恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「ユキばあちゃん」

2014年07月30日 | インポート

20140721100219_2 今や目にすることが珍しくなった絣のモンペに唐草模様の大風呂敷の荷物。写真中央の女性は、従業員から「ユキばあちゃん」と呼ばれています。

 御年91歳。右手に杖・左手に傘で、大きく腰の曲がった体を支え、ひとりで電車とバスを乗り継ぎ3時間。もう30年近く、毎年大祭期間中にお参りにくるのだそうです。

 私は期間中お参りの方々に直接応対する機会が少なく、今年はじめてお会いしました。

 大きな荷物の中には、まずお地蔵様へのお供え物、そして亡くなった「ダンナとムスコ」のためのお供えが入ってます。

 今日は、まず受付で故人の塔婆供養の申し込みをして、境内を参拝しながら例年のところにお供えをします。そして宿坊に止まって翌日、午前中イタコさん一本に絞って少なくとも3時間ほど待ち、口寄せをしてもらって帰るのだそうです。おそらく荷物の中には折りたたみ椅子やペットボトルなど、「イタコ待ち」グッズも入っているでしょう。

 供養の受付を終え、受付係の一人がお供えに回る彼女を途中まで送ろうとすると、「和尚さん、どうか気遣いせんでくだせぇ」とはきはきした口調で言い、「今日は法話はありますか」と尋ねたと聞きました。法話する予定の私は柄にもなく緊張してしまいました。

  驚いたのは、その法話のときです。彼女は姿をすっかり改め、萌木色の着物に薄茶の帯という、涼しげで実に粋ないでたちで現れたのです。その鮮やかな変身にはびっくりしました。

  すでに当日泊りの方々と仲良くなったようで、周囲の人たちが何気なく配慮していました。宿直の和尚さんも、部屋の近い宿泊者に移動の介添えをお願いしておいたそうです。

「ああ、今年もお参りできました」

 そう言って、「ユキばあちゃん」は帰って行きました。来年もお参りしてもらえることが、我々の心からの願いです。


疑う人の信じ方

2014年07月20日 | インポート

 まるで疑いを持たない人は、信じることはできません。「疑い」が無いなら、彼は「理解」したり「了解」したりするだけです。

 しかしながら、「理解」や「了解」も、実は根本的にはそう「信じて」いるのです。そのとき、疑うことは忘れられています。

「ここにコップがある」「1+1=2である」ということを、人は普通「わかっている」とは言うでしょうが、「信じている」とは言いません。

 ところが、この「コップがある」の、「ある」とはどういうことか、と一たび考え出したら、ことはそう簡単に「理解」できなくなります。

「1+1=2」にしても、別々の「1」をまとめて一つに見る意識作用が無ければ、「2」にはなりません。人はどうして、別なものを一緒のものとして見ることができるのか。「+」とは何か。なぜそれが、ただの「1と1」ではなく、「2」になるのか。考え出したらキリがありません。

 こういう「無駄な」考えや疑いを通常は意識化しないから、人は物事を「当然のこと」として「理解」できるのです。つまり、「理解する」とは、「疑う」ことを忘れたまま「信じている」ことなのです。

 これに対して、「確信する」と言われる態度があります。「確信する」人間は、「疑い」があることを明瞭に知っています。それを知ったうえで、「疑う」人と、さらに疑っても信じてもいない「第三者」に対して、彼なりに説明可能な「根拠」を示して、その「疑い」を否定しようとします。これは通常「知的」「学問的」と呼ばれる態度でしょう。

 では、普通に「信じている」とは、どういう態度でしょう。それは、「根拠」を説明しないまま、あるいは説明できないまま、「疑い」を排除・無視する態度(つまり「疑わない」こと)です。これはかなり心理的に大きな負担でしょうから、しばしば極端に振れて、「盲目的」で「耳を貸さない」状態に陥ることもあるわけです。

  さらに、もう一つの「信じる」態度があります。これは「疑い」を当然の前提として「信じる」のです。つまり、否定も排除もせず、「疑い」を受容して「信じる」。これはもう「信じる」とは言いません。通常は、「賭ける」と言います。

 「宗教を信じる」と言うとき、その意味は通常、上記の「確信している」か「普通に信じている」のどちらかでしょう。

 では、「宗教に賭ける」と言ったら、それはどういう意味か。それは可能なのか。

 おそらく「賭け」た瞬間、「信じること」と「疑うこと」は対消滅してしまいます。「賭けた」者はもう「信じ」ても「疑って」もいません。それまで自分が「信じてきた」「疑ってきた」教えに、いわば「身を委ねる」だけです。その善悪は問えず、吉凶を知ることもないでしょう。そしてどんな希望も期待も無意味になるでしょう(いくら希望しようと、サイコロの目がどう出るかは、それと関係ない)。

 「信じる」行為そのものを「疑う」ような人間が、宗教にコミットしようというなら、この「賭け」以外に方法がないのではないか、私はそう思うのですが。

 

 


女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独

2014年07月10日 | インポート

 何分にも流行に疎いので、「ありのままで~~」とか「アナ雪」とかいう声があちこちから頻繁に聞こえていた頃は雑音同然だったものが、記録的興行成績をあげ、今もそれを更新し続けているアニメーション映画の主題歌とタイトルであると、最近ようやく知りました。

 さらについ先日、主題歌の全体を聞く機会があり、興味を持ってストーリーの粗筋を読んでみたら、これがまた、時々「自己啓発」系や「人生訓」系の書物に出てくる、「ありのままでよい」という類の安直な主張を考え直す上で、格好の材料だと思いました。

 まず第一に重要なのは、「ありのままである」ことは欲望であって価値ではない、ということです。それは基本的に、「ありのまま」であろうとする本人ではない他者に承認されたり共有されたりすることではありません。つまり「ありのままであるべき」とは、原理的に言えないのです。

  なぜなら、もし他者から承認されたり、共有されたりするものなら、その時点ですでに他者の評価や思惑に拘束されることになるからです。それは「ありのまま」の望みから程遠い事態でしょう。

  だから、雪の女王は城を飛び出して、誰もいないところで「魔力」を全開にして「ありのままで~~」と絶叫するのです。彼女は、まさに「他者の拘束」から離脱する欲望を歌い上げ、誰もいないところでしか「ありのまま」でいられない絶対的孤独を無自覚なまま表現しているわけです(自覚していたら、切なすぎて歌えないでしょう)。 

  ところが、ここで生じる決定的な矛盾は、「ありのまま」でいようとすると「自分」でいられなくなるという事実です(いわば、ある種の「自己疎外」的状況)。

  人が「ありのままいたい」という時の真意は、「ありのままの自分でいたい」ということでしょう。これは絶望的に不可能です。前に述べたとおり、人間が了解しうる「自己」は根底から「他者」によって構造化されているからです。

  たとえば、「ありのままの山」と言ったところで、その「山」を人間は言語機能で構造化された認識においてそう見ているのであって、それから外れた「山そのもの」の謂いではありません。というよりも、「山そのもの」も言語なのですから、それを超えた「そのもの」など、我々には知りようもありません。ということは、「ありのままの山」なんぞは、山ならぬ人間の勝手な錯覚に過ぎない、ということです。

  同じように、「自己」として実存する限り、人は「ありのままの自分」など知りようがなく、ならば、錯覚以外ではそうなりようがない、ということです。ということは、「ありのまま」とは所詮「何が何だかわからない」事態を言うのであり、女王の「魔力」はその象徴でしょう。

  思うに、我々に理解可能な「ありのままでありたい」という欲望の意味は、「いま自分であることが苦しいから、それから離脱したい」ということでしかなく、「自分であるために自分でありたくない」という究極の矛盾を言っているわけで、これはどう見ても「他者」が承認しうる「価値」にはなりません。

 ちなみに、日本語版主題歌の情緒性が強すぎる翻訳とは違って、英語の原文には以上の解釈に通じるセリフが散見されます。

「A kingdum of isolatiom, it looks like I'm the Queen」
 (たったひとりの王国、私は女王のようね)

「D'ont let them in, d'ont let them see, be the good girl you always  have to be」
 (誰も中に入れてはダメ、誰にも見せてはダメ、いつもよい子でいなければ)

「let it go, let it go, turn away and slam the door, I don't care what they're going to say」
 (ありのままでいい、ありのままでいいの、振り返ってドアを閉め、誰が何と言おうといいの)

「it's time to see what I can do to test the limit and break through, no right , no wrong,
no rules for me, I'm free!」
 (今こそ自分の力を知り、その限界を試して、それを超える。正しさも誤りも、何のルールも私にはない、私は自由なの!)

  拙い訳でまことに恐縮ですが、これらだけを見ても、日本語版とはかなりニュアンスが違うことはわかるでしょう。

  結局、「ありのままでよい」「ありのままでいるべきだ」という主張は、無責任な扇動や宣伝にはなり得ても、困難を抱える人へのアドバイスやサポートとしては、ほとんど役に立ちません。女王が城に帰るには、新たに「魔力」を制限する方法を発明して、「ありのまま」ではない「自分」を、それなりにもう一度作るしかないのです。