何分にも流行に疎いので、「ありのままで~~」とか「アナ雪」とかいう声があちこちから頻繁に聞こえていた頃は雑音同然だったものが、記録的興行成績をあげ、今もそれを更新し続けているアニメーション映画の主題歌とタイトルであると、最近ようやく知りました。
さらについ先日、主題歌の全体を聞く機会があり、興味を持ってストーリーの粗筋を読んでみたら、これがまた、時々「自己啓発」系や「人生訓」系の書物に出てくる、「ありのままでよい」という類の安直な主張を考え直す上で、格好の材料だと思いました。
まず第一に重要なのは、「ありのままである」ことは欲望であって価値ではない、ということです。それは基本的に、「ありのまま」であろうとする本人ではない他者に承認されたり共有されたりすることではありません。つまり「ありのままであるべき」とは、原理的に言えないのです。
なぜなら、もし他者から承認されたり、共有されたりするものなら、その時点ですでに他者の評価や思惑に拘束されることになるからです。それは「ありのまま」の望みから程遠い事態でしょう。
だから、雪の女王は城を飛び出して、誰もいないところで「魔力」を全開にして「ありのままで~~」と絶叫するのです。彼女は、まさに「他者の拘束」から離脱する欲望を歌い上げ、誰もいないところでしか「ありのまま」でいられない絶対的孤独を無自覚なまま表現しているわけです(自覚していたら、切なすぎて歌えないでしょう)。
ところが、ここで生じる決定的な矛盾は、「ありのまま」でいようとすると「自分」でいられなくなるという事実です(いわば、ある種の「自己疎外」的状況)。
人が「ありのままいたい」という時の真意は、「ありのままの自分でいたい」ということでしょう。これは絶望的に不可能です。前に述べたとおり、人間が了解しうる「自己」は根底から「他者」によって構造化されているからです。
たとえば、「ありのままの山」と言ったところで、その「山」を人間は言語機能で構造化された認識においてそう見ているのであって、それから外れた「山そのもの」の謂いではありません。というよりも、「山そのもの」も言語なのですから、それを超えた「そのもの」など、我々には知りようもありません。ということは、「ありのままの山」なんぞは、山ならぬ人間の勝手な錯覚に過ぎない、ということです。
同じように、「自己」として実存する限り、人は「ありのままの自分」など知りようがなく、ならば、錯覚以外ではそうなりようがない、ということです。ということは、「ありのまま」とは所詮「何が何だかわからない」事態を言うのであり、女王の「魔力」はその象徴でしょう。
思うに、我々に理解可能な「ありのままでありたい」という欲望の意味は、「いま自分であることが苦しいから、それから離脱したい」ということでしかなく、「自分であるために自分でありたくない」という究極の矛盾を言っているわけで、これはどう見ても「他者」が承認しうる「価値」にはなりません。
ちなみに、日本語版主題歌の情緒性が強すぎる翻訳とは違って、英語の原文には以上の解釈に通じるセリフが散見されます。
「A kingdum of isolatiom, it looks like I'm the Queen」
(たったひとりの王国、私は女王のようね)
「D'ont let them in, d'ont let them see, be the good girl you always have to be」
(誰も中に入れてはダメ、誰にも見せてはダメ、いつもよい子でいなければ)
「let it go, let it go, turn away and slam the door, I don't care what they're going to say」
(ありのままでいい、ありのままでいいの、振り返ってドアを閉め、誰が何と言おうといいの)
「it's time to see what I can do to test the limit and break through, no right , no wrong,
no rules for me, I'm free!」
(今こそ自分の力を知り、その限界を試して、それを超える。正しさも誤りも、何のルールも私にはない、私は自由なの!)
拙い訳でまことに恐縮ですが、これらだけを見ても、日本語版とはかなりニュアンスが違うことはわかるでしょう。
結局、「ありのままでよい」「ありのままでいるべきだ」という主張は、無責任な扇動や宣伝にはなり得ても、困難を抱える人へのアドバイスやサポートとしては、ほとんど役に立ちません。女王が城に帰るには、新たに「魔力」を制限する方法を発明して、「ありのまま」ではない「自分」を、それなりにもう一度作るしかないのです。