気温30度をわずかに下回ったある日の午後、住宅地が立ち並ぶ中に割り込むようにして暖簾を掛けている、小さな蕎麦屋に入りました。
昼飯時は過ぎていたので、店には誰も客がおらず、割烹着に手ぬぐいの姉さんかぶりという、今時めずらしい古風なスタイルのおばさんが、小さいけれど丁寧な声で「いらっしゃい」と言いつつ、入り口近くの席に坐った私に水のコップを持ってきてくれました。
主人の姿は見えませんでしたが、おばさんが「ざる、ねえ!」と振り返りざまに言うと、「おう!」と野太い声が聞こえました。
出された蕎麦は可もなく不可もなくというところで、食べ終えた私はいささか熱すぎる蕎麦湯をすすりながら、次の仕事のことを考えていました。
すると、引き戸がカラッと開いて、暖簾を割って白髪の背の高い男が、左手に文庫本をつまむように持って、入ってきました。
ベージュのポロシャツにジーンズという出で立ちのその男は、ためらうことなく店の一番奥の席に着くと、縁なしの眼鏡をちょっと掛け直し、左手だけで器用にページを開いて、すぐにそのまま読み始めました。
「いつものですね?」
聞くまでもないという調子でおばさんが声をかけると、彼はちらっと視線をあげ、「うん」と声を漏らして、わずかにうなずきました。
彼の前に水は出されず、ものの20秒もかからないうちに、おばさんはお銚子とぐい飲み、そして金平牛蒡の入った小鉢を盆に並べて持ってきました。
「ありがとう」
本を見たまま彼は低いけれどよく通る声で言い、一瞬本から目を上げると、空いている右手で恐ろしく早く正確にぐい飲みに酒を注ぎ、それを薄い唇にはこぶと、吸い取るように一息に飲み干して、また本に戻りました。
2、3回本と酒の往復運動が続くと、彼は本を置き、左手で小鉢を支え、右手に箸を持ち、まるで酒に句読点を入れるかのように金平を口に入れてから、再び往復運動が始まりました。
すでに蕎麦湯を飲み終えていた私は、皺の少ない広い額と鋭角的な顎を持つこの初老の男から、なんとなく目が離せなくなっていました。手際のよい一連の動作に何とも言えないリズムがあり、見ていて心地よかったのです。
「カッコいいなあ」
酒がすむと、彼は「お願い・・・」と、おばさんの方を見ました。まるで様子を見ていたかのように、ほとんど即座に奥からざる蕎麦が出てきました。
男は文庫本を閉じ、おそらく定位置になっているのであろうテーブルの隅に置くと、真正面にざる蕎麦を据え、猪口を蕎麦と口元のちょうど中間の位置に構えました。
そして、蕎麦をやや少な目につまむと、猪口をくぐらせるようにしてつゆを通し、そのまま口に流し込み、すぐに箸をターンさせて次の蕎麦を取ると、この一連の動作を途切れることなく繰り返しました。
箸の回転がまるで蕎麦のループをつくり出しているように見え、その間にまるで合いの手のように、「シャッ、シャッ」と蕎麦をすする切れ味のよい音が聞こえます。
男はあっという間に蕎麦を食べ終えると、蕎麦湯を一口飲んで
「ごちそうさん」
本と酒と蕎麦以外、ほとんど何も見ていないだろう男は、席を立つと、来た時と同じようにまっすぐに出ていきました。
おそらく彼は、この店で長い間に数えきれないほど蕎麦を食べているのでしょう。そうして出来上がったのが、私が幸運にも見物した、あの見事な食べ方なわけです。
無駄を省き、誤りを減らす、正確で効率的な動作の仕方こそ、「作法」と呼ばれるものの本質です。それはまず動作の当事者の心身の負担を減らしますが、のみならず、傍で見ている者に、厳粛ながら爽快な、真冬の渓流のような美しさを感じさせるものです。
それはおそらく、「作法」が期せずして、その行為をめぐる人間と物の関係を尊重する方法となっているからだと、私は思います。
昼飯時は過ぎていたので、店には誰も客がおらず、割烹着に手ぬぐいの姉さんかぶりという、今時めずらしい古風なスタイルのおばさんが、小さいけれど丁寧な声で「いらっしゃい」と言いつつ、入り口近くの席に坐った私に水のコップを持ってきてくれました。
主人の姿は見えませんでしたが、おばさんが「ざる、ねえ!」と振り返りざまに言うと、「おう!」と野太い声が聞こえました。
出された蕎麦は可もなく不可もなくというところで、食べ終えた私はいささか熱すぎる蕎麦湯をすすりながら、次の仕事のことを考えていました。
すると、引き戸がカラッと開いて、暖簾を割って白髪の背の高い男が、左手に文庫本をつまむように持って、入ってきました。
ベージュのポロシャツにジーンズという出で立ちのその男は、ためらうことなく店の一番奥の席に着くと、縁なしの眼鏡をちょっと掛け直し、左手だけで器用にページを開いて、すぐにそのまま読み始めました。
「いつものですね?」
聞くまでもないという調子でおばさんが声をかけると、彼はちらっと視線をあげ、「うん」と声を漏らして、わずかにうなずきました。
彼の前に水は出されず、ものの20秒もかからないうちに、おばさんはお銚子とぐい飲み、そして金平牛蒡の入った小鉢を盆に並べて持ってきました。
「ありがとう」
本を見たまま彼は低いけれどよく通る声で言い、一瞬本から目を上げると、空いている右手で恐ろしく早く正確にぐい飲みに酒を注ぎ、それを薄い唇にはこぶと、吸い取るように一息に飲み干して、また本に戻りました。
2、3回本と酒の往復運動が続くと、彼は本を置き、左手で小鉢を支え、右手に箸を持ち、まるで酒に句読点を入れるかのように金平を口に入れてから、再び往復運動が始まりました。
すでに蕎麦湯を飲み終えていた私は、皺の少ない広い額と鋭角的な顎を持つこの初老の男から、なんとなく目が離せなくなっていました。手際のよい一連の動作に何とも言えないリズムがあり、見ていて心地よかったのです。
「カッコいいなあ」
酒がすむと、彼は「お願い・・・」と、おばさんの方を見ました。まるで様子を見ていたかのように、ほとんど即座に奥からざる蕎麦が出てきました。
男は文庫本を閉じ、おそらく定位置になっているのであろうテーブルの隅に置くと、真正面にざる蕎麦を据え、猪口を蕎麦と口元のちょうど中間の位置に構えました。
そして、蕎麦をやや少な目につまむと、猪口をくぐらせるようにしてつゆを通し、そのまま口に流し込み、すぐに箸をターンさせて次の蕎麦を取ると、この一連の動作を途切れることなく繰り返しました。
箸の回転がまるで蕎麦のループをつくり出しているように見え、その間にまるで合いの手のように、「シャッ、シャッ」と蕎麦をすする切れ味のよい音が聞こえます。
男はあっという間に蕎麦を食べ終えると、蕎麦湯を一口飲んで
「ごちそうさん」
本と酒と蕎麦以外、ほとんど何も見ていないだろう男は、席を立つと、来た時と同じようにまっすぐに出ていきました。
おそらく彼は、この店で長い間に数えきれないほど蕎麦を食べているのでしょう。そうして出来上がったのが、私が幸運にも見物した、あの見事な食べ方なわけです。
無駄を省き、誤りを減らす、正確で効率的な動作の仕方こそ、「作法」と呼ばれるものの本質です。それはまず動作の当事者の心身の負担を減らしますが、のみならず、傍で見ている者に、厳粛ながら爽快な、真冬の渓流のような美しさを感じさせるものです。
それはおそらく、「作法」が期せずして、その行為をめぐる人間と物の関係を尊重する方法となっているからだと、私は思います。