恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ゆるいご縁

2013年06月30日 | インポート

 最近続けて、家族や親しい友人が自死されてしまったという方々とお話をしました。当然のことながら悲しみは深く、とりわけ、ついひと月前に娘さんを失われたご夫婦の嘆きなどは、しばらく言葉をかけるのもためらわれるほどでした。

 そういった遺された方々の悲嘆は無論のことですが、それよりもさらに大きなダメージになっているように思われたのは、「家族なのに」「友だちなのに」悩みを聞いてあげられなかった、力になれなかったという自責の念と、同時に、「家族なのに」「友だちなのに」、苦しみを打ち明けてもらえなかったという無念さでした。

 私は、その思いの切なさ悲しさは、察することしかできません。したがって、所詮は「傍観者」にすぎないでしょう。が、しかし、お話を聞かせていただいた者として、あえて言うならば、遺された方々は、「家族なのに」「友だちなのに」力になれなかったのではなく、むしろ「家族だから」「友達だから」力になれなかったケースが多々あるだろう、という気がします。あるいは、自死した人は、「家族だから」「友達だから」何も話さなかったのだと思います。

 それは、直接的な思いとしては、「家族に心配をかけたくない」から、あるいは「友達に迷惑をかけたくない」からだったのかもしれません。周囲がそう思うのも当然でしょう。

  ただ、私は何人かの自死未遂者のお話を聞いたときにもそうだったのですが、「心配をかけたくない」「迷惑をかけたくない」という言葉の後ろに、彼らの「プライド」を感じるのです。

 
  この場合の「プライド」とは、それまで築き上げ、育て上げてきた家族関係や友人関係が作り出したお互いの「立場」を大切に思う気持ち、とでも呼ぶべきものです。

  だとすると、それが大切であればあるほど、そこに自分の抱えている問題を持ち込み、関係に変調をきたしたり、あるいはそれを破壊してしまうような事態は避けたいでしょう。なぜならそれは、それまで自分が存在してきた意味や価値の根底を否定することになるからです。まさにそれは「死ぬよりつらい」ことになるはずです。

  ということはつまり、時として、自死に傾く人に「固い絆」が役に立たない場合があるのではないでしょうか。その固さと強さゆえに、問題を持ち込む余地が狭いわけです。

  私が思うに、こういう時に効果のあるのは、むしろ「ゆるくて淡い関係」です。お互いに信頼し合っているものの、そこそこの距離があり、そう頻繁に会うわけでもなく、利害関係や損得の勘定にとらわれない付き合いです。

  おそらく、そういう間柄のほうが、問題は持ち出しやすく、当事者の適当な距離感が、アドバイスをするにしても、それを聞くにしても、ある種の冷静さを担保できると思います。

  問題は、そういう「ゆるくて淡い関係」を作るには、実際には時間がかかることです。ゆるくて淡い縁でも信頼が生まれるとすれば、それは長い付き合いの中においてです。要するに、「ゆるくて淡くて長い関係」が大事なのです。

  おそらく、かつては、その役割を寺の和尚や横町のご隠居が果たしていたのでしょう。「男はつらいよ」の映画に出てくる、「御前さま」と「寅さん」一家のような関係は、以前はもっと当たり前に見られたのではないでしょうか。

  本来なら僧侶の重要な役目でしょうが、何も宗教者である必要はありません。誰とでもよいのですが、家族や親しい友人以外の「ゆるくて淡くて長い関係」を、身の上に何事もない早いうちから少しずつ育てていく手間が、実は人が生きていく上でとても大切ではないかと、いま私は切に考えています。

追記:次回「仏教・私流」は、7月・8月は休止して、9月30日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


お見それしました

2013年06月20日 | インポート

▼9歳男子

 住職がなんとなく、「どう、最近、学校は?」

「やっぱさあ、つきあいが大変でさあ・・・」

※ そ、そうですかあ・・・。

▼4歳女子

 読経が終わり、お母さんからお布施を渡され、「和尚さんにあげて。ありがとうって、言うのよ」

「和尚さん、ありがとう。はい、お給料!」

※ こちらこそ、ありがとうございます!

▼6歳男子

 友達と下校の途中、住職とすれ違い、「方丈さーん!バイバーイ!!」と元気いっぱいのご挨拶。直後に友達を見て、

「ウチの方丈さんやぞ! えらいんやぞ!! なんでか知らんけど」

※ 恐縮です! 精進します!

▼8歳女子

 母親がお茶の準備に行った隙に、

「方丈さん、ママがね、方丈さんが来たら勉強するように叱ってもらうって。方丈さん、ちっちゃいころ、そんなに勉強したの?」

※ とんでもないです! 

追記: お尋ねがありましたので、申し上げます。東京赤坂・豊川稲荷別院で行っております講義「仏教・私流」は、開始時間までに来ていただくだけのことで、予約も何もございません。なお、参加費は無料です。


番外:ご注意ください

2013年06月18日 | インポート

 最近、ネット上に私の経歴がいくつか出ているようですが、その中に誤りがあります。

「大本山永平寺において出家得度」とありますが、正しくは「曹洞宗にて出家得度、大本山永平寺入門」です。

「永平寺で出家得度」とは、永平寺の貫首である禅師猊下が永平寺で誰かを得度して出家させたという意味になり、その昔はいざ知らず、私が実際に知る限りでは一例もありません(制度上不可能ということでもないと思います)。どうぞ誤解なきよう。

 私は長野県の曹洞宗寺院住職を師匠として1984年に得度し、同じ年に永平寺に入門しました。

 以上、訂正いたします。なお、この記事へのコメントは削除させていただきます。


「理念」の毒

2013年06月10日 | インポート

 「独裁」であれ「体罰」「いじめ」であれ、または「カルト」であれ、ある集団において、少数の者が多数の者を圧倒的に支配するためには、いくつかの要件があります。

 一つは、集団が閉鎖されていること。そうでないと、外部からの干渉を受けて、支配ー被支配の関係が安定しません。

 二つ目には、支配者側が暴力を実際に動員できるか、あるいは、動員できると被支配者側に信じさせること。「圧倒的」支配は、顕在的であれ潜在的であれ、暴力の恐怖がない限り、持続しません。

 三つ目は、被支配者側が分断されていること。支配者によって行われる、被支配者の服従レベルに応じた利益誘導や供与によって、被支配者側を階層化し、結束して対抗できないようにするためです。

 四つ目は、支配者側が、支配によって一定の具体的利益(金品・地位・心身の保護安全など)を受け続けることです(もちろん、それは被支配者側の犠牲に基づきます)。このことが、「異常な支配」を支配者側から終わらせることのできない大きな理由です。

 最後に、そして決定的に重要な条件は、支配者側が「自分たちのしていることは正しい」と信じることができ、被支配者側が「この支配は仕方がない」と諦めてしまうような、一貫した理屈を用意することです。

 この理屈がなければ、支配者側は自分たちが行っていることが犯罪か、犯罪に等しいことなのだと、すぐにわかってしまいます。同時に、被支配者側にとっては、反抗こそが「正義」ということになり、あっという間に集団の支配ー被支配の関係は崩壊してしまいます。

 ということは、社会集団における「圧倒的支配」という現象を防ぐには、その集団の形成当初から機能している、集団の「目的」や「基本理念」(=「一貫した理屈」)を、特定の条件下でしか正当化されえない、常に賞味期限のある、暫定的アイデアなのだと、メンバーが自覚していることこそ、特に必要でしょう。

 ただし問題は、この自覚がないからこそ、「強力な」集団を構成できるということです。しばしば、「圧倒的な支配」が行き渡っている集団こそ、「強力」なのです。

 したがって、「圧倒的支配」を忌避するならば、我々としては手始めに、「強力な集団」を望む自分たちの心的傾向そのものを相対化する努力をすべきでしょう。それはつまり、「強力」の意味を根本から問い直すことなのです。

追記:次回「仏教・私流」は、6月26日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。