恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

他人力

2014年02月20日 | インポート

 最近、「〇〇力」とか「〇〇する力」というようなタイトルの書物を妙に沢山見かけるような気がします。中にはおよそ「力」と称するには無理のあるようなタイトルもあります。いったいこの「力信仰」はどういうわけなのでしょう。

 そういえば、もう一つ流行しているのが、いわゆる「自己啓発セミナー」と「自己啓発本」です。

 最近仄聞したのですが、かねて私は、「自己啓発」関連のビジネスは、「悩んでいる人」あるいは「苦しい人」向けのものだろうと思っていました。

 ところが、今や実際にはそうではなく、「普通の人々」が「もっと成功するため」「もっともうけるため」の「自己啓発」なのだそうです。

 とすると、昨今の事情は、巷で多くの人が「もっと成功するため」「もっともうけるため」の「力」を求めている、ということでしょう。で、「力」という以上は、「自己」に内在しているはずだから、それを本やセミナーで「啓発」しようというわけでしょう。

 私はここで本やセミナーの良し悪しを言うつもりはありません。言いたいのは、この種の「自己啓発」には錯覚があるということです。それはつまり、「力」は「自己」に内在しない、ということです。

 「自己」の実存は、「他者」によって立ち上げられ・呼びかけられて、始まります。その存在の仕方は基本的に受け身なのです。「力」が働くのは、この実存の場なのであり、それ自体で存在すると錯覚されている「自己」の内部ではありません。

 「自己」の「力」は常に、「他者」によって触発されて駆動し、「他者」に送り返されて作用するのです。というよりむしろ、そのような「他者」との関係のダイナミズムこそが、「自己」と「他者」を生成していくのだと言えるでしょう(競技者が1人のスポーツは成り立たず、そこに「スポーツの力」はありえません)。

 思うに、「力」が効果的に「啓発」されるとすれば、それは「力」が「自己」ではない誰のために、どのように役に立つのかを考えたときです。


詐欺と虚構と自己

2014年02月10日 | インポート

 最近、「現代のベートーベン」と称されていたらしい、「全聾の作曲家」なる人物の核心部分、つまり「全聾」と「作曲」が嘘ではないかという話題が大々的に報道されました。

 そうだとすると、この一件は以前、「アメリカの空軍将校」で、かつ「ハワイ王家の末裔」だと騙って結婚詐欺を繰り返した、「クヒオ大佐」事件以来の「大ネタ」でしょう。公共放送や音楽業界を巻き込むスケールの大きさからして、「クヒオ大佐」を凌いでいます。

 この種の「詐欺」、あるいは「詐欺的行為」は、話が荒唐無稽であればあるほど、成功しやすいものです。なぜなら一般人は、目の前の人物が自分の想像を超えるほど恥知らずな「大嘘」をストレートの吐くとは、まず考えないからです(「嘘を吐くときには大きな嘘を吐け」ということを、あのヒトラーも言っています)。

 それにしても、なぜ我々はこれほどまんまと騙されるのでしょう。と同時に、騙す当人はなぜこれほど破廉恥な嘘が吐けるのでしょう。

 よく「面の皮が厚い」という言い方をしますが、この言い方は「皮」とは別に「本体」があることを前提にしています。すると、「騙す」とは、「本体」が、それとは別の「皮」を提示して「本体」を隠す術だということになります。他方、騙されるとは、「皮」しか見えない、見ていない状態でしょう。

 ところが、、この「本体」と「皮」の区別は幻想にすぎません。もともと「本体」と「皮」がそれ自体としてあったわけではないのです。なぜなら、例の「ゴーストライター」が名乗り出るまでは、「全聾の作曲家」は、間違いなく、正真正銘「全聾の作曲家」だったからです。それ以外の「本体」はどこにもなく、剥がれる「皮」もありません。したがって、彼はこの時点で、何ら破廉恥ではありません。破廉恥でないから、あれほど「堂々と」破廉恥な嘘を吐けるわけです。

 言い換えれば、本人と周りの他人が一緒に信じている「嘘」は、まさにそれが「本当のこと」なのです。だったら、恥じるわけがないでしょう。

 我々が「騙し」「騙され」得るのは、我々の「自己」という実存様式が、もともと物語的な構造を持つから、すなわち虚構として成り立っているからです。

 「自分である」あるとは、ある実存がそのものを「自己として」物語る行為なのであり、同時にそれ以外の「他者」が、この物語を受け容れて語り直し、当の実存に「自己」を与え直すことです。

 すなわち、「自己」である当事者と、彼以外の「他者」によって、「自己として物語られたこと」、二つの物語の一致が、「自己」なのです。

「騙し」「騙され」現象は、この当事者による物語と「他者」による物語が、なんらかの事情によって分裂したときに発生します。「本体」からそれとは別の「物語」が剥落するのではなく、同じ「物語」の乖離です。

 しかも、この乖離が起きたとしても、「他者」の物語の強度が高ければ、当事者の「自己」物語は「詐欺」になりますが、もし当事者の物語の強度が圧倒すれば、圧倒している間は、まさにそういう「本当のこと」があるわけです。

 我々が「騙される」のは、「嘘」を聞かされて騙されているからではありません。そうではなくて、「本当のこと」を聞かされて、「本当のこと」に自分でしている(物語っている)からです(ある種の「信仰」の危険はここにあります)。

 ということは、「嘘」がバレて、「本当」のことが「出てくる」のではありません。「本当のこと」がバレて、「嘘」に「なる」のです。

追記:次回講座「仏教・私流」は、2月27日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。