最近続けて、家族や親しい友人が自死されてしまったという方々とお話をしました。当然のことながら悲しみは深く、とりわけ、ついひと月前に娘さんを失われたご夫婦の嘆きなどは、しばらく言葉をかけるのもためらわれるほどでした。
そういった遺された方々の悲嘆は無論のことですが、それよりもさらに大きなダメージになっているように思われたのは、「家族なのに」「友だちなのに」悩みを聞いてあげられなかった、力になれなかったという自責の念と、同時に、「家族なのに」「友だちなのに」、苦しみを打ち明けてもらえなかったという無念さでした。
私は、その思いの切なさ悲しさは、察することしかできません。したがって、所詮は「傍観者」にすぎないでしょう。が、しかし、お話を聞かせていただいた者として、あえて言うならば、遺された方々は、「家族なのに」「友だちなのに」力になれなかったのではなく、むしろ「家族だから」「友達だから」力になれなかったケースが多々あるだろう、という気がします。あるいは、自死した人は、「家族だから」「友達だから」何も話さなかったのだと思います。
それは、直接的な思いとしては、「家族に心配をかけたくない」から、あるいは「友達に迷惑をかけたくない」からだったのかもしれません。周囲がそう思うのも当然でしょう。
ただ、私は何人かの自死未遂者のお話を聞いたときにもそうだったのですが、「心配をかけたくない」「迷惑をかけたくない」という言葉の後ろに、彼らの「プライド」を感じるのです。
この場合の「プライド」とは、それまで築き上げ、育て上げてきた家族関係や友人関係が作り出したお互いの「立場」を大切に思う気持ち、とでも呼ぶべきものです。
だとすると、それが大切であればあるほど、そこに自分の抱えている問題を持ち込み、関係に変調をきたしたり、あるいはそれを破壊してしまうような事態は避けたいでしょう。なぜならそれは、それまで自分が存在してきた意味や価値の根底を否定することになるからです。まさにそれは「死ぬよりつらい」ことになるはずです。
ということはつまり、時として、自死に傾く人に「固い絆」が役に立たない場合があるのではないでしょうか。その固さと強さゆえに、問題を持ち込む余地が狭いわけです。
私が思うに、こういう時に効果のあるのは、むしろ「ゆるくて淡い関係」です。お互いに信頼し合っているものの、そこそこの距離があり、そう頻繁に会うわけでもなく、利害関係や損得の勘定にとらわれない付き合いです。
おそらく、そういう間柄のほうが、問題は持ち出しやすく、当事者の適当な距離感が、アドバイスをするにしても、それを聞くにしても、ある種の冷静さを担保できると思います。
問題は、そういう「ゆるくて淡い関係」を作るには、実際には時間がかかることです。ゆるくて淡い縁でも信頼が生まれるとすれば、それは長い付き合いの中においてです。要するに、「ゆるくて淡くて長い関係」が大事なのです。
おそらく、かつては、その役割を寺の和尚や横町のご隠居が果たしていたのでしょう。「男はつらいよ」の映画に出てくる、「御前さま」と「寅さん」一家のような関係は、以前はもっと当たり前に見られたのではないでしょうか。
本来なら僧侶の重要な役目でしょうが、何も宗教者である必要はありません。誰とでもよいのですが、家族や親しい友人以外の「ゆるくて淡くて長い関係」を、身の上に何事もない早いうちから少しずつ育てていく手間が、実は人が生きていく上でとても大切ではないかと、いま私は切に考えています。
追記:次回「仏教・私流」は、7月・8月は休止して、9月30日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。