恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

自己からの逃走

2021年12月01日 | 日記
 今から80年前、太平洋戦争開戦の年に出版された本に『自由からの逃走』があります。エーリッヒ・フロムという社会学者の著作で、私も大学時代に読みました。

 実は私は、この本を書店で見たとき、その題名だけで勝手に頭が回転し始めたことを覚えています。それほどこの題名は私にはインパクトがありました。その時に私が考えたのは次のようなことです。

 ひと口に自由と言っても、人間は束縛から自由になる場合は、なるほど結構なことだが、その後、今度はそのまま自由に生きて行けと言われると、そう簡単にはいかないだろう。

 例えば、自らの将来を決める時、具体的には選択に次ぐ選択が身に迫る場合(自由の実質が選択の自由になる)、選択肢に関する知識を得て、決定の責任を自ら負うことは、往々にして大きな負担になる。

 それを誰かが引き受けて、万事よろしく手配してくれれば、そのほうが自分は楽だし、結果も自己決定によるより、はるかにマシということになるかもしれない。

 ならば、手元の「自由」を誰かに引き渡し、決定の困難や責任の重みから逃げようと考えてもおかしくない。まさにこの傾向が個人を超えて社会全体の風潮になった時、すなわち社会秩序が動揺して、個人の多くが方向性を見失い、決定の困難と責任に耐えがたくなれば、多くは自由から逃走して、そのことが全体主義の台頭を招く事態に至るだろう。

一つ注意しないといけないのは、今の時代、全体主義はかつてのファシズムやナチズムのように過激な政治体制で出現するとは限らないことです。

「自由からの逃走」は、一面「面倒がなく、ラクになる」というところがありますから。今後、IT技術などを用いて情報を操作し、AI技術を駆使して人間がものを「考える」ことが代替されるようになれば、それを「便利でラク」だと思えば、人々は無自覚かつ積極的に「自由」を全体主義に譲渡するかもを知れません。

 実際に本を読んでみると、当時の私の考えと重なるところや、感心する卓見が多々あったのですが、個人における決定の困難と責任に関する言及は、あまり多くなかったように記憶しています(むしろ無意識を通じて作用する社会常識や社会秩序のダイナミズムを重視しているように思えた)。

 最近この本のことを思いだしたのは、昨今のいわゆる「ポピュリズム」的政治家の各国における登場に際して、あらためてこの著作に言及する言論人が何人かいたからです。

 そこでふと思いついたのが、「自己からの逃走」という言葉です。

 以前にしばしば言及したように、「自己」という実存は、最初から負荷がかかっています。つまり、その存在が「他者から課せられる」構造になっているからです。肉体も言語も社会的人格(名前)も、すべて他人から与えられ、他人を通じて「私」が何者であるかを知らされなければなりません。

 その場合の「他者」は特定の誰かではありません。いわば自己が自己である不可欠の条件として存在構造に組み込まれているものなのです。したがって、この他者との関係が不調になると、「自己」という実存には重大な危機が生じ、それが大きな負担になります。負担が耐え難くなれば、その「自己からの逃走」が起きるでしょう。

 では、「自由からの逃走」が全体主義を招くとすれば、「自己からの逃走」は何を招くでしょう。

 一つは依存症でしょう。私は何人か依存症に苦しむ方とお会いしたことがありますが、どなたもその根底に、人間関係の葛藤があり、そこから慢性的な苦痛を受けていました。

 依存症は、いわば何かに「溺れる」ことで、自己を忘却し、「他者から課せられた自己」という構造から離脱したいのです。これが極端になれば、自死に到るかもしれません。『自由からの逃走』のフロムに言わせれば、それが「マゾヒズム」になるでしょう。

 あるいは、課す「他者」を抹消して構造から逃避しようとするかもしれません。その場合、これは「動機なき殺人」「無差別殺人」「死刑なるための殺人」になるかもしれません。

 なぜなら、そのような殺人者は特定の誰かを恨んだり憎悪しているわけではないからです。彼らが取り除きたいのは、「自己」の条件として組み込まれている「他者」であり、それは彼らには他者一般、「誰でもよい」他者として現れるからです。フロムの考えでは、それが「サディズム」に当たると思います。

 ただ、私は逃走そのものが悪いとは考えません。問題はその方法なのです。苦境を脱する方法の一つとして、逃走という選択はあるべきです。

 たとえば、「出家」はその方法の一つでしょう。それまでの「自己」から離脱して、次の「自己」を手作りする。これが仏教の「出家」なら、「出自己」と言い換えることもできるでしょう。

「自己」からの逃走が、「自己」の否定や破壊になることは避けるべきでしょう。「自己」とは、「人間」という実存がこの世で採用せざるを得ない存在形式なのです。ならば、場合によって形式の変更や改良は、あり得るはずです。

 けだし、「自由」と「自己」は根源的には負荷としての存在なのであり、それを逃げずに、取り扱い方を考えつつ、あえて引き受ける決意と覚悟によってこそ、「自由」は実現し、「自己」は発動するのです。