恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

師、走る!

2013年12月30日 | インポート

 25日、丸1日かけて青森から福井に移動(午前6時半出発、午後4時半到着)。さて翌日から例年どおりの手順で今年最後の檀家まわりと迎春準備を始めた矢先に!

 27日午前6時、お葬式発生!!! 28日通夜、29日葬儀!!!!

 おおおおお~~~~っ!

 本堂と位牌堂の掃除、どうする?!? 30日には檀家さんが鏡餅を供えにお参りに来ちゃうぞ!! 

 26日の天気予報、28日から北陸地方は大雪の恐れ。例年の2倍の降雪か。

 あああああ~~~~っ!

 この上境内の雪作務(ゆきざむ:除雪作業のことです)しなくちゃいけなくなったら、完全にアウトだ~~~~~!!!

 去年の暮れは母親が突然倒れて即入院、驚天動地の年始年末だったのに、なんで今年もまた暮れなんだ~~~~~っ!!!

 まともにご飯作る時間がないから(ちなみに福井では単身者の生活)、盆のあまりの素麺とお歳暮でもらったうどんに頼るしかない!!! あっ、青森から送られてきたレトルトスープがあったか・・・・・・・・

・・・・・・・・ さて、現在29日午後10時20分です。昨日に引き続き朝から掃除、昼に葬儀、夕方遺族のお参り。それから再び掃除。午後9時前、ようやく終了。ただし、一部割愛です(位牌堂の天井は来年に順延)。

 仏天のご加護か、雪はこの辺では大したことなく、雪作務は軽く一回ですみました。いや、助かった。やれやれ。

 で、チョコレートなど食しつつ、一休みしていたら気がついた。ブログの更新!! 明日はあぶない。今のうちにやっとかないとまずいぞ!!(別に是非10日ごとに更新しなければいけない理由はないんですが)。 

 皆様、本年も当ブログをお読み下さり、ありがとうございました。皆様がご清安にて新年をお迎えいただきますよう、心より祈念申し上げます。


「信じる」困難

2013年12月20日 | インポート

「信じる」とは、いかにして可能になる行為なのでしょう。

 もし、ある存在や考えをそのまま受容すると言うなら、それは「了解」とか「理解」であって、「信じる」ことではないでしょう。

 むろん、それは「あるものが存在してほしい」とか「ある考えが正しくあってほしい」と「願う」ことでもありません。「信じる」のはあくまで、「存在する」ことであり「正しい」ことなのです。

 すると問題なのは、「信じる」ことは、「疑う」ことがない限り、不可能だということでです。そもそも、「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」と思う余地がなければ、「信じる」ことは成り立ちません。疑いがまったくないなら、「理解」「承認」するだけでしょう。ならば、「信じる」とは即、「疑いの排除」として以外に現実化しません。

 だとすると、われわれは決して純粋に「信じる」ことはできないことになります。つまり、「信じている」限り、「疑っている」ことになってしまうからです(同時に、「疑っている」人間は、常に「信じる」ことを欲望しているのです。「信じる」何かを求めないなら、「疑う」必要はありません)。

 この矛盾を回避する方法は、私が思うに二つです。一つは、「疑い」を排除することをやめて、「信じる」ことに取り込んでしまうのです。これを称して、「賭ける」といいます。すなわち、「信じる」ときに、最初から「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」ことを当然の前提とするわけです。

 もう一つは、「信じる」何かを消去することです。「あるものが存在すること」「ある考えが正しいこと」を無視して、「ただ信じる」。他動詞の「信じる」を自動詞化してしまうのです。

 ということはつまり、それまで「信じる」方法であった行為、あるいは「信じる」ことを表現していた行為それ自体を、目的化することになります。たとえば、「ただ坐禅する」「ただ念仏する」。

 このとき、「信じる」対象は失われ、「信じる」主体は「信じる」行為に融解して、「信じる」行為は無意味と化して、ただの「行為」になるのです。そうなれば、もはや「疑う」ことも不可能です。

 結局、「信じる」行為の極限には、「信じる」何事もない。「宗教」もない。

 私は『正法眼蔵』や『教行信証』を読むたび、いつも「信じる」困難さを思わされ、こんなことを考えるのです。


「本物」はウマイか?

2013年12月10日 | インポート

 人間の食行動、あるいは食べ物に対する最も基本的な態度は、それが「食べられるかどうか」で、このことは動物と共通です。そしてこれを判断できる人間は、とりわけ採集狩猟段階にある共同体では珍重され、敬意を払われたでしょうし、しまいには職業化さえしたでしょう。いわゆる「毒見役」です。

 食べられる物がある程度恒常的・安定的にに確保できる段階になると、次に問題となるのは、人間の場合、「栄養があるかどうか」です。

 これは要するに、労働に耐えられる身体を維持・強化できるかどうかという問題意識からくる食への要求です。すなわちそれは、共同体においてメンバーを長時間一斉に働かせるような状況(近代以降)が生まれたことを意味します。ここに対応する役目が「栄養士」でしょう。彼が必要なのは、人間が共同体において「労働する実存」として再構成され、身体がそうプログラムされたときなのです。

 さらに共同体内の経済的な富の蓄積が進み、そのメンバーへの配分がある程度行き渡って、労働条件が改善されたり、労働環境に余裕ができれば、今度は「おいしいかどうか」が問題になります。無論、「おいしいかどうか」は、「食べられるかどうか」「栄養があるかどうか」の段階でも重要な感覚であり判断基準です。動物でも、雑食性のものはこの判断が可能でしょう。

 ただし、人間の場合、「おいしいかどうか」が判断基準として前面にせり出してくるには、生活条件の向上が不可欠です。なぜなら、「おいしいかどうか」は単なる感覚ではないからです。人が「おいしく」感じる物は文化や生育環境によって違い、「おいしさ」が時と場合に左右される(「おいしい物」を食べ続けると「おいしく」なくなる)のは、それが本能的な感覚ではなく、すでに一定の観念化を蒙っているからです。

 ということは、「おいしい物」の判断には知的蓄積が必要なのであり、「おいしさ」が食べ物の判断の中心に位置するには、食材や調理法の選択肢や知識がかなり一般化しなければならず、それは生活に「余裕」がない限り不可能です。

 したがって、この段階では、「おいしいかどうか」を専門的に論評する「グルメ」「食通」が現れます。「おいしい」はまず何より評価であり、評価は知識が前提なのです。

 ここで問題なのは、「おいしいかどうか」が極めて観念的な判断に傾き、具体的な経験、身体性や身体感覚が希薄になってきていることです。「おいしい物」の判断が、上述のように環境や条件に左右されてなかなか一致せず、さらに先入観に支配されやすい(たとえば「食わず嫌い」)のは、その証拠でしょう。

 しかし、ここまで、すなわち「食べられるかどうか」「栄養があるかどうか」「おいしいかどうか」までの段階では、その判断の根底に身体性や身体感覚が厳然と、あるいはかろうじて存在します。

 ところが、次の段階、すなわち「おいしい物」に恒常的に接することができる段階になると、判断は完全に身体性を失って変質します。人々は「本物かどうか」を問題にするようになったからです。これが今般のホテルや百貨店の「食品偽装」事件の段階です。

「本物かどうか」は事実問題でもなければ、感覚対象でもありません。「本物」とは、「商品」の在り方を規定する市場が析出した、純粋な観念です。

「本物」は物体として存在しません。それは、市場が物体を「商品」化する際に採用した一定の手続きのことであり、いわば「物」語り=観念です。

 どんな杜撰なバックを作ったとしても、あるブランドが公認すれば「ひどい本物」であり、どれほど見事なつくりでも、ブランドの手続きから外れれば「すばらしい偽物」です。

 同様に、「本物かどうか」は「おいしさ」とほぼまったく関係がありません。「芝エビ」と「ナントカエビ」を味で区別できる人間がほとんどいない以上(だから「偽装」ができたのです)、「おいしさ」が問題なら、まずい「芝エビ料理」よりおいしい「ナントカエビ料理」のほうが高く評価されるべきでしょう。

 この「本物/偽物」という、身体性を失った幻想を欲する限り、これからも人間は食品に騙され続けるでしょう。

 時あたかも、「和食」が「文化遺産」になりました。「遺産」とは、すでに現実性を失ったものです。つまり、もはや日本人の大方は、普段「和食」を食べていないし作りもせず、日常的に食べたいとも思っていないということです(日本人がいま好んで食べているのは、ラーメンやカレーライスのような「日本食」です。これは現実ですから「遺産」になりません)。

 今後「和食」は、ますます特別な場合に「外食」されるものとなり、「文化」として保護され、「本物の和食とは何か」がさかんに議論されて、人は何度も騙されるようになるでしょう。騙されるのがイヤだと言うのであれば、要するに「本物かどうか」を問題にせず、判断根拠を「おいしいかどうか」以前にさかのぼらせて、一定の身体性を回復する必要があるでしょう。

 「精進料理」が本来、修行を支える身体に「その食べ物が薬のように有益かどうか」を判断の原則にしているのは、まさに「本物」幻想を解毒する、対極的行為でしょう。もし、料理人の誰かが「本物の精進料理とは?」と言い出すなら、彼はすでに「精進料理」を作っているのではありません。