恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

対照的教訓

2017年04月30日 | 日記
▼ 男性・50代・夫婦円満の秘訣を訊かれて

「無抵抗、不服従」

▼ 女性・70代・子育てのアドバイス

「子供は小型の大人、大人は大型の子供だと思って相手をすると、間違いは少ないですよ」

▼ 男性・50代・筆者の実感

「希望が長く続くと、次第に人間は愚かになるし、絶望は極めて短い間、人間を驚くほど賢くする」

▼ 男性・60代・会社役員

「能弁は他人に対する恐怖を隠す道具になるし、無言は自分の怒りを隠す道具になるね」

▼ 女性・60代・主婦

「失敗は成功のもと、と言いますでしょ。でも、成功が失敗のもとだとわかる人はあまりいませんね。特に男には」



 

無記と空

2017年04月20日 | 日記
「机が無い」という認識(言い方)が成り立つのは、机が在ることを前提にしています。そもそも全くないものを「無い」と言うことはできません。つまり無いことそれ自体は認識できず、無いことの認識はあくまでも在ることに依存しているわけです。この、いわば「無い」ことを可能にする「在る」は、当然、普通我々が言うところの「在る」とは、その「在り方」が違うでしょう。

 他方、「机が在る」という認識は、それを自分が見ている、触っているなどの経験を通じての認識であることが普通です。では、経験的に認識していないとき、すなわち見ても触ってもいないときに、「机が在る」と言えるのかと問うた場合、即座にイエスと即答できるでしょうか? 見ても触ってもいないものを、「在る」となぜ、どういう理由で言えるのかは、非常に困難な問題です。これは原理的に「在ると信じている」以上のことは言えません(さらに言えば、すべての「在る」は実際には「在ると信じている」である)。

 以上の事情を言い換えると、「机が在る」「机が無い」などと普通に言うときの、「在る」「無い」という経験的判断をする手前の、「在る」「無い」の述語のつかない「机」それ自体は在るのか無いのか、という問いになります。これは、論理的必然として、「在る」とも「無い」とも言えない、と答えることになるでしょう。

 経験的に認識できない「机」とは、いわば「形而上学的」に存在する「机」、つまり個々に認識される机を超えた「本質」としての「机」と同じ意味です。

 大乗仏教の「空」は、この「本質」としての「机」が「在るとは言えない」という認識であり、いまここに現前している机の「在り方」は、「机」として使う人間の行為に依存しているという意味で、「縁起」していると言うのだと、私は考えます(だから「無いとは言えない」)。

 すると、この「空」のアイデアの原型は、ゴータマ・ブッダの「無記」になります。世界が永遠か否か、有限か無限かなど、形而上学的問題について答えない認識論的態度を、我々の日常の判断にまで拡張すると、『中論』に展開される論理になるでしょう。

 すなわち、『中論』の「空」解釈は、ゴータマ・ブッダの「無記」思想の直系なのであり、これ以外のすべての「空」解釈は、すべてどこかに「形而上学的」思考を持ち込むことになるでしょう。

決メのひと言!

2017年04月10日 | 日記
 この前地方の在来線特急に乗ったら、今どき珍しい光景に出くわしました。

 出発の数分前、私の乗った車両は、スーツ姿の男性ばかり7、8人とまばらで、皆すでに眠っているか、スマホ片手に俯いていました。そこへ突然、10人以上の男女(男性は2人のみ)が駆け込んできました。

「ここ、ここ、3号車!」

 先頭集団が、振り返りざまに後続に叫んでいます。全員、おそらく70歳以上ではないかと思われる、正体不明の一団です。

 最後の一人が乗り込んだとたん、発車ベル。

「早くすわってや!」

 先頭集団の一人だった、大柄で、目立つイヤリングをした女性がリーダーらしく、指さしながら座席をテキパキ指示しています。私のすぐ前の席があっという間に一杯になりました。

「よーし!、じゃあ、次は弁当買って、これだな!」

 頭がきれいに禿げて、灰色の眉毛の太い男の人が、座るとすぐに90度腰を曲げ、足元のリュックから、驚くべきことに一升瓶と紙コップをつかみ出しました。電車の中で一升瓶を見たのは、実に中学生の頃に東京の親戚を訪ねた時以来です。当節まずお目にかからない珍事でした。

「はい、コップ回して!!」

 さらに驚いたことに、この人たちは、全員誰も断りも遠慮もせず、コップを受け取っているのです。このあたりで、車両の他のお客も気が付きだして、いささかびっくりした表情をしています。

 どうも、親戚同士ではなさそうだ。かといって、添乗員もいないし、ただのツアーグループでもない。なんの集まりなんだろう。みんな親しそうだし。

「あとは、弁当だけだな!」

 また、一升瓶の男性が言いました。

 が、しかーし!! 彼らが乗り込んでくる前、私は聞いていました。車内放送で、

「この列車にはワゴンサービスがございません。お弁当、お飲み物等は、ホームでお買い求めの上、ご乗車ください」

 と言っていたのを!!!

 どうなるんだ、この後!? すでに女性たちのバックからは、柿の種やミカン、せんべい、飴など様々な食べ物や、さらに缶ビールなどが矢継ぎ早に出現し、縦横無尽に交換が行われ、すでに酒盛りが始まっていました。

「弁当まだかな」

 弁当にこだわる一升瓶が再びひとりごちた時、車掌さんが車両に入ってきました。

「お弁当なんかの車内販売、まだですか?」

 すかさず先頭の座席の女性が訊くと、

「あ、すみません、ないんです。この列車」

「えっ、ないの!?」

「はい、すみません」

 女性はやおら立ち上がり、

「車内販売、無いって!」

「えーっ!」

 いっせいに拡がる驚愕と落胆の声。

「え~~っ! 弁当ダメなの!?」

 一升瓶のひときわ大きな怨嗟の声。

 関係ないのに、私も胸がつぶれる思いです。どうなるんだ、この人たち。特に一升瓶!

 するとその一升瓶が、いきなり右手の紙コップを頭上に高らかに突き出し、

「うーん、じゃあ、弁当買ったつもり!! かんぱーい!!!」

 この一発で、沈滞しかかったグループのテンションは、瞬時に復活しました。

「そうそう!、いいよ、いいよ、着いたら駅でお昼食べて、また飲も!」

 女性リーダーの堂々の宣言。一団はそのまま、昔懐かしい昭和の車内宴会に突入しました。

 おそるべし! 一升瓶男のひと言!!

 私他の「部外者」乗客は、たとえ不快に思った者がいたとしても、多勢に無勢、とても何か言える雰囲気ではありません。最早眠れる状態でもなく、それぞれスマホ、雑誌、窓の景色に集中する以外ありませんでした。ただし、私は終始見物することで、宴会に「参加」していました。