恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

プロとアマ

2011年05月31日 | インポート

 いわゆるプロ、つまり職業的専門家と、アマ、すなわち一般的素人との違いはなんでしょうか?

 おそらくそれは、特定の行動様式や思考方法、つまり一定の規則的な振る舞いにおける習熟度の違いでしょう。そして、その段違いの習熟度の高さを必要とし、価値と認める社会集団があった場合、特定の振る舞いは職業として成り立つ条件を備えるわけです。

 さらに、そのような振る舞いをする者が多くなれば、彼らのグループはお互いの利害をめぐって人間関係を調整して秩序をつくり出し、体系化するでしょう。つまり「業界」です(いわゆる「素人ばなれ」「玄人はだし」と言われる人は、振る舞いの習熟度において傑出しているが、「業界」の秩序体系外にいる人のことです)。

 ということは、まず第一に、規則的な振る舞いや「業界」的体系が存在しない行為に、「プロ」はあり得ないことになります。

 すると、次には、そのような規則や体系を成り立たせ、通用させる根拠や条件が問題になるでしょう。これはあくまで、それを必要とする社会集団の存在以外にありませんから、この集団の構造が変わって、その規則や秩序を成り立たせる条件が変わるか無くなれば、それまでの「プロ」は無用となるのは当然です。

 今回の震災や原発事故を見て驚いたのは、政治業界(「政界」)や原発業界(「原子力ムラ」)の「プロ」が、特に「危機管理」という振る舞いについて、我々が期待していた水準より劇的なほど低い習熟度にしか達していなかったことです。

 思うに、この体たらくは、「業界」内部にいる個々の人の能力が低いからではないでしょう。そうではなくて、そもそも、彼らの依って立つ規則や秩序に欠陥があるのであり、だとすれば、そういう規則や秩序を容認してきた社会集団の構造にも大きな問題があるはずです。

 とすると、これはおそらく、「政界」や「原子力ムラ」ばかりの話ではないでしょう。我々は今後、いままで「プロ」と讃え、「専門家」として敬意を払ってきた様々な「業界」の人々の振る舞いについて、「素人」の立場から率直に疑問を呈し、その存在意義を問い直すべきです。習熟度の低い「アマ」のあらゆる疑問や批判に、習熟度の高い「プロ」が回答するのは当たり前で、これは端的に、義務です。疑問を無視したり、批判に耐えられない「プロ」や「専門家」は、もはや必要のない存在なのです。

 と同時に、どのような規則や秩序に基づく、どの程度の「プロ」を要求するかは、「アマ」集団の意識にかかっているわけですから、「プロ」への無責任な誹謗や中傷は、彼らの水準の向上に、まるで無意味であり、有害でしかありません。

 大相撲の「八百長問題」も仏教界の「葬式無用論」も、まさにこれまでの「プロ」「専門家」の在り様が問われている事態であり、その底には、新たな「プロ」を要求する、変動しつつある社会構造を反映した「アマ」の意識変化があるでしょう。そして、要求する以上は、要求に応える側の責任ばかりではなく、要求する者にも責任が生じるはずなのです。

追記:次回の講義「仏教・私流」は、6月29日(水)午後6時半より、東京・赤坂の豊川稲荷別院にて、行います。


「他者」を問う方法

2011年05月20日 | インポート

 およそ宗教には、その信者や修行者が遵守すべきルールがあり、「戒」とか「戒律」とか呼ばれています。

 仏教では、出家修行者や信者が個人的に自らを律する規範を「戒」と呼び、僧侶集団の運営規則を「律」と呼びます。

 ユダヤ・キリスト教には、有名な「モーセの十戒」があり、これは神からの命令としてモーセが受け取った規範であり、これを遵守することで、神との契約が成り立つ、ということになります。

 このうち、条文の表現や適用条件はともかくとして、戒の内容として共通する部分を抽出すると、実質的な内容として「殺してはならない」「盗んではならない」「嘘をついてはならない」「邪な性行為(姦淫)をしてはならない(仏教の出家者の戒としては性行為をしてはならない)」、ということになるでしょう。

 これらの四つの「戒」は、およそ古今東西のどの人間社会でも、掟や法律によって禁止されているでしょう。

 このうち、「それをしてはいいけないのは、なぜなのか?」、たとえば「殺してはいけないのは、なぜなのか」という問いが成り立ちうるのは、仏教だけです。

「モーセの十戒」は神の命令であり、それは従うか否か、神と契約するか否かだけが問題で、人間は神に命令の根拠を問える立場にありません。

 法律はその社会集団の「常識」や「慣習」、さらに社会運営上の「必要」を明文化しただけのもので、制定や運用や適用は問題になるでしょうが、それらの根拠などは問題外です。

 ところが、仏教の戒律は、仏教を学ぼうとする修行者同士が、その修行がしやすいように受け入れた集団規則なので、規則の妥当性が、仏教の教えや修行の仕方に照らして常に問われることになります。つまり、「殺すとはどういう行為か」「何を殺してはいけないのか」「殺してはいけない理由は何か」「それに例外はあるのか」ということが、そもそもの話として、釈尊の教えから問われなければならないわけです。

 仏教では、戒(律)は「三学」の一つで、(禅)定と(智)慧と共に、修行者が学び会得すべき、最も重要な項目となっています。普通には、戒によって身の振る舞いを調え、定によって心を安定させ、その上で、自己と世界を正しく認識する仏教の慧を体得するというように、それぞれが位置づけられます(大乗仏教においては、三学は互いに互いを含んでいて、たとえば戒を徹底的に学び会得すれば、それはあとの二つ、定と慧を完成するのと同じことになる、という説き方をすることもあります)。

 さて、私が以前から考えていたことは、この三学を定・戒・慧という順番に並べなおしたらどうなるか、ということです。

 この場合、定とは、自分の中に根付いている「常識」「慣習」「必要」のような考え方の枠組みを、一度チャラにしてみることです。その上で、戒の根拠を個人的に徹底的に問い、考え抜くのです。その場合、問う方法として、仏教を使おうと、別の宗教や思想を使おうと、それは人それぞれでしょう。大事なのは、この問いを徹底的に遂行した結果、我々が得られるのは「正しい答え」ではない、ということです。というよりも、それを求めること自体が間違いだろう、ということです(仏教とキリスト教が提供できる共通の「正しい」根拠など、ありえません)。

 この問いの遂行によって我々が求めなければならないのは、それぞれの「自分の覚悟」です。たとえば、「自分は、殺すことをこのような行為と考え、かくのごとき理由で、これらのものを、殺さないと決めた」と自覚することです。その戒を神や集団から課されたものではなく、自ら引き受けたものとして、覚悟し直すことです。「普遍的に正しい」ことではなく、「自ら引き受けた」ことを根拠とする倫理を可能にすることです。

 私は、この問いを問い、覚悟することが、自らにとっての「他者」の意味を根底から考える方法になると思うのです。それは結果的に、「縁起する存在」としての自己を認識する慧を開発することになるはずです。

 こういうことを言うと、その発想は危険だ、という人がいるかもしれません。しかし、その根源において、倫理は危険を孕み、自己は危機的存在であるほかないと、私は考えています。


開山しました。

2011年05月10日 | インポート

F1000034  5月5日、今年の恐山開山から5日目、ある参拝者グループに申し上げた挨拶です。

 皆様、今年もお参りお疲れ様でござました。まことにありがとうございました。例年ですと、今年もおかげさまで無事開山の日を迎えることができました、と冒頭ご挨拶させていただくところでございますが、私ども恐山一同はいま、とてもそうは申し上げることができずにおります。

 実を申しますと、3月の大震災の被災地は、ほぼ全域が恐山に熱心な信心をいただいている地方になります。

 多くの犠牲者、行方不明の方々、家と仕事を一瞬にして失った皆さん。それを思い、これを考えると、たとえ肉親を偲び、供養する気持ちがどれほど切実でも、未だその地での追悼もままならず、この恐山までお参りいただくまでには、まだまだ時間がかかるだろうと思います。

 開山に際し、私どもは犠牲となられた方々にお位牌を捧げ、1日より毎朝、被災地の「早期復興・万難消滅」を祈願し、「東日本大震災殉難歿(没)故者諸精霊」のご供養を行っております。

 しかしながら、個々のご遺族や被災の方々のお気持ちに添えるように祈願・供養をすることは、今後長い歳月を要するものと存じております。

 それでも、すでにこの5日間に、家族は無事だったものの、漁船と漁具の一切を失った漁師のご夫婦や、家族を亡くされた女性が一人で、お参りにみえられました。

 また、関東の寺のご住職が、「私の寺でお勤めするのはともかくとして、やはり恐山でご供養するのが一番だろうと思って」とおっしゃって、塔婆供養をなさっていかれました。

 このような方々の想いを今後どのように受けとめていくのか、私どももこの先長く、試行錯誤を続けていくことになるでしょう。

 どうか皆様におかれましても、この後本堂でお勤めしますそれぞれのお家のご供養の際には、心のどこかで、震災犠牲者の御霊に思いをはせてご焼香いただければ、当恐山といたしまして、まことに有り難く存ずる次第でございます。