していわば胎生学的・実体的に理解(原因が結果を「引き起こす」)しますが、私は実存そのものの構造分析モデルだと考えます。ちなみに、私は「無明」を言語だと考えています。

3、「因果の道理」

 因果律を方法概念ではなく実体的な存在原理と考えて、「輪廻」や「業」の説明に適応するものです。原因・結果の両方に善悪・苦楽を絡めることで、一種の恫喝的論理を構成し、社会的差別を助長する著しい弊害があります。

4、「相依的縁起」

 大乗仏教の「空」の教えの実質をなすとされる縁起の考え方で、AがあるからBがある、同時にBがあるからAがある、したがってAもBもそれ自体で実体として存在するわけではない、と主張します。多くの場合、ナーガールジュナの縁起観だと説明されますが、最初から暗黙の内にAとBの存在が前提されている時点で、非「縁起」的です。

5、「『中論』的縁起」

 ナーガールジュナの『中論』で主題化されている、言語批判を方法として説かれる縁起説です。「行くものは行かない」というパラドキシカルな主張で典型的に示されるもので、私は「関係」を「行為」と考え、存在に関係は先立ち、行為が実存を規定するというアイデアを、『中論』から読み出しています。

 他にも必要な区別をお考えの方は、ご教示ください。
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捕捉:自己同一性(自分は誰か)問題

2018年06月22日 | 日記
我々は「自己決定」で生まれてきません。身体も名前も他人の作物であり、言語も他人から植え込まれました。すなわち、「自己」は最初から、そしてその根底から、生物的にも社会的にも、他者に侵食されています。
「自己」とは、いわば、他者の用意した「器」であり、他人から課された「形式」です(「内容」ではない)。この器と形式に記憶を盛り、整序していくわけです。

 したがって、たとえば人物Aが突如記憶喪失となり、その後人物Bとして生きている内に、急に記憶が蘇って「自分はAだと」気がつたとき、仮に、彼が出会う人すべてが、彼の「Aである」ことを認めず、「B」として扱い続けたら、

 その人物は「B」として振る舞い続けないかぎり、ということは「B」であることを受け容れないかぎり、つまり「B」にならないかぎり、いずれ生きることができなくなるでしょう。

「Bである」ことを断固拒否するなら、彼は「A]の記憶を保持したまま、全他者からの「Bであること」の強制に耐えつつ、「AでもBでもない誰か」、あるいは「AでもBでもある誰か」としてしか生きられず、自己同一性は崩壊して社会関係を結べなくなってしまいます。

つまり、ある人物が「Aである」こと、すなわち自己同一性は、自分が「Aである」ことの思い込みの持続と、他者による「彼はAである」という承認によって確定し、維持されるのであり、そのどちらか、あるいはその両方を失えば、自己同一性は維持できません。(本ブログ記事「アンパンマンの哲学」参照)
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みんな大好き

2018年06月20日 | 日記
「君も講演で言っていたが、坊さんが霊だの前世だの来世だの、はたまた輪廻だのという話をすると、俄然、聴衆は盛り上がるよな」

「そのとおり。みんな大好き。それまで浮かない顔で退屈そうに聞いていた人たちが、この話になると一斉に顔を上げ、ギラギラした目で話し手を見るもん」

「考えてみれば、梅雨が明けごろから、テレビ局だってヒュードロドロ系の『スペシャル』番組を定番で打つしな」

「以前、某テレビ局からすごい依頼をされたことがある」

「どんな?」

「幽霊の実況中継をしたいんだとさ」

「はあ?」

「ADらしき者いわく、いままでの心霊系番組はほとんど再現フィルムか、あるいは写真がせいぜいです。しかし、今回のウチは違います。恐山の岩場の奥にテントを張らせていただいて、霊が出るまで待ちます、だとさ。爆笑だぜ」

「本気で言ってるのか?」

「番組作る程度には本気だったんだろ」

「なにか、そのテレビ局大丈夫か、って気分になるな」

「ただね、ぼくはね、幽霊が本当にいるかいないかはどうでもいい話なの。そうでなくて、ぼくが興味深く思うのは、なぜ人はみなこの話がこれほど好きなのか、ってこと」

「なるほど」

「こういう番組、飽きずに繰り返されるでしょ。またそれを見ている人も半信半疑だけど、見るでしょ。見る人いるから、作るんでしょ」

「つまり需要があるから供給がある」

「だから『霊感商法』も成り立つ。まさに需要と供給」

「そうだな」

「となると、ぼくはその需要の正体が気になるの」

「どう思うんだ?」

「まあ、簡単だな。誕生と死という大イベントを超えて、自意識の連続性と同一性を根拠づけるものへの欲望だな」

「で、仏教の核心的教えはそれを設定しない」

「というより、『無明』と呼んで肯定しない」

「そんな根拠がないとすると、ないものを欲望できるのか?」

「ないとは断定しない。だから、欲望は消えずに、対象を喪失したまま無限大に膨らんで、裏口から『根拠』を引き込もうとするんだろ」

「根拠は仮説か?」

「当たり前だ。自意識の同一性は本人の記憶と周辺他者の承認だけで構成されている。よしんば記憶が現世を超えて連続しても、他人の承認は連続しない。同一性が維持できるはずがない。あるいは本人の錯覚や妄想と区別できない」

「前世や来世、あるいは輪廻は自意識の問題なのか?」

「あのねえ、自意識の連続性や同一性と無関係なら、そもそも、こんな話をしなきゃいけない理由があるの?」

「ないだろうなあ」

「そう。だから、こういう話から解脱しなきゃいけないの、仏教は」

「幽霊がいても?」

「いても、いなくても」



追記:

 この度の大阪・京都方面の地震によりお亡くなりなった方々に、心よりお悔やみを申し上げ、被災した皆様が一日も早く平穏な毎日を取り戻されることを、深く祈念いたします。
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違いがわかる男?

2018年06月10日 | 日記
 いわゆる初期経典といわれるものの中には、「え?」と面食らうような内容のものがあります。

 たとえば、『相応部』に出て来る「家長チッタ」と呼ばれる在家の人物は、仏教で言う「四禅」という瞑想の最高位、「第四禅」にまで至ります。

 この「第四禅」とは、ゴータマ・ブッダがこの禅定からニルヴァーナに入ったとされる境地ですが、するとこのチッタもニルヴァーナに入ったのでしょうか?

 それを証拠立てるように、家長チッタは、自分がブッダより先に逝去すれば、ブッダが次のように予言するだろう告げます。

「それによって家長チッタが再びこの世に戻ってくるような繫縛は存在しない」 

 すると聞いていた外道の修行者が

「白衣を纏う在家者が、このような人間の理法を超えた、知識と見解における真の聖者の卓越した境地である安住に到達し得ると言う」

 と述べ、チッタを賞賛します。

 この記述は、いかにも在家者チッタが逝去にあたりニルヴァーナに入ったように読めます。
 
 もしそうだとすると、仏教の究極目標であるニルヴァーナに到達するのに、出家と在家の区別はほとんど無意味だということになるでしょう。
 
 大乗仏教の経典『維摩経』は、在家修行者の境地が出家修行者のそれをしのぐことを、ドラマティックに物語りますが、そのような思想の淵源が、このチッタにも垣間見えます。

 かりに究極目標の実現において差がないとして、それでも出家と在家に違いがあるとすれば、それははどこに見られるべきでしょうか? この差は無意味で、特に出家などする必要はないのでしょうか?

 けだし、問題なのは最終目標ではありません。その過程です。

 「出家」というライフスタイルの根本的な特徴は、ざっと、性交の禁止、労働の禁止、所有の制限の三つ、あえて付け加えれば定住生活の拒否でしょう。

 性交・労働・所有・定住は、人間が存在すること・生きることを肯定し、前提とした上でなされる行為です。その存在や生を否定し批判しながら、なお死なずに存在し生きているなら、それは実践として、人間の存在や生の根拠を根底から問う態度に転換します。

 というよりも、事実は逆で、それを根源的に問う人間が最終的に到達するライフスタイルが「出家」だということです。

 ここで誤解してはいけないのは、これが現実の振る舞いというより、原理的な思想の問題だということです。実際に「出家」してもそれを問わない人はいるでしょうし、「在家」であろうと問う人はいるでしょう。

 しかしながら、いま私が言いたいのは、そういう「事実」問題ではなく「理念」の問題であり、敢えて言えば、誰であれ「問う」人を「出家」と呼び、「問わない」人を「在家」と呼ぼうということです。

 この問いは、歴史的には、「問う」出家がその生存を「問わない」在家に全面的に依存する(托鉢・布施)という矛盾において、開始されました。これを思想的に評価するなら、問うこと自体に確実な根拠も全面的な正当性もないことを象徴的に意味すると、私は考えます(問わなければいけない理由は何もない)。

 だからこそ、「問う」意志こそが問題になるのです。そして、まさにいかなる根拠もなく問い続ける行為にこそ、「諸行無常」が実存として現成するのであり、そこに「出家」が現実化するわけです。
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友の本

2018年05月30日 | 日記
 今はときめく言論人宮崎哲弥氏は、私の知る限り「仏教者」を公言する唯一の評論家です。

 実は、私と彼とは、彼に誘われて何度かメディアでの対談をさせてもらうなど、かれこれ10年になんなんとする「腐れ縁」(宮崎氏談)の仲なのです。

 最初の出会いは某出版社が企画した対談で、これはもちろん本になるはずだったのですが、その後メディアでの活動が以前に倍して多忙になった彼が、本の原稿を数年を経てもまったく校正できず、急遽私の単著(『賭ける仏教』)に衣替えして出版されるに至りました。

 私は対談本として出されることを切望していたので、極めて残念な結果でしたが、彼にはこの対談が自身初の仏教書になるので、きちんと手を入れたかったらしく、それができなくなった以上は、自分の名前を冠する本にしたくなかったのでしょう。しかし、内容は惜しいので、私の単著にするよう強く要請してきたわけです。

 以来私は、いずれは宮崎氏が渾身の仏教書を出すだろうと思って期待していましたが、今般ついに『仏教論争』(ちくま新書)が世に問われました。

 この書は、仏教の核心中の核心コンセプトである「縁起」を、和辻哲郎など学者・有識者の論争を検討することで、犀利に分析した、実にユニークな書物です。まさに満を持したと言うべきものでしょう。

 書物の優秀さはもちろんですが、私がいま言祝ぎたいのは、一貫して仏教を生きる軸に定めてきた、まさに「仏教者」と呼ぶにふさわしい言論人たる彼が、実に堂々たる「仏教書」をものし、一般読者および仏教界に大きな貢献をしたことです。

 私は、現代日本において仏教がさらに多角的に活性化しつつあることを、彼のような立場の人間による、このような本の登場に、深く実感しています。
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