恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

例大祭、終わりました

2006年07月26日 | インポート

 16日の更新以来、10日もたってしまいました。実は、恐山大祭の初日、20日午前にはまだ時間的余裕があったので、更新をするつもりでいたのですが、なんと! このブログのために買った、まだ2ヶ月しか使っていないデジタルカメラが錯乱状態に!! 電源を入れるとレンズが勝手に出たり入ったりして止まりません!!!

 あわてて、出入りの建築業者さんにカメラを借りたのですが、新品のそのカメラにもすでに一枚写すごとにレンズが引っ込んでしまう症状が・・・・。 デジタル殺しの恐山、まさに恐るべし。

Photo_26 右の写真は、大祭のハイライトの一つ、22日の「山主上山式(さんしゅじょうざんしき)」の様子です。右手に見えているご詠歌のご婦人方の行列に先導され、僧侶の列が続き、後ろに山主の乗る駕籠が見えています。さらにその後ろには、侍姿に扮した本坊の檀家さんが裃で続きます。これは江戸時代の南部藩主の恐山を入りを模したものと言われ、一種の時代行列でしょう。

Photo_28  山主は総門で駕籠をおり、参道を歩いて正面地蔵殿に向かいます。この日はあいにくの雨でしたが、行列出発前になんとか小ぶりになり、中止せずにすみました。季節の風物詩として、毎年ローカルテレビに紹介されたりしている、それなりに有名な行事なので、院代としては胸をなでおろした次第です。

 本当に今年の大祭は雨にたたられました。ひどい水害に見舞われた地方の方々の困難には比すべくもありませんが、参拝者の不便もお気の毒でした。それでも、やはり、Photo_29 全国から大勢の方々がお参りに来られました。受付で供養の申し込みをした初老の女性が、「ああ、これで今年もよかった」と、いかにも一仕事終えたように言いました。おそらく、彼女にとっては、恐山参りという年中行事が、生活に秩序とリズムを与えるものとして、仕事と同じように大切なのかもしれません。これも信仰と言うなら、私には信仰の理想の姿のように思われました。


さあ、いよいよ

2006年07月16日 | インポート

Photo_22  今月20日から、いよいよ恐山の夏本番、例大祭です。それを前にして、この連休には、もう大勢の参拝の方が来られます。左の写真はご供養の受付の様子、右はその塔婆を書いているところです。

塔婆は正式には「卒塔婆」といい、原語は「ストゥーパ」、塔の意味で、元Touba はお釈迦様の遺骨を納めた塔のことです。その形を模した縦長の板が卒塔婆で、ここに戒名などを書き込み、供養の印とするわけです。

 普段は5人ほどの僧侶が詰めている恐山ですが、本日はさらに5人の若い和尚さんが大祭の準備に来てくれました。19日には約50名ほどの青森県を中心とする僧侶の方々が上山され、山内は活気にあふれることとなります。

 実は、昨日から来てくださっている若い和尚さんは、ほとんどが私が修行した道場の後輩です。道場の人間関係は、どちらが早く門をくぐったかだけで決まります。それも1日の差どころではなく、1分1秒、ともかく、ちょっとでも先に入ったものが上位となり、それだけの理由で厳格極まりない上下関係になるのです。3年も間が開くと、後輩から「雲の上の人」などと言われてしまいます。

 はじめて経験する生活で、このような秩序を問答無用で刷り込まれると、影響は大きい。もちろん、お互い今は道場から出て、立場は対等ですし、私は院代として彼らに助力をお願いする役なのですが、面と向かうと、なんだか昔の関係がフラッシュバックするのです。特に後輩の側は忘れません。私も、40近くなって、10年以上会わなかった、たった1年先輩(しかも2歳年下)に会ったとき、瞬間的に当時の口調と態度に逆戻りして、我ながら驚きました。

 このような、理論理屈でない、直接「体に叩き込む」教育はきわめて強力ですし、ある意味で効率もよい。だから、危険なのです。教育される側には、一方的に心理的な刻印が押されることになるからです。最近、何となく、そうした類の教育法を賞賛したり推奨する風潮が見られますが、それを実際に行うには、教育する側が自らの能力をよほど慎重に考え、相手に対する責任を自覚しなければなりません。もし、安易にこれが行われるなら、もはや心理的な暴力とかわりません。

 よく切れる刃物は、慎重に間違いなく使うべきなのです。


知らなくても大丈夫

2006年07月11日 | インポート

 けっして多くはありませんが、恐山にお泊りの参拝者の中には、連泊される方もいます。すると、その人は、一時的に「情報過疎」的状態になります。何しろ、恐山は携帯電話、インターネットはつながらず、テレビもラジオもまともには入りません。

 先日、4泊された方は北朝鮮のミサイル発射を帰る日までまったく知りませんでした。帰りがけに私が教えたら、ずいぶんびっくりしていました。

 同じようなことが、禅道場でも起きます。私が修行していたころも、ソ連の崩壊を知らないまま修行を終え、直後に企業に就職し、「ロシア」と表記している地図を見て、「なんでこんな古い地図を使っているんだ」と抗議して、上司同僚に爆笑されたという者がいました。スペースシャトルの墜落を知らなかった者もいます。さらに昔は、有名な「浅間山荘事件」を全然知らないでいた者がいたそうです。

 そういうところに身をおくことが長いと、いつしか「知らなくても大丈夫」という気になってきます。4連泊の方も、ひとしきり驚きを口にされた後、「まあ、知っていたからって、どうなるわけでもないんですがね」と言っていました。まさにそのとおり。

 情報化社会と言われますが、情報そのものは、それ自体では無意味です。有益か無益か、有用か無用か、判断され選別されることにおいて、情報は意味を持ちます。その判断の基礎となるのが、知識でしょう。情報は知識によって情報として成り立つのです。実際株の知識の無い者には株式情報などは無意味でしょうし、そもそも彼には株式情報など存在しません。

 では、有益か無益かの判断を根拠付ける知識は、何に基づくのでしょう。私はそれを知恵と呼びたいのです。何が有益か無益かを判断するには、その人に確かな価値観がなければなりません。その価値観は、所詮、その人の「いかに生きるか」の問いからしか生まれてきません。知恵は、この問いの過程で搾り出されてくるものです。

 情報の大半は知らなくてもよいことか、知らないほうがよいことです。しかし、知らなければならないこと、知っておくべきことを見つけることは重要で困難です。それが「自立」ということでしょう。つまり、自立には知恵がいるのです。


イタコさん 

2006年07月05日 | インポート

Photo_21  今回はイタコさんの話です。

 イタコさん。青森県など、北東北に多い霊媒師の女性をそういいます。もともとは、視覚に障害を持つ女性の生業だったようです。現在のイタコさんは高齢化していて、ほとんどが70歳以上で、目が不自由な方です。ただ、30歳台の人が2人いて、この方々がイタコさんとしてデビューしたときは、マスコミにもとりあげられ、ずいぶん話題になりました。彼女たちは目にまったく障害のない人です。

 いまや恐山といえばイタコさん、イタコさんといえば恐山、というように思われがちで、実際、恐山にかかってくる電話の半分以上がイタコさんに関する問い合わせなのですが、恐山とイタコさんが切っても切れない間柄であるかのようなイメージが広まったのは、そう古いことではなく、昭和40年代です。戦後の高度成長の恩恵が庶民にも行き渡り始め、旅行がレジャーとして定着し始めた頃、東北の歴史的霊場として恐山が大々的に紹介されだしたとき、イタコさんも一緒に世に知られ、恐山と不可分の存在だと思われるようになったようです。

 電話をしてくる多くの人は、イタコさんが恐山に所属していると思うか、恐山がイタコさんを管理していたり、彼女たちと契約関係にあるかのように考えているのですが、それは違います。彼女たちは、いわば個人営業者で、普段は自宅で「口寄せ(イタコ流の降霊術)」をしているのです。そして、恐山の例大祭のような大きな宗教行事に大勢の信者が集まってくると、そこに「出張」してくるわけです。恐山は、彼女たちが来るのを拒まない、というだけのことです。場所代をもらっているわけでも、彼女たちの収入の何パーセントかをもらっているわけでもありません。

 ですから、彼女たちの連絡先も知りませんし、スケジュールも把握していません。慣習として長く続いてきた彼女たちとの関係ですが、このように実に淡白なものです。

 テレビや雑誌には、恐山の境内でイタコさんがずらりと小屋を並べて「口寄せ」している様子が紹介されますが、あの光景は夏の大祭と秋期祭のときだけのものです。普段は境内にイタコさんはいません。

 ただ、土曜日と日曜日に、恐山と長いお付き合いのイタコさんがやってきます(彼女にも都合があるので、必ずやってくるとは保証しませんが)。右下の写真に写っているのが、その人です。やってくると、彼女は必ず朝のお勤めに参加します。着ているのは「笈摺(おいずる)」と言い、イタコさんはみな、これを着ています。                      Cimg0085          

 土曜、日曜になると、彼女に会おうと、沢山の人がやってきます。小さな彼女の背中を見ていると、霊魂の有無はともかく、この人は今までどれほど多くの人の切ない思いを受け止めてきたのだろうかと、ふと思われてなりません。

 イタコさんのことは、また書きます。