恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

誰の意志なのか

2012年02月20日 | インポート

 最近発表された統計で、約50年後の日本では、人口が8千万人台に減り、平均寿命は男性で80歳をこえ、女性は90歳に達するとありました。そのときの高齢者が人口に占める割合は4割とのことです。

 この数字は、人によっていろいろに読めるでしょうが、これから高齢者となっていく私などには、こんな妄想が噴出してきます。

 ・・・・・ ということは、これからしばらくは、毎年大量の人間が死ぬことになる。ならば、我々は次第に人の死に狎れていくかもしれない。

 その一方で、医学的な治療・延命技術は進歩し続ける。平均で90歳、ということは、もはや100歳の人間はめずらしくない時代になるだろう。

 すると、いま以上に、「尊厳死」問題がクローズアップされることになるのではないか。というより、状況はさらに展開し、いわゆる積極的安楽死、すなわち回復の見込みがなく、耐え難い苦痛にさらされ続けているような病人が、自らの意志で死を望んだ場合、彼を死に至らしめるような医学的行為が合法化されるところまでいくかもしれない。

 そればかりではない。場合によっては、新たな主張が出てくる可能性がある。つまり、「死の自己決定権」である。重病でもなく、余命の宣告を受けているのでもなく、単に「生きるのはもういい」という理由だけで自死が認められ、そのためのサービスが許容されるべきだ、と考えるのである。

 これは一見、「自己決定」とか「個人の権利」の装いで主張されるから、最終的に「本人が言うなら、勝手にしたらよかろう」という話で落ちを付けられるかもしれない。しかし、これは額面どおりに受け取れるか?

 思うに、人口が縮減し、かつ高齢化が進んでいく社会は、「経済成長」を目的とし続けるなら、構造的かつ潜在的に、高齢者が減少することを志向するはずである。

 すると、尊厳死も安楽死も「死の自己決定権」も、そういう「成長」主義社会には好都合である。というより、事態はむしろ逆で、「成長」主義社会の構造が、死をめぐる「自己決定」という幻想を醸成するのかもしれない。

 たとえ、あらゆる先端技術を総動員した結果、とんでもない「元気で長生き」状態が実現したり、脳の移植や自意識のコピーが可能になって、「生存」の延長に限界がなくなったとしても、社会の意志は変わらない。それらは社会の新陳代謝を妨げるから、「成長」を必要とする以上は、そのような「長生き」や「延長」は望まれないのだ。

 つまり、今後の社会は、個人における「死の自己決定権」をまず認め、次に推奨し、最後は制度的に管理するようになるかもしれない。制度的に管理とは結局、何か。それは個人の寿命の長短を管理・決定する制度の構築と運用である。

 はたしてこの場合、「死の決定権」はどこに帰するというのだろうか ・・・・・・・・・。

 ここで間違えてはいけないのは、自分で決定したり制度が管理できるのは、死ではない、ということです。それが何であるか、原理的に「わからない」ものを決定したり管理できるはずがありません。

 決定したり管理できるのは、「もう無用である」と自分が考えるか、制度が認定する、身体の始末の仕方なのです。これは死とはまるで関係がないことです。

 この局面で、もし我々が「死」を正面から考えるとすれば、それはまさに、そもそも「無用」とはどういうことか、「無用」とは何を意味するのかを問うことを通じてです。この問いを徹底的に遂行することが、「自己の死」を確保することに他なりません。

 一切の意味を消去する「死」に対して、なおも意味を考え続けることこそ、唯一、我々に「死」を現前させる方法なのです。その「死」にどういう態度をとるのか、ここにこそ究極の「自己決定」、つまり、「自己による決定」ならぬ、「自己の在り方の決定」がかかっているのです。


言い方の問題

2012年02月10日 | インポート

「某氏が最近出した本に『南さんは輪廻の教えを否定している』と書いてあると聞きましたが、そうなのですか」と、質問されました。当ブログでも何度か書いた問題ですが、あらためて現時点の見解を述べさせていただきます。

 輪廻が実際に起こる出来事かどうかは、死んだことのない今の我が身にはわかるはずがありません。私が言いたいのは、「輪廻」というものの考え方はナンセンスで、仮に「輪廻からの解脱」が言語内存在としての人間に起こるとするなら、それは「輪廻という考え方からの解脱」ということ以外にありえない、ということです。

 そもそも「輪廻」という概念が意味を持つのは、まず前世・現世・来世がそのものとして実在し、その間に何らかの同一性を一貫して保持するものあって、それが「生まれ変わり死に変わり」するーーー という考え方を核心とする場合のみです。これが、私が議論する場合の「輪廻」の定義です。

 つまり、「前世は犬だったが、現世で人間に生まれ変わった」という事態で、この犬と人間の「見かけ」の違いの根底に、「霊魂」のごとき、個別で実体的な存在の同一性を前提しない限り、「輪廻」の言説を語る意味がありません。「輪廻」する当のものは「霊魂」的実体ということになります。そうでなければ、「前世には犬がいて、現世には人間がいた」というだけのことで、ああそうですか、で終わる話でしょう。

 しかるに、この同一性は、「客観的事実」それ自体としては、いかにしても証明できません。だいたい、今日の自分と昨日の自分の同一性を証明することさえ不可能なのに(昨日の自分はもういません)、前世と現世の間での証明など、冗談にすぎません。

 これに対して、よく持ち出されてくる話は、同一なのは、個々の「霊魂」的実体などではなく、それ自体実在する「大きな命の流れ」や、「根源的な識の流れ」なのだ、というものです。

 この話は、よく川と渦巻きのたとえ話で語られます。大きな川のあちこちに渦巻きが出来ている。その個々の渦巻きが、それぞれの人間であり、意識なのだ。

 個々の渦巻きは時に消え、また別のところに表れる。しかし、川自体は個々のそれらを超越して、変わることなく流れていく、輪廻とはそういうことなのである。

 この言い方はすなわち、輪廻する当の主体は川なのだ、ということでしょう。「あそこに出来た渦巻きと、ここにある渦巻きが、『実は同じ』なのだ」という、その同一性を担保するものが、川というわけです。

 となると、今度は、現にいま刻々と「流れている」川の「同一性」とは、「客観的事実」として何なのか? 川の何について「同一」と言っているのか? と問われることになります。

  この「何?」については答えないとすれば、言い換えれば 流れているものそれ自体は、脱人称的で、概念的に限定しうるいかなる個別性も持たないというなら、「生まれ変わり死に変わり」のような「変化」の認識は成立しませんから、「輪廻」の定義から外れることになります。

 所詮、このたとえ話は馬鹿げています。「生まれ変わり」がなく、ただ流れているだけなら、「流れている」と言えばよいわけで、「輪廻」などという余計な概念が介在する必要がありません。

 この類の話をするなら、何を目的に、どういう意味の概念を使い、いかなる方法によって語り、何故その方法を選択したのか、これらを明らかにしない限り、議論としてナンセンスです。

 子供に道徳を叩き込むために、「生まれ変わり死に変わり」の「輪廻」話を採用し、善因善果・悪因悪果の道理を使って語る。その理由は、私が「信じている」からーーー そう言われれば、なるほど、あなたはそうなのね、ですむわけです。そして、こういう様式の言い方以外は、「輪廻」を語る言葉遣いとして、間違いになります。それは、「ファンタジー」と「理論」を混同するのと同じことになるでしょう。

 ちなみに、「ファンタジー」と「理論」を分けるのは、その言説をめぐる人々の合意手続きの違いにすぎません。所詮ものは言い様ですが、どう言うかの合意の仕方が問題なのです。

 ある人問うていわく、「あなた、本当は輪廻の主体を何か考えているんでしょう?」

 私答えていわく、「ふふふ・・・鋭いですね。はい、輪廻するものがあるとするなら、それは言語です」

 ある人いわく、「それを言っちゃあ、おしまいですね」