恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

魅惑の「独覚」

2021年08月01日 | 日記
 仏教の修行僧を三種類に分ける考え方があります。「声聞(しょうもん)」「独覚(どっかく)または縁覚(えんがく)」「菩薩(ぼさつ)」です。

「声聞」は、ブッダの教えを聞きながら修行し、四聖諦を悟る者を言います。

「独覚」は、ブッダの教えを聞かないまま、十二支縁起を悟り、それを他人に説かない者です。要は師匠を持たず、僧団に属さないで、単独に修行する者でもあります。

「菩薩」は、初期仏教(上座部、あるいは部派仏教)では、ゴータマ・ブッダの修行時代を言います(釈迦菩薩)。大乗仏教では、すでに悟りを開いているのに、人々を救済するために、あえて成仏せず涅槃に入らず、釈尊の教化や救済を助け、代行する者です。

 このような3種類の区別は、大乗仏教が成立した後、それ以前の初期仏教に対する優越性を強調するために設定されたものです。そこで強調されているのは、「声聞」と「独覚」は自分の修行と悟り(自利)に固執・専念して、衆生の教化や救済は無視しているが、「菩薩」は自らの悟りや修行より、まさに教化と救済(利他)の為に尽くす、という違いです。

「声聞」の悟りに四聖諦が当てられ、「縁覚」に十二支縁起が当てられるということは、「菩薩」には空・縁起ということでしょう。いかにも教条的です。

 大乗のイデオロギッシュなアイデアを棚上げして、この区別を見直してみると、いろいろ面白い解釈ができると思います。

「声聞」は要するに普通のブッダの弟子です。ですから、四聖諦を納得できれば、さらに十二支縁起など、他の教えを学んだに違いありません。さらに一人前になれば、当然、自分の弟子や在家の人々に教えを説いたでしょう(でなければ、存在意義はない。布施もされない)。自己の悟りだけですますはずがありません。

 考えてみれば、仏教の救済とは、詰まるところ、成仏する(させる)ことです。そのための教えを説くのは、まさに「利他」行に他なりません。無視どころの話ではないでしょう。

「独覚」について言うと、私は長年、この存在の不思議さに魅惑されてきました。

 本当にブッダの教えを知らぬまま、十二支縁起を悟ったなら、要するにその人もブッダだということでしょう。ゴータマ・シッダルタだって、ブッダに教えられて悟ったわけではないのだから。ということは、当時ブッダは大勢いて、特に珍しくなかったということです。

 しかし、これでは仏教の卓越性を主張できないので、いかにも具合が悪く、後に教団が大きくなると、ゴータマ・ブッダは、過去世で別の先輩ブッダの下で修行したという物語を創作する必要が出て来るわけです(ジャータカの有力な存在理由)。

「独覚」にもグループを作るタイプと、単独で修行するタイプがいたようです。私はしみじみ思うのは、やはりどこにでも集団生活に馴染めない者がいたのだなあ、ということです。私はそこのところに、なにかつくづく、ホッとするものを感じるわけです。

 そして、とにもかくにも、このタイプを否定せず仏教徒に加えているところに、度量の大きさを感じます。

 ですが、それにしても、ブッダにも会わず単独で修行して、それなりに悟られてしまっては、ブッダのみならず僧団・教団も存在意義を問われかねません。そのような言わば「異端者」が、何ゆえに曲がりなりにも長らく認められてきたのか。疑問と魅力が尽きません。