恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

違うだろ。

2015年02月20日 | 日記
 ジャーナリストやボランティアに限らず、自ら使命を感じて戦地や紛争地に出かけ、そこで危険に遭遇して命を落とすことがあっても、それは完全に「自己責任」であって、誰を恨むべきものでもありません。

 同時に、国内であろうと国外であろうと、「国民」の安全と生命をまもり、どこであろうと危機にある者を救うのは、その国の政府の全面的な責任であり、それをしない、できないなら、政府として無能どころか、無意味です。

 この二つは、本来、まったく別のことです。だから、この違いをわきまえている国の大統領や国務長官や国連大使は、最近中東の過激集団に惨殺された日本人の仕事と「勇敢さ」を称賛するわけです。

 ところが、日本国内では、救出に失敗した政府(未だに「現地対策本部」とやらが何をしていたのかよくわからない)を批判するどころか、与党の幹部がそれは「勇敢」ではなく「蛮勇」だと非難しているのです。

 思うに、この「蛮勇」という言い方は、大統領が「果たすべき使命」を遂行する決断の「自由」と考える同じ事柄を、与党幹部はどこかで「身勝手」だと考えているから、出てくるのでしょう。

 これと同じ感覚は、殺害事件後メディアで散見された「有識者」の「自己責任」コメントにも見られます。彼らの「自己責任」論は、冒頭に私が述べた「自己責任」論とは違います。つまり、「身勝手」の結果「自業自得」でそうなったのだから、「国」「国民」に「迷惑」をかけるな、という意味なのです。この「迷惑」という言葉は、メディアばかりか、被害者の家族や遺族からも出てきます。そう言わざるを得ない圧力を感じているのでしょう。

 では、家族・親族の中にはそう思う人がいるとしても、それ以外のいったい誰がこの件で「迷惑」しているのでしょう。政府か? 「迷惑」などとんでもない。責任を果たせなかった無力を詫びこそすれ、「迷惑」などと言える筋合いではありません。それこそ政府の自己否定です。

 では「国民」か? どのくらい「迷惑」したのか? イトコの入院程度か? ペットの風邪程度か? 

 「税金」がかかっているというのか? こういう時のために払っているものを「税金」と言うんだろう。

 以前、イラクでの人質事件のときにもこの種の「自己責任」論が喧伝されていましたが、同じ議論が繰り返されていることを見ると、我が国は未だに、ひたすら「よそ様にご迷惑をかけずに」「和をもって尊しとなす」ことを最優先の価値とする「ムラ」社会であって、欧米と同じ土台で「自由」「自己責任」を論じることは無理なのだと、感じざるを得ません。これはある意味、致命的なズレです。

 欧米型「自由」「自己責任」論が「正しい」と言いたいのではありません。少なくとも「西側の一員」と言い、「価値観を共有する」と胸を張る政府を持つ「国民」である以上、このズレを自覚した上で議論する必要があるだろう、そう言いたいのです。

意志も、欲望も、意味もなく

2015年02月10日 | 日記
「無常」「無我」という考え方を私なりに言い換えれば、何かが存在するなら、それは否定性を抱え込む限りにおいて「存在する」のだ、ということになります。これはたとえば、「生きている」と言えるのは「死ぬ」からだ、ということです。

 このような矛盾は、通常自意識が歓迎するところではありませんから、我々はこの否定性を消去しようとします。その材料に使われるのが、あらゆる形態のイデオロギーです。「神」「国」「理念」「民族」エトセトラ・・・

 このとき、否定性の消去は、どのような方法であれ、必ず「死」の矮小化を招きます。つまり「絶対的なわからなさ」という否定性をもってしか言い得ないはずの「死」が、まるで次の「次元」や「世界」への「入口」か「ドア」のごとく扱われるわけです。

 かくのごとく「わかる」話にされてしまった「死」は、もはや別様式で物語られた「生」(たとえば「永遠の生命」)にすぎません。そこでは、「死」が語られることがないのです。

 仏教のユニークさは、この否定性を消去しようなどと一切考えず、真っ向から受け止めることです。

 仏教のその最終目的は「成仏」ではなく、「ニルヴァーナ」です。その「ニルヴァーナ」について、この世の出来事として記録されているのは、ゴータマ・ブッダの「死」だけです。それがどういう状態なのかは、まったくわかりません。経典のどこにも、書いてありません。そのまったくわからないことが、最終目的として提示されるのです。

 ということは、われわれのような凡夫は本来、この「目的」を意志的に目指すことも、欲望することも、意味づけることもできません。何が何だかわからないものを、意志したり欲望したり意味づけることは、どう考えても不可能です。

 ならば、どうすればよいか。

「死」を意志せず、欲望せず、意味づけず、ただ受け容れる。たとえ困難の中ではあっても、何とか工夫しながら、死ぬまでは生きていく。

 なるほど、これは修行が要ることでしょう。出家する前、「どうしようもなければ死ねばいいさ」というアイデアを、お守りのようにして生きていた自分は、今更ながらそう思います。