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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

『正法眼蔵』の因果、業、輪廻

2017年10月30日 | 日記
 仏教で言う「因果」(原因ー結果関係、因果律)は、それ自体が実在する、たとえば「宇宙の原理」ごときものではありません。要は、明確な言語と意識を持つ実存、すなわち主として人間が「考える」時に使用する最も重要な方法、とはいえ、所詮は道具にすぎません。

 まず第一に、「考える」実存とは別に、因果がそれ自体として存在しないことについて。

 そもそも、「結果」と「認定」される事象が起きてから、遡って「原因」を「発見」するのだから、「考える」人間がこの世にいなければ、因果は存在のしようがありません。

 第二に、因果が人間にとって最も重要な「考える」方法である事実。

 因果を使用しないかぎり、我々は「権利」と「責任」の概念を持ちようがなく、目的を定め、経験を反省し、今なすべきことを決断することもできません。すなわち、因果という道具なしに人間は「主体性」を構築できず、一貫したアイデンティティーを持つ「自己」を設定できません。

『正法眼蔵』は、このあたりの事情を「大修行」の巻と「深信因果」の巻で説明しています。

 このうち、因果の非実体性は、「大修行」の巻で、ある公案(禅問答)を題材に解説されています。

 もし因果を実体だと考えると、原因と結果をつなぐ何ものかも、必然的に実体と考えざるを得ず、「自業自得」のアイデアからすれば、「霊魂」的存在を呼び込むことになります。これは「無常」「無我」の考え方と決して相容れません。

 このように、因果という考え方の意味と正当性を自らの修行において徹底的に問うこと、それを「大修行」と言うのです。

 「大修行」の巻は、いわゆる75巻本『正法眼蔵』の中にあります。75巻本は、主として著者独自の仏教思想が大規模に展開され、それは今で言う存在論や認識論、果ては倫理観におよび、時に「日本思想史上最高の哲学書」と称されたりします。

 これに対して、因果の方法としての重要性と必要性は、「深信因果」の巻で説かれます。この巻は、著者晩年に書かれた未完の12巻本『正法眼蔵』にあります。
 
 12巻本は、75巻本と明らかにテーマと構想が違います。そのテーマは、仏教において修行する主体をどう構築するのか、その主体性をどう確立し維持するのか、まさにこの点にあります(最終的には、12巻本の構想に従い、75巻本は適宜修訂され、全100巻の『正法眼蔵』が予定されていた)。

「深信因果」の巻では、修行主体を構成する方法としての因果の重要性が強調されます。それと言うのも、「大修行」の巻で主張された因果の非実体性が拡大解釈されて、未熟な修行者が、修行主体を構築する方法としての重要性と必要性を無視し、因果そのものを一挙に否定し去るような錯誤を、徹底的に排除するためです。

 このとき、「深信因果」の巻は「大修行」の巻が用いたのと同じ公案を取り上げ、因果に関するまったく逆の結論を導きます。この相違は、因果の非実体性と修行主体構築の方法的重要性という、議論のテーマの違いを際立たせるものです。

 方法としての因果を否定すれば、「修行して成仏する」という実践は無意味かつ不可能になり、それでも「成仏」を説くなら、「人は本来悟っている」という話にせざるを得ず、その肉体はどうであれ「悟っている心」こそが人間の本質だと主張することになるでしょう。

『正法眼蔵』はそう述べた上で、この「悟っている心」は実体視されて、最終的に「絶対的な真理の世界(「性海」)に帰入するのだという、「大修行」の巻とは別の意味の実体論的ストーリーが語られることになると、厳しく批判するわけです。

 ところで、因果が思考の方法、道具であるとすると、道具の道具たる由縁、すなわちその存在の「正当性」は、使用目的と使用効果に規定されます。紙を切ろうとしてハサミを用い、それが切れれば、ハサミとして正当性を持つでしょう。

 因果も同じです。科学理論の完成を目的に因果(律)を使用する場合には、数式によるそれなりの論述スタイルがあり、効果は実験で検証されます。

 これが仏教なら、修行主体を構築し、彼らの修行を可能にするために因果が用いられます。それ以外に仏教が因果を使用する必要はないし、この目的外で使用することは、仏教として正しくありません(かつての「親の因果が子に報い」的説教の犯罪性)。

 問題は、道具の効果です。仏教における因果の使用効果は、どう検証されるのか。

 たとえば、仏教の説く「善因善果」「悪因悪果」の理屈はどう検証されるのでしょうか。

 現に生きている個人の経験の範囲内で、これを検証できることもあります。しかし、世の中には、善行が報われず、悪行が多大の利益を生むことがあります。それも、そう例外的なことではなく、むしろ、こちらの方が往々にして世間でリアルに感じられたりします。

 さらに、「善因」や「悪因」がすぐに「善果」「悪果」を引き起こすとは限りません。その間隔が極めて長く、場合によっては個人の寿命さえ超えたら、因果による認識の正当性は検証できません。

 つまり、仏教の因果、その道具の効果は検証が難しく、少なからぬ疑問がつきまといます。だから、「深信因果」なのです。因果それ自体が実在するなら、それを「理解」すればよいだけです。ですが、それが方法であり、効果の検証が困難なら、検証抜きの「効果」を「深信」するしかありません。

 そこで、12巻本には「深信因果」の巻に続いて「三時業」の巻が出てくるわけです。

「三時」とは前世・現世・来世のことで、「三時業」の巻は、この三世にわたって「善業(行)によって天上界に生まれ、悪業(行)によって地獄に堕ちる」という因果(関係)が作動することを、経典からサンプルになるエピソードを引用して強力に主張しています。つまり、道具の「効果」を証明しようとしているのです。

 すると、この巻は、そうとは直接言及していませんが、「輪廻」を説いているように見えます。サンプルは「生まれ変わり死に変わり」の話だからです。

 ところが、ここで主題になっているのは、個人の特定の道徳的行為による「生まれ変わり死に変わり」の話(これが輪廻の話。それ以外の輪廻論は無意味。それについては後述)ではありません。

「三時業」の巻において「善業」と「悪業」を分けている基準は一つだけ、因果を信じるか否か、認めるか否かです。ある個人が道徳的に何をしたらどうなるかなどは、まったく眼中にありません。因果が三世に及んで方法として有効に機能することを「信じる」ことこそ、我々の修行の第一要件だと、そう説いているわけです。

 ここから先は、僭越ながら、自著『「正法眼蔵」を読む』から引用させていただきます。

(引用はじめ)

 この「三時業」の巻を読むと、『眼蔵』が因果や業、さらに前世や来世など、それ自体で存在する実体だと考えているように思えるであろう。「中有」などというものまで出てきては、なおさらである(ブログ主註:輪廻も)。

 しかし、修行を可能にする因果の道理を、直接体験で検証できない状況で(ブログ主註:ゴータマ・ブッダ以後、修行して「成仏」した者は確認されていないし、確認は不可能)、方法として信じ続けなければならないとき、まさに前世や来世、三時業のような概念は、不可避的に要請されることになる。それは修行者が、自らの修行の限界を自覚したときに、是非とも必要なものなのだ。
 
 修行の最中に自分の力の限界が自覚されればされるほど、その(ブログ主註:修行者の)発心と志は未来を求めるだろう。つまり、未完の修行の継続を願う意志が来世をリアルに要請する。

 そして、力の限界の自覚が、なぜかという問いになったとき、それは過去の反省に向かう。そして自分の修行の妨げになるものの原因がわからないとすれば、修行への意志が切実であればあるほど、自ら原因を知りえない過去に求めざるを得ない。ここに前世が現前する。

 すなわち、前世も来世も、地獄も天界も、修行への意志と教えへの確信がなければ無意味な概念なのである。『眼蔵』が因果や業を論じて問題にしているのは、修行の持続それ自体なのだ。修行こそすなわち仏法だというなら(ブログ主註:『眼蔵』はそう言っていると思う)、問題は、因果の道理が可能にする仏法の存続という業なのである。仏法においては、修行者が誰かはどうでもよいことであり、修行者が個人的にどういう生涯を送り、来世でどうなるかは、まったく問題ではない(ブログ主註:それを問題にするのが「輪廻」である)。現世の誰の修行が来世の誰の果報となろうと構わないのだ(ブログ主註:そうでなければ、要するに話は世間の取引である)。このとき、「自業自得」の「自」が単に人格的個人を意味するなら、その「自己」は脱落されなければならない。

 仏法においては、人間は修行や信仰の主体としてしか意味はない。すなわち、仏教の「自己」は修行と信仰という業の器にすぎない。

 だから、自己は忘れられて縁起的次元から再構成され(ブログ主註:坐禅を土台とする修行)、修行する業的実存として、未来と過去へと切り開かれなければならないのである。少なくとも、『眼蔵』はそう述べているだろうと、私は思う。

(引用おわり)

 かくのごとく、『正法眼蔵』は因果と業は主題的に論じていますが、「輪廻」の巻はありません。主題になっていないのです。

 言葉としては出てきますが、その回数はわずかであり、内容的にも乏しいものです。「三時業」の巻に引用されている「生まれ変わり死に変わり」のエピソードは、ほぼ輪廻と同じ意味で、これが最も詳しい記述でしょう。

 その上で言うなら、『正法眼蔵』から「輪廻についての教示」と「輪廻を意味する記述」を全て切除しても、『正法眼蔵』の思想体系全体に何の影響もありません。さらに言うなら、ゴータマ・ブッダの言葉を記録したという「初期経典」から輪廻を語る全ての記述を抹消しても、思想的にも実践的にも、何の問題もないでしょう。

 私が思うに、ブッダの思想の核心は「無常」「無我」「縁起」「無記」であり、『正法眼蔵』の土台には「観無常」があります。ならば、これらと「輪廻」が理論的に折り合うはずがありませんから、邪魔なだけです。
 
 当ブログでも過去の記事で説明したとおり、輪廻は、「生まれ変わり死に変わりする」実体的存在(自己同一性を保持する霊魂のごときもの)を輪廻の主体として設定しない限り、意味をなさない概念です。
 
 これに対して、輪廻するのは業だ、因果だ、生命のエネルギーだなどと言う輩がいますが、「業が輪廻する」「因果が輪廻する」「エネルギーが輪廻するとは誰も言いません。「業は相続」し、「因果は連鎖」し、「エネルギーは保存」されると言えばよいだけです。

 所詮、仏教に輪廻は要りません。要らないどころか、このアイデアには実害があります。

 つまり、「生まれ」や「出自」によって困難な境遇にあったり、差別されている人々に対して、その境遇を甘受するように説得したり、その種の差別を正当化するための、理論的根拠を与えるのです。

 不要で実害のあるアイデアを捨てられない理由は色々あるでしょうが(それについては過去に当ブログでも触れました)、時に「真理」という概念を持ち出してくると、すべての矛盾を強引に糊塗しなければならない破目になります。

 たとえば「初期経典」や『正法眼蔵』の言説を丸ごと「真理」だと主張すると、「捨てるべき」部分も「真理」の一部であるがゆえに捨てようがなくなり、後から無理で無様な理屈を捻り出して誤魔化さざるを得ないでしょう。

 しかし、話し手が誰であろうと、それが言葉で語られ、他人が聞いてわかるようなこと(わからなければ、はじめから無意味)に、「真理」(すなわち絶対的・普遍的に正しいこと)などありません。

 ブッダやキリストや道元禅師などの教祖・祖師、「初期経典」や「聖書」、『正法眼蔵』など、教祖・宗祖の言葉や聖典をすべて無謬であると考えるべきいわれはなく、無常と無我の観点からそれはあり得ないし、結局、無謬の証明は不可能です。

 にもかかわらず、「真理」というイデオロギーを声高に言い募ることから、まさに決定的な誤謬が始まるのだと、私は思います。

 自分の「問い」にアプローチする道具として仏教を選び、「初期経典」や『正法眼蔵』を使う私には、それが「真理」かどうかなどどうでもよく、使えるかどうかだけが問題です。使えず、さらに実害があるアイデアなら、そんなものは放棄するだけです。

 その意味で、私は仏教に共感することはあっても、信仰することはありません。そして、およそ「真理」などというものは、認識の中にではなく、信仰の中にあるものです。

 

「宿願」でした

2017年10月20日 | 日記
 先日、住職している寺のある地元の町で、住職22年目にして初めて、講演をしました。ようやくこの機会が!

「他国坊主、地侍」ということわざがあるそうです。坊さんは他所から来た人がありがたく見える、侍は地元で目を光らせている者が怖い、くらいの意味でしょうか。

やっぱり、常日ごろご近所をうろうろしている住職の話を改めて聞こうという気には、なかなかならないのかもしれません。

 逆張りの言い方では「預言者故郷に容れられず」という言葉もありますし、中国唐代の高名な禅師には「君に勧む、帰郷すること莫れ」という一句で始まる偈があります。

 故郷では君の子ども時代を知っている人が大勢いるから、大事な教えを説いたとしても、バイアスがかかって軽んじられてしまう、というようなことを言っているのでしょう。

 実際、自分をよく知っている人たちの前で、偉そうな話をするのは気が引けるものです。私も、親・親族、修行僧時代の同期、檀家さんなどの前では実にやりにくい。要するに、みな私の過去の失敗や恥、欠点弱点をよく知っているからです。

 ところが、そういう人達に限って、最前列にいて含み笑いをしていたりします(ひょっとして、いやがらせか!?)。

 この日も、会場の公民館に100人くらいお越しいただきましたが、檀家さんも沢山おられました(前列にも!)

 ただ、意外にも、翌日から月のお参りに回ると、そこそこ好評でした。「方丈さんのまとまった話を始めて聞いた」と言うのです。確かに、寺の法要でする説教や各家の法事での話などは、数分から20分というところでしょうから、90分の講演は印象が違うのでしょう。

 私が嫌がるので、父や母は息子の講演に一度しか来たことがありません。その父が生前、そのときのことを母に言ったそうです。

「ちゃんと、堂々とした坊さんに見えたな」

 ちょっと嬉しかったことを今も覚えています。檀家さんにも、「住所不定住職(と、言われたことがある)」でも「方丈」らしく見えたなら、嬉しいです。

行き着く果て

2017年10月10日 | 日記
「君は、『悟り』や『涅槃』は結局のところ何なのかわからない、とよく言うな」

「ゴータマ・ブッダが直接言及していないからな」

「そうか? 初期経典には結構出てくるだろう」

「あれは『〇〇ではない』『〇〇は尽きた』みたいな否定で語られるばかりで、たとえば『涅槃』が仮死状態や熟睡状態とどう違うのか、まったくわからない」

「つまり、『悟りとは〇〇という状態である』のごとき、定義になるような発言がないということだな」

「そう」

「でも、時々、仏教者連中は『悟り』や『涅槃』を語るよな。『本来は言葉で言えるものではないが、あえて言うなら』という類の枕詞を付けて」

「そうそう。それで面白いのは、言わせてみると皆、最終的には似たようなことを言うんだ」

「と言うと?」

「言い草が似てるんだ。『私が消える』『対象と観察が止まる』『一切が終わる』『自他不二の境地』『思慮分別を超えた絶対無』、エトセトラ」

「なるほど」

「ということは、これらはみな要するに、ある身体技法を採用すると、つまり瞑想や坐禅を中心とする修行をすると、最後には自意識の解体的変容が起こると言っているに過ぎない。それ以上に話を盛るのは、所詮ファンタジーと変わらない」

「最後は同じことになるなら、修行法の違いなど大した意味は無いんじゃないか?」

「だろうな。したがって、自派の修行の優越性や真理性を主張したいなら、結果として出てくる他派と同じような『境地』を意味づけする、独自の理屈の出来栄えで競うしかない」

「そうなのか?」

「初期経典からしてそうだぜ。あそこには、ブッダが出家した後に実践して捨て去った二つの瞑想が出てくる。『無所有定』『非想非非想定』だ。これが後日、仏教の瞑想のレベルに取り込まれて再編される。つまり、ブッダの到達した最高レベル『滅尽定』に次ぐ、第二位・第三位の瞑想に位置づけられる。それでいて、『滅尽定』と『非想非非想定』が具体的な体験としてどう違うのか、まるでわからない。まともな言及がない」

「だから、理屈で違いを後付けする」

「そう。在家では『非想非非想定』止まりとか、『輪廻』を持ち出してきて『輪廻を脱することができるのはこの瞑想方法しかない』とか」

「『輪廻』が出る?」

「利益誘導と脅迫で道徳的行為を強制したり、苦しい境遇にある人が自分の状況を甘受したり・別の誰かが彼に甘受させたりするための実践的機能以外に、『輪廻』を語る意味があるとすれば、ある修行者ないし教団が自派の修行法の優越性と真理性を主張する理論的必要だけだろうな」