恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

果てしなく遠い道

2019年04月30日 | 日記
 こういう有名な禅問答があります。ある老師が弟子たちに問いかけました。

「15日までのことはもういい。15日から後はどうだ? 一言、言ってみなさい」

 弟子たちが返答できず押し黙っていると、老師は自ら彼らに代わって言いました。

「毎日よい日だな(日日是好日)」


 この禅問答の解釈も様々で、日々の良しあしなどという妄想を捨て、今この時限りを懸命に生きる、ありのままの姿こそ、釈尊の悟りなのだ、というような解説がよくなされます。

 ですが、私はこう考えます。

「15日」とは「悟り」の言い換えです。ですから、最初の老師の問いは、「悟る前はもうよい。悟ったらどうなるのか言ってみろ」ということなのです。

 この問いに自ら答えた老師の言い分は、毎日が好い日なら、「好い」「悪い」を区別する意味がなくなる、ということです。

 これを「悟り」で言うとこうなるでしょう。

 もし悟ったらどうなるか言えるなら、それは悟りの状態と悟りでない状態の区別がつき、悟りを言語化できるということと同然です。 すると「悟り」はただの概念ということになり、結局ものは言い様、悟りも言い様ということにしかなりません。

 そんな悟りに意味はない。そもそも悟りの前と後に違いなどない。そうではなくて、悟ろうと悟るまいと仏道修行を続けること、またそれを毎日続けられることの僥倖を深く感じられること、そういう営み自体が悟りなのだと、老師は言いたいのです。

 翻って思えば、新元号発表で発火したマスコミや商売人あげての改元騒動も、いよいよ大詰めです。それにしても、要はただ1日が過ぎるだけのことに、多少の感慨はともかく、実際どれだけの人が深刻な意味を感じているというのでしょう。

 ただし、私はこの度退位される明仁天皇については、いささか心中察するものがあります。それは去年から今年にかけての二つの公式発言を聞いたからです。

 まず、昨年末の誕生日前の会見。

「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」

 続いて在位30年記念式典での言葉。

「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」

 私はこれらの言葉を聞いたとき、我々、特に戦後生まれの人間にとって、ほとんど自明のことであった戦争のない日常と象徴天皇の制度が、彼にはまったく自明なことではなく、まさに切なる祈りと苦難に満ちた模索によって、日々確かめられ、創造されなければならないものだったのだと、初めて思い至りました。

 ならば、それは、おそらく改元で終わりはしないでしょう。平成に戦争がなかったとしても、令和はどうなるかと、上皇としてまた、案じ続けるでしょう。そして、象徴天皇のあるべき姿を後継者に託しながら、自身もまた、象徴天皇制下で初の上皇の在り方を、模索することになる筈です。

 宿命の下に生まれたある人間の、これまでの想像しがたい努力と忍耐に深く敬意を表しつつ、彼の「日日是好日」は、やはり「果てしなく遠い道」の上にしかありえないのだろうと、私は思うのです。

 と、同時に、今回の譲位・退位が改めて目に見えるものとした、現憲法の「国民主権」や「基本的人権の尊重」という理念と、象徴天皇制との間に厳然と存在する懸隔をこの先どのように考え、あるいは埋めていくかという問題に、我々もまた直面せざるを得ないでしょう。


今後の問題

2019年04月20日 | 日記
 今後の科学技術の発展が宗教にもたらすかもしれない影響で、私が深刻だと思うことをとりあえず三つ。

一、平均寿命が100歳を超える。
 
 すると、一人の人間のアイデンティティーを何が支えていくのかが、重要な問題になるでしょう。近代以降の人間のように単一の職業で支えるわけにもいかず、家族や共同体の形式や構成メンバーがずっと不変であることも考えにくい。となると、「自分が何者なのか」という問いをどう引き受けるかは大問題です。

 このとき、飽きなければずっと好きでいられる趣味や遊び、その気ならずっと信じていられる宗教などがアイデンティティーの重要な構成要素になるかもしれません。すると、従来では考えられないような競争や対立が社会に噴出するかもしれません。

二、特定の意識を別の生体に移植(たとえば脳移植)したり、コンピューター・チップへのコピーが可能になる。

 これは自意識の永続と同義であり、「不死」の実現も同然です。すると「死」は個々の人間(自意識)の選択の結果となり、「人は誰でも必ず死ぬ」という前提が崩れ、新たな死と生の意味付けが要請され、宗教はこれまでとはまったく違う教説を案出しなければならないでしょう。

 たとえば、「死の克服」という文脈ではなく、「生の始末」というようなパースペクティブで、宗教は我々の実存を考えざるを得ないかもしれません。

三、ネット技術で個々の意識がダイレクトに結合する。

 それは人間の実存が「自己」という様式から変容することであり、インパクトは宗教のみにとどまらない話です。

 ただ、あえて宗教に関して言えば、「自己」の実存を問う所謂「普遍宗教」が無意味化し、デジタル空間に新たな「アニミズム」が生まれてくるかもしれません。いや、それさえも無くなり、「宗教」も「人間」もついに解消し、まったく異なるデジタル的実存に変貌するのでしょうか。

 ところで、これらは本当に「深刻」なことなのか?

死ぬ練習

2019年04月10日 | 日記
 プラトンには『パイドン』という著作があり、刑死直前のソクラテスが弟子たちと死、あるいは魂の不死をテーマに問答を交わすという話が展開されています。

 そこでソクラテスが語る死は、要するに魂が肉体から分離するという、単純な二元論を前提にしていて、さして芸もなく珍しくもない解釈です。

 その上、欲望に汚染されない純粋な魂は、神々と共に住むような、理想的あるいはイデア的世界に行き、欲望や快楽に塗れた魂は、最終的に獣になるなどと説く部分もあります。このアイデアは、数学で有名なピタゴラス学派が唱導していたギリシャ版輪廻転生説の影響と言われています。

 初めてこれを読んだのは、大学生の頃で、なんだか無邪気な話をしてるなあと思い、急速にソクラテスに興味が失せた記憶があります。ただ、この本でソクラテスが「真の哲学者は死ぬ練習をしている」という意味の発言をしていて、これは後々まで妙に記憶に残りました。

 意味としては、哲学者は純粋な魂の世界、イデア的世界の探究者であるべきなのだから、それは死後の魂の行き先を予め思索することに他ならず、いわば死ぬ練習をしているのだ・・・、と言いたいわけでしょう。

 しかし、考えてみれば、魂は不死だと言うのだから、彼の言説からは死は根本的に排除されているわけで、それで「死ぬ練習」などと言っても、大きく的が外れている感じが否めません。

 当時、それなりに仏教書に取り組み始めていた私は、この「死ぬ練習」という言葉が、むしろ仏教にふさわしいような気がしました。その後出家してずいぶん経ってから、「あんたは小難しいことばかり言うけど、どうだ、仏さんの教えを一言で言えんか?」と挑発された時、ふいに思い出して「死ぬ練習ですよ」と言ったことがあります。

 仏教の究極の目標はニルヴァーナで、それは経験的現象としてはブッダとしての死でしょう(『大パリニッパーナ経』という経典のテーマはまさにゴータマ・ブッダの死)。

 そのニルヴァーナを語っていると思われるブッダの言葉で、私が最もリアルに感じるのは、『スッタニパータ』の1076経です。

「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである」

 これは要するに、「死は絶対的にわからない」と言っているわけです(「あらゆる論議の道はすっかり絶えて」いるのだから」)。

 とすると、「絶対的にわからないことを練習する」などということは、所詮無理な注文で、矛盾そのものです。

 しかし、この矛盾にあえて賭けることが仏教の本領であり、ソクラテスのナイーブな「練習」説とはわけが違う話だと、私は思います。

 そういうわけで今、「死ぬ練習」というアイデアをフレームにして仏教を語るとどうなるだろうかと、あらためて、漠然と、考えています。