恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

番外:今年の恐山例大祭について

2021年06月07日 | 恐山の参拝
 恒例の恐山例大祭(7月20日~24日)は、新型ウイルス禍に鑑み、来年に引き続き今年も、規模を縮小して行います。誠に残念ですが、22日の山主上山式は中止します。

 来年の通常修行を期し、皆様のご理解をお願い申し上げます。

 院代謹白

ヤバい勘違い

2021年06月06日 | 日記
 このブログにも面会要領が記載されているように(「カテゴリー」欄参照)、今は疫病のせいで休んでいますが、従来は私と面談したいという方には、日時と場所で折あっていただいて、お目にかかるようにしています。

 わざわざ時間と手間をかけて(ちなみに、お目にかかるのは無料です。念のため)、見ず知らずの坊さんに会いに来られるのですから、それなりに問題を抱えている方がほとんどです。

 事情を聞けば深刻な事態になっていることも多く、苦しい心情を察することもできるのですが、そんな面談の最中、時として私はある種の言葉を聞くと、急に気持ちが引いてしまうことがあるのです。

 それは「死んだほうがまし」とか「死ねばラクになる」、あるいは「生まれてこなければよかった」など、当人は涙ながらに語るような言葉です。

 私はこうした文句を聞くと、たちまち感情が蒸発して、妙な理屈だけ迫り出してくることが多いのです。それというのも、この生き死に関連の話は、ほとんど物心つくと同時に宿痾のごとく考え続けてきた過去があるからです。
 
「死んだほうがマシ」「死ねばラクになる」「生まれてこなければよかった」、およそこういう話は、「死んだ後」と「生まれる前」を、今まで生きて来た自分の経験と比較した上でしか、言えないことでしょう。

 ところが、誰も「死んだ後」と「生まれる前」を経験していない以上、実はこの比較は、今まで生きて来た経験と「死んだ後」「生まれる前」との比較ではありません。実際には、すべてが生きて来た経験の中でのみ行われている比較に違いありません。

 このとき、生きていれば苦楽はつきものだとしても、「死んだ後」「生まれる前」は経験外の領域ですから、それらの苦楽について言えることは何もないはずです。「マシ」で「ラク」で「よかった」かどうか、原理的にわかりません。つまり、話として苦楽は無いも同然でしょう。

 すると、いま生きている人のうちで、苦楽を差し引きして苦が勝ると感じる者か、理屈でそう主張したい者にとっては、件の比較の実質的意味は、死後とも生前とも何らかかわりのない、「生きている間、苦しいのと苦しくないのと、どちらがよいのか」という、すぐに結論の出る当たり前の話でしかありません。最近少々流行しているらしい「反出生主義」がただの勘違いに過ぎない所以です。

 ついでに言うと、この先の世の中、もうよいことが無さそうだから、みな子供を作るべきではないという一部の言い草は、単に余計なお世話に過ぎません。生まれてもいない他人(子供は他人である。忘れてはならない)の将来の善し悪しを、予め決める能力と権利を持つ者など、この世に誰もいないのです。

 子供を持ったなら持ったなりに、その存在に全責任を負って、自分が死んでも生きていけるようになるまで、できる限り面倒を見ればよいだけです。そうする者しか「親」と呼んではいけません。また、それ以上のことを「親」はすべきではありませんし、する必要も無いのです。