恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

年末の野暮ばなし

2007年12月26日 | インポート

 暮れも押し詰まってきて、何の風情もない話で恐縮ですが、またぞろ「霊感商法」の事件がマスコミに報道されています。

 

 無論、こういう苦境にある人々の弱みに付け込む商売は、する方が悪いに決まっているのですが、こう再三繰り返されるのは、いわば被害者になる方にも勘違いがあって、この勘違いが直らない限り、何度でも起こるような気がします。

 

 ここで最大の問題は、詐欺師が神仏への信仰を利用していることではありません。そうではなくて、彼らが人を誘い込む枠組みが、信仰ではなくて、信仰に見せかけた神仏との「取り引き」だということなのです(だから「商法」と言うのでしょうが)。

 

 これだけお金を出せば、もっと教祖に奉仕をすれば、それだけ「よいこと」がある・・・・この語り口は、取り引きそのものです。だから、望む効用を得られなかった被害者が「よいことが無い」と抗議すると、詐欺師側は「それはあなたの信仰が足りないせいだ」と言い、さらに金品を要求するのです。つまり、信仰が金に換算されて効用とバーターされているわけです。

 

 被害にあいやすい人は、この取り引きに嵌っているのです。ですから、信仰が取り引きではないことに目覚めない限り、同じ間違いをしやすいわけです。

 

 信仰は神仏と取り引きすることではありません。それはまず、われわれ人間が自らの力の限界を自覚することなのです。計算した上で神仏に向き合うことではありません。損得の勘定が成り立たない世界に踏み込むことです。

 

 ならば、信じても報われないことを受け容れることのできる人だけが、深い信仰を持つことのできる人なのでしょう。

 

 今年も読んでいただいてありがとうございました。皆さん、よい新年をお迎え下さい。


準備が肝心

2007年12月15日 | インポート

 父の逝去に御丁寧なお悔やみをいただき、ありがとうございました。

 ともかく他人のお葬式に出かけていくことがあっても、お坊さんを頼んで葬式をしてもらうことは今度が初めてでしたので、いろいろと感じることもありました。

 中で一つ驚いたのは、気丈で割り切りが早く、息子と違って宗教などにこだわりも関心も薄いと思っていた母が、葬式の仕方を強く主張したことです。「寂しいのはイヤだから、盛大にやる」。

 これは見栄とは違うでしょう。いわば、趣味です。父自身がそういう葬式を望んでいたわけでもありません(嫌がっていたとも思いませんが)。

 その結果、住職の父親ということもあり、多くの方々の御協力もあって、一般人にしてはかなり大掛かりな葬儀になってしまいました。いささかやりすぎだったかなと、思わないでもありませんでしたが、4年半にわたり片時も離れず看病し続けた母が、「ああ、いいお葬式でよかった」と最後にしみじみ言ったとき、まあ、これでよしとしようと思いました。

 自分の葬式に細々と希望を遺して死ぬ人もいますが、それで遺族が後のことをしやすくなるなら結構でしょうが、私は所詮余計なことだと思います。死んでいく人間は後のことは一切任せて、あっさり去っていくべきです。

 弔いとは、死者ではなく、遺族のものです。遺族ができることを、したいようにすればよいのです。それ以外の人は口を出さないほうがよい、私はそう思います。

 ついては助言を一つ。私たちは、自分が意思決定できなくなったり、死んだ後の事について、決定を任せるに足る人間を一人(複数に任せるのはモメる元です)、普段から準備しておき、それを少なくとも家族には周知徹底させておくべきでしょう。

 今回私たちの家族は、末期の看病や葬式に関して、すべて母の判断に従いました。それは父が母を深く信頼していることを、よく知っていたからです。

 これは、任される側も覚悟のいることですから、普段の人間関係を深めておくという「準備」が最も大切です。しかし、この準備は、人が安らかに死に、また彼を安らかに死なせるために、是非必要だろうと思いました。


ある教訓

2007年12月04日 | インポート

 おそらく、最後に死がわれわれに送り届けてくる孤独は、物質である。それは感情でも感覚でもない。あらゆる感情が滑り落ち、すべての感覚を反射する、圧倒的な質量と密度の、物質である。

 死なない人の共感も同情も解釈も拒絶される、この孤独はしたがって精神ではない。したがって、すでに孤独でもない。それは単なる直面なのであり、そのとき我々が見ることができるのは、この世で唯一経験として与えられる、「絶対」の似せ絵である。

 先月、父を看取りました。死について、ずいぶん久しぶりに味わう、いつわらざる実感です。