恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

作法の美学

2016年09月30日 | 日記
 気温30度をわずかに下回ったある日の午後、住宅地が立ち並ぶ中に割り込むようにして暖簾を掛けている、小さな蕎麦屋に入りました。

 昼飯時は過ぎていたので、店には誰も客がおらず、割烹着に手ぬぐいの姉さんかぶりという、今時めずらしい古風なスタイルのおばさんが、小さいけれど丁寧な声で「いらっしゃい」と言いつつ、入り口近くの席に坐った私に水のコップを持ってきてくれました。

 主人の姿は見えませんでしたが、おばさんが「ざる、ねえ!」と振り返りざまに言うと、「おう!」と野太い声が聞こえました。

 出された蕎麦は可もなく不可もなくというところで、食べ終えた私はいささか熱すぎる蕎麦湯をすすりながら、次の仕事のことを考えていました。

 すると、引き戸がカラッと開いて、暖簾を割って白髪の背の高い男が、左手に文庫本をつまむように持って、入ってきました。

 ベージュのポロシャツにジーンズという出で立ちのその男は、ためらうことなく店の一番奥の席に着くと、縁なしの眼鏡をちょっと掛け直し、左手だけで器用にページを開いて、すぐにそのまま読み始めました。

「いつものですね?」

 聞くまでもないという調子でおばさんが声をかけると、彼はちらっと視線をあげ、「うん」と声を漏らして、わずかにうなずきました。

 彼の前に水は出されず、ものの20秒もかからないうちに、おばさんはお銚子とぐい飲み、そして金平牛蒡の入った小鉢を盆に並べて持ってきました。

「ありがとう」

 本を見たまま彼は低いけれどよく通る声で言い、一瞬本から目を上げると、空いている右手で恐ろしく早く正確にぐい飲みに酒を注ぎ、それを薄い唇にはこぶと、吸い取るように一息に飲み干して、また本に戻りました。

 2、3回本と酒の往復運動が続くと、彼は本を置き、左手で小鉢を支え、右手に箸を持ち、まるで酒に句読点を入れるかのように金平を口に入れてから、再び往復運動が始まりました。
 
 すでに蕎麦湯を飲み終えていた私は、皺の少ない広い額と鋭角的な顎を持つこの初老の男から、なんとなく目が離せなくなっていました。手際のよい一連の動作に何とも言えないリズムがあり、見ていて心地よかったのです。

「カッコいいなあ」

 酒がすむと、彼は「お願い・・・」と、おばさんの方を見ました。まるで様子を見ていたかのように、ほとんど即座に奥からざる蕎麦が出てきました。

 男は文庫本を閉じ、おそらく定位置になっているのであろうテーブルの隅に置くと、真正面にざる蕎麦を据え、猪口を蕎麦と口元のちょうど中間の位置に構えました。

 そして、蕎麦をやや少な目につまむと、猪口をくぐらせるようにしてつゆを通し、そのまま口に流し込み、すぐに箸をターンさせて次の蕎麦を取ると、この一連の動作を途切れることなく繰り返しました。

 箸の回転がまるで蕎麦のループをつくり出しているように見え、その間にまるで合いの手のように、「シャッ、シャッ」と蕎麦をすする切れ味のよい音が聞こえます。

 男はあっという間に蕎麦を食べ終えると、蕎麦湯を一口飲んで

「ごちそうさん」

 本と酒と蕎麦以外、ほとんど何も見ていないだろう男は、席を立つと、来た時と同じようにまっすぐに出ていきました。

 おそらく彼は、この店で長い間に数えきれないほど蕎麦を食べているのでしょう。そうして出来上がったのが、私が幸運にも見物した、あの見事な食べ方なわけです。

 無駄を省き、誤りを減らす、正確で効率的な動作の仕方こそ、「作法」と呼ばれるものの本質です。それはまず動作の当事者の心身の負担を減らしますが、のみならず、傍で見ている者に、厳粛ながら爽快な、真冬の渓流のような美しさを感じさせるものです。

 それはおそらく、「作法」が期せずして、その行為をめぐる人間と物の関係を尊重する方法となっているからだと、私は思います。
 
 
 
 

元も子もない・・・

2016年09月20日 | 日記
 人間だろうと物だろうと、存在する何ものかに「意味」だの「価値」が発生するのは、まず第一に、そのものとは別の人間が、それを受容するか、肯定するか、必要とするかによってです。その「意味」「価値」の大きさ・高さは、受容・肯定・必要を行う人間の数ではなく、行為の強度で決まります。

 たった一人の人間が必要としているにすぎなくても、その必要の強度が高ければ、数百人が「まあ、あってもいいかな」程度に思うものより、「存在価値」は高いでしょう(およそ何ものかの「価値」が多数決によらないことを思えば、当然の話です)。

 ただし、人間の場合、その価値は、当人とは別の人間によって受容されている・肯定されている・必要とされていることを、自ら受容し・肯定し・必要としない限り、「価値」「意味」として機能しません(好きでもない人に好かれても、あまり嬉しくないでしょう)。しかしこのことはあくまで二義的で、価値そのものの発生とは関係ありません。

 生まれたての赤ん坊の「価値」は、「本人」の意志的受容とも肯定とも必要とも無関係で、親などの「他人」がどう思うかだけにかかっています。この他者による肯定から発生した原初的「価値」を、成長の後に意識して初めて、それが自分の「価値」「意味」の実感や理解の核となるわけです。

 宗教やイデオロギーにコミットして「価値」や「意味」を調達する方法もありますが、これらは概して、共同的存在である人間にとって是非とも必要な他者との関係の仕方を根拠づけるための物語ですから、所詮は間接的な受容・肯定・必要の調達でしょう。

 だとすると、自分の肯定には他者が絶対的に必要だということになりますから、この矛盾的な状況は「価値」と「意味」を欲望する人間にとって、根源的な「苦労」であり、「苦痛」でしょう。

 したがって、言葉を話し、「私」だの「あなた」だの言いながら生きる実存は、生きている限り「苦」から「解脱」することはありません。

 ただし、「苦」を緩和することはできます。それはつまり、「価値」や「意味」への欲望を低減することです。仏教はその低減の戦略的方法論の最も整備されたものの一つだと、私は思います。

 とすれば、仏教そのものの「価値」「意味」の大げさな強調は、それ自体がとんでもない自己矛盾になるでしょう。

注目の人

2016年09月10日 | 日記
 現天皇が即位した年、私は5年目の修行僧でした。某テレビ局が前年末に「時節柄正月番組に賑やかなものはマズいから、永平寺のお坊さん撮らせて下さいよ」と、安直な依頼をしてきたことを覚えています。その正月の7日に昭和天皇は亡くなり、直ちに現天皇が即位したのです。

 私はこの人物の折々の発言にずっと注目してきました。

 最初に驚いたのは、即位直後に「憲法を守り」と言明したことです。

 たしか中学か高校で憲法全文を初めて読んだとき、まず疑問に思ったのは天皇の「象徴」としての地位が「国民の総意に基づく」として、その総意をどうやって確かめるのか、ということでした。

 明治憲法は天皇が天皇である根拠を「万世一系」に求めている以上、民意なぞ無関係だが、「国民の総意」となればそうもいくまい。しかし、現憲法には「総意」を確かめる規定は何もない。これは問題ではないのか。ある意味、危うくないか。

 問題を解消するには、現憲法が機能しているのは国民の支持があるからであり、これを守ると宣言することで憲法の内部に自己の地位を位置づけ、それによって「総意」を得たことにする、という方法がある。現天皇はそう考えたのではないか。つまりこの人物はその最初から、「戦後民主主義」における自らの立場をそれまでのものとは全く別なものだと極めて鋭く意識して、である以上は新たな根拠づけの必要があることを痛感し、それを独力で始めたのではないか。

 1991年、雲仙普賢岳災害地の「慰問」以来、被災者の前に膝まづくという型破りな方法に出たのも、この「総意」を強化することの重要さを十分すぎるほどわきまえていたからでしょう。
 
 次に驚いたのは、2001年に「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だと続日本紀に記されている」とコメントしたことです。

 私は新聞でこの発言を見た瞬間、現天皇は、近い将来日本は相当規模の移民の受け入れを余儀なくされ、本格的な多民族国家(現在も「単一民族国家」ではないが)になるだろうと予見しているのかと思いました。そうなった時の皇室と天皇制の在り方さえ考えているのか。人種や民族が異なる両親を持つ天皇が誕生する可能性を見ているのだろうか。つまり、多民族国家時代を「象徴」する天皇です。

 これは要するに、血縁・地縁を共同体の編成原理(その基軸が「万世一系」)として近代国家を作りだすという離れ技を演じて、「家族国家」を自認しつつ「和をもって尊し」とし、「一致団結ガンバレ、ガンバレ」と、人口・経済「右肩上がり」の時代を突っ走ってきた日本社会の終わりを、明確に意識しての発言ではないだろうかと、当時の私は思いました。

 それはすなわち、アニメ「サザエさん」の視聴率がヒトケタ半ばに落ち、檀家制度が機能しなくなり、「○○家先祖代々之墓」が廃れ、同期入社の3割程度が「外国人」であることが普通になって、「英語」ができるかできないかが就職と収入の格差になる、我が国において前代未聞の社会の到来をも意味するでしょう。

 そして今年、「生前退位」を強く示唆する「お言葉」です。

 自らの意志で退位できるとなれば、当然今度は即位にも意志が問われるべきだろうとなるでしょう。このことはすなわち、天皇の「地位」が「任務」や「職業」になることを意味します。

 世襲で終身として制度化された「地位」ならば、それは事実上選択の余地ない、ほとんど「存在性格」そのものです。だからこそ今なお天皇には「神格」が保持されているとみるべきでしょう。

 これが選択可能な「任務」「職業」になるとすれば、そこには「任務」「職業」に就いたり辞めたりする「人間」が立ち現れてきます(このことは、天皇のみならず皇族という「地位」についても同様でしょう)。その人物が「日本人」ならば、原理的・最終的に(必然的に、とは言えないかもしれません)現憲法において規定される「基本的人権」の保証対象になるはずでしょう。

 「お言葉」が表明されてから、何人かの識者から「これは人権宣言だ」というコメントが出たのは、まさにこの点に核心があるのです。

 私はこれら一連の発言に、現天皇の深刻な思慮と根源的な思想を感じます。発言は、戦後我が国が漠然と言祝いできた「人権」と「民主主義」、そして「日本国民」というアイデンティティーの意味を、まさに現在の社会において根底から問い直すものに他なりません。

 本来我々主権者が問うべき決定的問いであるにもかかわらず、それが、「基本的人権」をお話にならないほど制約され、政治的発言もできない立場の人物によって発せられたことに、私は忸怩たる思いと負い目、そしてある種の恥ずかしさを禁じえません。