恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

小心者です。

2018年03月30日 | 日記
 面会希望の方とお話すると、時として別れ際に、お布施ですとか、御礼ですとかの口上と共に、熨斗袋を差し出されることがあります。

 そもそも大したアドバイスもできないし、気の利いたことを言えるわけでもなく、何より自分の言いたいことを言いたいように言うには、そういうものは一切頂かない方が気楽なので、実際今まで受けとったことがありません。露骨に言うと私との面会は「無料」です。

 実は、亡くなった私の師匠がまったく無料で子供たちに習字を教えていて、あるとき急に、いつものぶっきらぼうな口調で、

「お前も坊さんなんだから、一つくらいタダで人の役に立つことをやれ」

 と私に言ったのです。

 私もそのとき、弟子なんだから、師匠から言われたことで一つや二つ生涯守ることがあってしかるべきだと思い、何をしようかと考えて、じゃ、自分に面会したいという人とは、「タダで」会おうと決めたわけです。

 お菓子などを持参して下さる方もいらっしゃいますが、そんなお気遣いも無用です。「タダ」会いに来ていただければ十分です。

 ところが、そうは言うものの、少なからず品物をご持参の方がおられます(中高年の女性に多い)。これはあまり固辞するとかえって失礼になる場合があるので、有り難く頂戴します。

 以前、東京で60代かとお見受けする女性にお目にかかりました。息子さんとの関係に悩んでおられた、小柄なごく控えめなご婦人でした。

 お話を2時間ほど伺って、ではこれで、ということになったとき、彼女は紙袋を差し出しました。

「つまらないものですが」

 菓子折りが見えたので、私も折角ですので

「ご丁寧に恐れ入ります。申し訳ありません」

 と、素直にいただきました。

 その日はそのまま福井の自坊に帰る日でしたので、夕方着くと、当時留守番してくれていた母親に

「これ、いただいた」

 すると、中身を見た母親が

「封筒がある」

 品物と一緒に礼状が入っているのは珍しいことではないので、

「ああ、そうなの」

 と受け取ると、妙に分厚い。

「やっかいな手紙かなあ・・・」

 などと独りごちながら中をあらためると、なんと、帯の付いた100万円が入っていたのです!

 人間、こういう時に本性が出ます。私は自分が根本的にマザコンだと自覚している者ですが、お金に仰天したその刹那、口から飛び出した言葉は、

「おかあさん、どうしよう?!」

 当時50歳ちょっと。しみじみ情けなかったです。

 すると母親は平然と、

「その方にお返しなさい」

 私はご婦人に連絡して、これを頂くと次から気楽にお会いできなくなると訴えて、最後は納めてもらいました。

 私はどちらかというと図太い方だと思うのですが、こういうときは一気に小心者になってしまいます。

 修行すればどんなときでも平然としていられる(母親のように)と宣う人もいますが、正直言うと、私は自分のこういう動揺が嫌いではありません。

「ニルヴァーナ」私見

2018年03月20日 | 日記
すでに何度か述べたとおり、「ニルヴァーナ」について、それが何であるかという説明は、仏典にありません。それが何でないかは、説かれていますが。

「無上の安らぎ」みたいな表現は出てきますが、その具体的な境地が小春日和のうたた寝(かなり多くの人にとって、「無上の安らぎ」でしょう)とどうちがうのか、誰にもわかりません。

 それもそのはず、仏典における「ニルヴァーナ」の具体的現象は、ブッダの死だからです。死が何かわからないのは当然で、したがって「ニルヴァーナ」にまともな説明が何もないのです。

 すると、「ニルヴァーナ」は仏教の最終目標であるにしても、それが何だか定義されないのですから、我々にとっては「達成」すべき対象になりません。

 わけのわからないものを目標にするなら、それは「受容」という方法でアプローチされるほかないでしょう。つまり、この「目標」は我々の能動的行為の対象とはなりようがなく、結果的に、その根本において受動態で応接するしかありません。

 つまり、我々は死に対して何もできない以上(「終活」とは、自分がかってに設定した「死」までの心配に過ぎない)、いかにそれを受け容れるか以外、考えることはないわけです。

 このとき、「わからないこと」を受け容れるのに一番「ラク」な方法は、それを考えることを止めることでしょうから、だったら考える主体を解体してしまえという発想は、ラジカルであると同時に、実に利口なやり方でしょう。

 ということは、「ニルヴァーナ」を様々にデザインして語れば、それに応じてロマンティックなストーリーの仏教や仏教型宗教は何種類もできるでしょう(このうち、『だったら、さっさと死んでしまえば、その方がイイだろう』というのは、最も愚かなストーリーです。それは『死ねば今よりラクになる』という妄想で行う能動的行為にすぎませんから、ニルヴァーナの誤解以外の何ものでもありません)。

 言うまでもなく、それのどれが「真実の教え」かなど、決めようがありません。結局、自分はどれを気に入るか・支持するかだけの問題です。

ある惜別

2018年03月10日 | 日記
 義父はまだ67でした。やっぱり早いですよね。1年前から覚悟はしていたんですが、いざ本当にいなくなってしまうと、全然違うショックです。肺がんでしたけど。

 義父は誰にでも親切で、丁寧な人で、みなさん優しい良い人だったと言ってくれます。ですが、実は結構頑固で気が短くて、怖い人だったんですよ。昭和オヤジの生き残りですよね。うちのヨメもそうですが、娘四人、多少父の血を継いでるんじゃないですかね(笑)

 実は、私がまだ20歳の時の「できちゃった婚」でしてね。わかったときには、焦りまくりました。ええ、二人とも成人してて、結婚するつもりでしたから、基本、問題はなかったんですけど、お義父さんにどう言うかですよね。どれだけ怒られるかと。

 うちのオヤジに打ち明けたら、オヤジも結婚がどうかより、はやく先方のお父さんのところに行って怒られて来いと、慌てていましたよ。

 お願いに行った日の記憶はあんまりはっきりしないんです。それぐらい緊張して、帰って背広脱いだら、背中はワイシャツまで汗ビッショリだったですもん。

 その背広もまだしっくりこないような若造が、正座して石みたいに固まりながら、ようやく「〇〇さんと結婚させて下さい」と言ったんです。

 お義父さんは、やはり正座して腕組みしたまま、ひと言も発しません。本当にいたたまれないような沈黙でした。殴るなら早く殴ってくれと思ったほどです。

 見ていられなかったのか、途中でお義母さんが何事かお義父さんに話しかけて、助け船を出してくれました。すると、またしばらく沈黙が続いて、たった一言、

「それで、どうするつもりなんだ?」

 あ、もうダメだ、と思いましたね。お前みたい後先考えなヤツに、先の見通しなんか立たんだろう、そんな者に娘がやれるか、みたいな意味だろうと。だって、ちらっと上目遣いに顔見たら、顔、真っ赤でしたから。

 もう何も言えなくて、呆然としながら畳の目を見ていたら、またひと言、

「で、どう段取りするんだ? 式とか、いろいろ」

 体のどこかに穴が空いてガスが抜けるようでした。許してくれたんだと思うと、貧血のように目がくらんだことを覚えています。

 それからも、お義父さんの前では緊張しましたね。ずいぶん長い間、僕の方から話しかけたことがありませんでした。怖くて。

 でも、二番目の子が生まれたあたりから、いろいろと話せるようになりました。自分の経験をもとに、アドバイスもしてくれました。

 ああ、やっと一人前に認めてくれたんだな、これから一緒に酒を飲みながら、沢山話ができるかなと思っていたところでした。

 僕は36ですが、人が死ぬことの悲しみを、初めて身にしみて知りました。




 震災から7年。悲しみは静かに深く続いているでしょう。彼もまた、そうなっていくのでしょう。

福井豪雪

2018年03月01日 | 日記
2月7日朝。檀家さんに電話。

「えらいことになっちゃって。いま、どのくらいです? 雪は」

「いや、ほんとにえらいことだよ、方丈さん。朝起きたら、もう外に出られない。1メートルくらいある」

「今日、帰るつもりなんだけど・・・」

「ムリ、ムリ、電車も車も飛行機も、全部ダメ」

「そうなんだよ、新幹線はともかく、在来線全部運休になってる」

「方丈さんも、あきらめな」

「でも・・・寺が・・・」

「大丈夫、雪がひと段落したら、お寺の方も雪かきしておくから」

「すまんねえ。この大変なときに住職いないなんて」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。青森の方は? 恐山は?」

「やっぱり多いよ、だけど今度の福井は別格だよ」

「まあ、ゴーロク(昭和56年豪雪)以来だな」

「お日待(毎年恒例の祈祷法要)どうしよう」

「3月に延期だな、どうしようもない」

「そうかあ。初めての事態だなあ」

「ほんとだあ、まさかこんなに降るなんて」

 ようやく雪が降り止み、電車が走り始め、主な道路の雪がなんとか取り除かれて、家に閉じ込められていた人々が徐々に動き出したころ、96歳のおばあさんが静かに亡くなりました。

 私が住職になりたてのころから、「いい方丈さんでありがたい、ありがたい」と言って、未熟な若僧をかばってくれたおばあさんです。

 東京で知らせを受け、すぐにその家にかけつけると、枕元に集まった親族は口々に

「我慢強くて、人に気配りする人だったから。雪が止むのを待ってたんだねえ」

 ほんとうにそうだな、と思いました。

 寺の除雪は、檀家さんがしてくれました。

 10年くらい前の大雪の時と違い、集落の若者は少なくなり、大屋根に上って除雪できる技術を持つ壮青年世代は、ほんのわずかです。

 帰ってみると、下屋(母屋から差し出された屋根)の雪がきれいに落とされ、人の通れる道が2本できていました。

 翌日、おばあさんの葬儀の朝は、北陸の冬にはめずらしい、あざやかな青空でした。