恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

そこにいる

2014年04月30日 | インポート

 恐山開山直前、思いつき禅問答シリーズ。

 昔、中国で、ある修行僧が山中で道に迷って困っていると、ふいに粗末な庵が見えてきました。早速近づいて声をかけてみると、そこには並々ならぬ力量を感じさせる老僧が住んでいました。

 そこで修行僧は尋ねました。

「老師はこの山中に暮らしてどのくらいになられますか」

「山の景色が青葉から紅葉へと移り変わるのを見ること、三十年ほどかな」

「実は道に迷ってしまったのですが、下山するにはどう行ったらよいでしょうか」

 老僧は庵の前の川を指さして言いました。

「流れに随って行きなさい」

 この禅問答はよくこう解説されます。

「煩悩から解脱しようと志すなら、自分勝手な思い込みを捨て、釈尊の教示する修行に身を任せるべきである。そうすれば、自ずから解脱の道は開かれる」

 

 さて、時は現代、日本国。ある老師が弟子に同じ禅問答を提示して、このよくある解説をしたところ、弟子がすかさず手を挙げて質問しました。

「師匠、それはダメですよ。山の中で道に迷ったら、余計に歩き回らず、その場をじっと動かず救助を待たないと」

  すると、老師が一喝、

「馬鹿者。禅問答の老僧を見よ。一番よいのは、庵を結んで住むことだ」

  私はこの話を聞いて、実に面白いと思いました。私は老師と弟子の話をこう考えたのです。

 「流れに従って行く」というのは、例えれば仏法の教える坐禅修行をして「悟り」を開こうとする方法だろう。それに対して「じっとして救助を待つ」というのは、阿弥陀様の本願を信じて念仏「往生」を待つ方法と言えるかもしれない。

  では、「庵を結ぶ」とは何か。

  そこに住む人は、そもそも、庵に「住んだ」時点で「迷って」いない。だから下山の必要もなく、救助は余計なお世話だ。だからといって、庵で何をして、どんな心境でいるのか、一言もふれていない。

  すると、ここに一つの疑問が出てくる。

「なぜ、彼はそこにいるのか」

「庵を結ぶ」とは、この問いを露わにし、この問いに直面することなのだ。つまり、坐禅が開く実存の領域、「非思量」。

 


欲望される「神」

2014年04月20日 | インポート

 人はなぜ、自分が死ぬ、と「わかる」のでしょう。我々が経験するのは、他の「人間」が、いつか動かなくなり、放っておくと腐り、分解されて消滅するという現象だけです。これと同じことがなぜ自分にも起きると「わかる」のでしょう。

  「同じ人間だから」。では、なぜ「同じ」だとわかるのでしょう。

 もうひとつ。「死」が何であるか、誰にも何もわかりません。誰にも何もわからないことが自分に起きると、なぜ「わかる」のでしょう。

 まったく別の個体に起きる「わけのわからないこと」が自分に起きるということは、実際には「わかる」のではなくて、そう「信じている」のでしょう。

  なぜ、そう「信じる」ことができるのか。それは「自己」が「他者」のコピーで始まるからです。「他者」を写し取るとき、「死」も写し取るのです。というよりも、「自己」に写し取られた「他者の消滅」を自覚したとき、我々は「死」を獲得します。 逆に言えば、「他者」が「自己」に「死」を書き込み、「自己」はそれを読むということです。

 したがって、「自己」の存在の「自明さ」程度に、人は自分の「死」を「自明のこと」と思っているのであり、それを「信じている」などと考えません。実際は信じているのに、「自分は死ぬ」と「わかっている」、と言うのです。

 この認識構造が土台にあるから、人は「絶対神」や「絶対の真理」を「信じ」たり、「わかった」りできるわけです。

 自分とはまるで別の存在の仕方をしている、それ自体わけのわからないもの(「絶対」は、人間には「絶対」にわからない)が「ある」と考えられるのは、我々が「死ぬ」と確信しているからです。

  しかし、考えてみれば、人は自分が「死ぬ」と「わかる」ほど、つまりそう「確信」するほど、「絶対神」や「絶対の真理」を「わかる」わけでも、「確信」してるわけでもないでしょう。この強度の差異は、どういうことでしょう。

  我々は「死」同様、「絶対神」も「絶対の真理」もそれが何であるか、決してわかりません。つまり、それらは本来、「死」のごとく空虚な観念、「無意味」な言葉です。

  にもかかわらず、「絶対神」や「絶対の真理」が、それこそ「絶対的な意味」を持つように思われているのは、我々人間がそれらに「意味」を与え続けているからです。その「意味」と何か。それはすなわち、「死」が何であるか説明することです。「死」に「意味」を与えることが「神」と「真理」の「意味」なのです。

  かくのごとく、我々が「死」の「意味」を欲望することが、「神」と「真理」を存在させるとすれば、「神」と「真理」は我々人間の持つ欲望の影にすぎないということでしょう。

 だとしたら、「決してわからない死」を完全に満たす「意味」を与えられるわけがありません。人々の欲望の度合いや性質によって、様々な「意味」が案出され、「神」の教えや「真理」として語られるに過ぎないからです。

 したがって、「死」の「無意味」の「絶対性」に対して、「神」や「真理」の「意味」は常に相対的であらざるをえません。人が「死」に与えようのない「意味」を、「神」や「真理」に与えたとき、つまり、「神」と「真理」が「無意味」でなくなったとき、それらは「絶対性」を喪失してしまうのです。

 一方が、「無意味さ」において「絶対的」に現前するとき、「意味」を持たされた他方の現前は、はるかに強度が低くなる、ということでしょう。

追記:次回「仏教・私流」は5月30日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

 


「終活」ファンタジー

2014年04月10日 | インポート

「就活」「婚活」という言葉に続いて、このところ「終活」なる言葉が流行っています。最初の二つは「就職活動」「結婚活動」の略語でしょうから、「終活」はてっきり「臨終活動」だと思っていたら、これは略語ではなく、死をめぐる準備活動全体の意味のようです。こんな言葉が流行る前から、ひとは職に就き、夫婦となり、死んでいきました。なぜ今さら、「活動」が要るのでしょう。

 一つは、就職・結婚・臨終が以前と比べて著しく困難になったことです。

 経済と人口が拡大を続け、それなりに地域社会に活力が残っていたバブル期までの経済成長時代なら、就職口も、出会いの機会も多く、また、就職・結婚・臨終などの「人生の節目」には、地域や職場の「世話焼き」的人物がいて、時期がくれば、それなりにカタをつけていました。そういう社会状況が今や失われてしまっているのです。

  二つ目は、「世話焼き」がいなくなったと同時に、これら「人生の節目」は「自己責任」の問題だと思われる、あるいは思わせられるようになったことです。だから、就職・結婚・終活は急速に商品化・市場化したのです。

 困難な問題が「自己責任」だとすれば、それを「助ける」ことが商売になるのは当然です。しかも、一度商品化されれば、市場は「人生の節目」をいつまでも「自己責任」状態に固定する圧力を人々の意識にかけ続けるのです(長く商売したいから)。

  しかし、人のすることには何事につけ完全に「自己責任」と言えることは無いとはいえ、これら「人生の節目」は、あからさまに「自己責任」にすることは無理です。全部「相手」のある話だからです。ひとは就職させてもらい、結婚してもらえ、死なせてもらえない限り、それが「人生の節目」にはなりえません。

 中でも「終活」は、そもそも「責任」が取れません。「就活」する人も「婚活」する人も、その「結果」に相応の責任を負いますが、「終活」した人は「結果」が出たとき、いないからです。人は臨終状態では意識が無いか無いに等しく、死は経験主体がいなくなるから「死」なのです。

  したがって、市場化した「終活」は、臨終とも死とも関係ありません。これらは経済活動の対象にならないのです。「終活」が取り扱う「商品」は、臨終でも死でもなく、それらをめぐる、生きている人間の「ファンタジー」です。

「終活」がファンタジーであることは、いわゆる「終活フェア」などというイベント会場に行くと、しばしば「棺桶」に入る「体験」コーナーなんぞがあることに、典型的に、かつ戯画的に示されます。本番の「入棺」が「体験」になり、「寝心地」が味わえたら大変です。

 こういう馬鹿げた出し物が特に疑問も持たれず登場するのは、それが「死」と無関係だからです。もちろん「死後」に自意識が残る可能性は絶無ではありません。しかし「入棺体験」は「生きている人間」の意識構造と経験可能性を前提にした話で、それなら基本的には「死後」も「生きている人間」と変わりません。

  結局、「終活」は明瞭な自意識を持って生きている人間の取引対象であって、孤独で過酷な臨終の状況(私の見る限り、どれほど「環境」がよくても、臨終は孤独で過酷です。寝ている間に死んでしまえば違うかもしれませんが)とも、生きている間はわけのわからない「死」という観念(「死」は経験ではない)とも、まるで無縁です。

  ということは、普通に生きている人間の「終活」の結果は、当事者ではない他人に丸投げされるわけで、ならば、「終活当事者」は、余計なことは言わずに、全部おまかせしたほうがよいでしょう。遺言だろうがリビングウィルだろうが「自分らしい葬式」だろうが、その実現は他人の問題です。妙にこだわられたら、後始末が大変です。よく「遺産相続でモメないように」とやたら細かく遺言する人がいますが、「元気なとき」にモメるような親族関係しか作れなかったことが問題なのであって、いまさら慌てて「遺言」しても、さらなる「モメごと」の種になりかねません(それほど心配なら、全部使って死ねばよい)。

  思うに、大切なのは「終活」ではありません。これは所詮、「他人ごと」です。そうではなくて、「死ぬ本人」に必要なのは、まさに文字通りの臨終のときをにらんだ、「臨終対策」です。こちらは商品化不可能です。しかし、今や決定的に重要です。

「臨終対策」の眼目は、本人に意識が残る間なら、どの時期で「延命治療」を打ち切るか、意識消失以後なら、誰が打ち切り判断をするのか、この二点に関して、事前に本人と家族・親族間の合意形成をきちんと行っておくことです(ここでモメると臨終は非常に難儀です)。

「死後の自意識=霊魂」の実在を確信しているなら別ですが、そうでなければ、この「臨終対策」以上に、死に際して重要な「活動」はありません。そして、「臨終対策」が無事すむような人間関係が既にできているなら、なにも「終活」などと無暗にテンションを上げなくても、それなりの「ご臨終」と後始末ができるでしょう。

「終活」によって、むしろ「人生が充実する」という類の宣伝文句を見ましたが、それは「生命保険で安心を買う」のと同じことで、その「安心」程度の「充実」が買えるという意味だろうと、私は思います。

追記:次回「仏教・私流」は4月18日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。