最近、「〇〇力」とか「〇〇する力」というようなタイトルの書物を妙に沢山見かけるような気がします。中にはおよそ「力」と称するには無理のあるようなタイトルもあります。いったいこの「力信仰」はどういうわけなのでしょう。
そういえば、もう一つ流行しているのが、いわゆる「自己啓発セミナー」と「自己啓発本」です。
最近仄聞したのですが、かねて私は、「自己啓発」関連のビジネスは、「悩んでいる人」あるいは「苦しい人」向けのものだろうと思っていました。
ところが、今や実際にはそうではなく、「普通の人々」が「もっと成功するため」「もっともうけるため」の「自己啓発」なのだそうです。
とすると、昨今の事情は、巷で多くの人が「もっと成功するため」「もっともうけるため」の「力」を求めている、ということでしょう。で、「力」という以上は、「自己」に内在しているはずだから、それを本やセミナーで「啓発」しようというわけでしょう。
私はここで本やセミナーの良し悪しを言うつもりはありません。言いたいのは、この種の「自己啓発」には錯覚があるということです。それはつまり、「力」は「自己」に内在しない、ということです。
「自己」の実存は、「他者」によって立ち上げられ・呼びかけられて、始まります。その存在の仕方は基本的に受け身なのです。「力」が働くのは、この実存の場なのであり、それ自体で存在すると錯覚されている「自己」の内部ではありません。
「自己」の「力」は常に、「他者」によって触発されて駆動し、「他者」に送り返されて作用するのです。というよりむしろ、そのような「他者」との関係のダイナミズムこそが、「自己」と「他者」を生成していくのだと言えるでしょう(競技者が1人のスポーツは成り立たず、そこに「スポーツの力」はありえません)。
思うに、「力」が効果的に「啓発」されるとすれば、それは「力」が「自己」ではない誰のために、どのように役に立つのかを考えたときです。