恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

年末の妄想

2008年12月30日 | インポート

 私には昔から、偶然、何かをきっかけに突如として妄想が爆発することがあります。 最近、たまたまテレビをつけたときに見た映像で、ひさしぶりに爆発が起こりました。

 テレビには Perfume という若い女性3人のユニットが現れ、「ポリリズム」という非常に印象的なダンスをともなうテクノポップ(と言うのでしょうか)音楽が流れ出してきたのです。

 すでに大ヒットしている曲らしいのですが、私はそのとき初めて聴き、釘付けになりました。まるで曲が点火したように、あるイメージが鮮明に見えてきたのです。

 それは、おそらく生きのびるために機械化することを受け容れた人間が、指先から銀色に輝きつつ急速にメタル化していく自分の体を見つめながら、薄れていく意識の中で恋人の姿を思い出しているという、まるでB級SF映画の1シーンのような映像です。

 私は、あの曲が、社会のシステムとメカニズムの中で断片化する我々が、ほとんど絶望しながらも、そのシステムとメカニズムに媒介されてなお、他人とのつながりを手探りし、そこに希望を託す、とても切ない歌に聞こえるのです。

「キミの想い」は「とても大事」だけれど、それは十分に実現したり報われたりするのではなく、せいぜい「無駄にならない」まま、想いとの関係が定かでないうちに「世界は廻る」わけで、一方「ほんの少し」しかない「僕の気持ち」もただ「巡る」だけか、いつか「キミに伝わる」と「そう信じ」るしかない。

 歌詞にある「ポリリズム」「ポリループ」もれっきとした音楽用語らしいのですが、それよりも、まさに合成されたリズム、加工されてかろうじて繋がっている輪という意味が響いてきます。それはもはや、人工的に操作されたコミュニケーションとして人間の感情や思いを構成するしかない人間の、今後の在り方を暗示しているようにも思えます。

 恋を表現して、ほとんど感情を表す形容詞を使わず、「衝動」「反動」「感動」「行動」と名詞を畳みかけ、唯一形容らしい形容といえば「ああ、プラスチックみたいな恋だ」と言う。このフレーズはとても鋭い。今の時代の華やかな空虚を私に強く感じさせます。

「このポリリズム」を「くり返す」うちに、かつて動物の中から現れてきた<人間>が、そう遠くない未来、デジタル・メカニズムの中に消えていくのではないか。それは地獄なのか楽園なのか。せわしない年末に、無意味な妄想がしばし続いたのでした。

 今年1年、当ブログにお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。よいお年をお迎え下さいますよう、お祈り申し上げます。


生き方と職業

2008年12月20日 | インポート

 私の場合、「出家」というのは、生き方を変えることでした。ということは、「僧侶」という言葉はライフスタイルを意味することになります。以来、ずっとその感覚でやってきました。

 ですから、修行僧になって5、6年たった頃、老僧の海外出張にお供をすることになったとき、提出書類の職業欄に何て書いてよいかわからず、「無職」と書いて出したら、旅行業者の人が、「ここは『僧侶』にしましょう」と言って、その上にさっと斜線を引いたときには、何か侮辱されたような気がしたものです。

 前回述べた呼び方同様、変なこだわりと言えばそれまでなのですが、当時の私の気持ちとしては、サラリーマンが転職するような具合に自分の出家を受け取られることが、実にやるせなかったということでしょう。

 というわけで、後年小なりといえども一寺院の住職となったとき、何が嬉しかったかといえば、いちばん嬉しかったのは職業欄に「住職」と書けることでした。これはタテからみてもヨコからみても、間違いなく職業です。

 そうなるとつまり、私の感覚で言わせれば、僧侶という生き方を選んだ者が、偶々縁あって住職という職業に就いた、というのが本来の順序であり、住職になるために僧侶になるという考え方は本末転倒だ、ということです。

 住職であることは、僧侶の必要条件でも十分条件でもありません。そもそも、釈尊の出家はあらゆる職業を捨てることでもありました。とても職業とはいえない托鉢だけが、僧侶という生き方を支える唯一の術とされたのです。

 時代はうつり、現代の日本では、ほとんどの僧侶は何らかの職業を持たざるをえないところです。このとき、「住職」を勤める者は無論のこと、僧侶たる者は自分の職業を仏教者としてどうとらえるのかが、深く問われなければならないでしょう。その問いにおいて、生き方としての僧侶の志と有り様が示されるのです。

 教師をしながら、あるいはサラリーマンをしながら、懸命にお寺を守る住職もいれば、あえて住職とならず、他に生業を持って僧侶の道を進む者もいます。私は、そういう人たちが夫々の立場で、その立場が結ぶ縁の中で、たゆまず仏法に精進し、一人でも多くの人に具体的な実感をともなうものとして、教えを伝えてくれることを願ってやみません。

追記: 当ブログと関係ない質問があるときはどうしたらよいかというお尋ねがありましたので申し上げます。とりあえず、次の番号にお電話下さると好都合です。0776-41-0316(霊泉寺)、0175-22-3825(恐山・5月から10月まで)、0175-22-1091(円通寺・11月から4月まで)。どの番号も、最初は私以外の者が電話に出る確率が高いです。なお、恐れ入りますが、いきなりメールや手紙をいただいても、基本的に返事は差し上げません。


呼び方がむずかしい

2008年12月09日 | インポート

「先生、と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳がありますが、他人に、特に初対面の人にどう呼びかけたらいいか困った経験は、多くの方にあるでしょう。よくわからないけれど、とりあえず偉そうな人には「先生」と呼んでおけば無難だろうと、我々が「先生」を乱発しがちなところを、冒頭の川柳は皮肉るわけです。だいぶ以前、ホステスさんは太った人は「社長」と、痩せた人は「先生」と呼ぶようにしていると聞いて、苦笑したことを覚えています。

お坊さんも、どう呼びかけたらいいか多くの人が迷う立場にあるようです。私も何度か「どうお呼びすればいいんですか」と言われたことがあります。

 一度、ある人のブログに「今日、南禅師様にお会いした」と書かれて仰天したことがあります。確かに禅僧ですから、一般の人たちから見れば、禅の教師・先達の意味で、「禅師」に間違いないのです。が、これは、現在の曹洞宗の制度では、大本山永平寺と総持寺の貫首(住職)2名にだけ許されている敬称なのです。まかり間違うとただの誤解ではすまない事件になりかねないので、あわてて訂正していただきました。

 禅宗の場合、他によく使われるのは「老師」という言い方です。これも年齢的に老いているという意味よりも、円熟している、指導者として大成している、という意味がこめられていて、必ずしも老人とはいえない禅僧にも使われる場合があります。私も40歳前から、若い修行僧にそう言われ始め、そのたび「お前、おれが老いて見えるか!」と怒鳴ってやめさせていました。これも本来、むやみに使うべき敬称ではないでしょう。ただ、50になった最近は、自分の若い頃だって、50歳の禅僧に対して他に無難な言いようがなかったなと思い直し、若い者にそう呼ばれたときは、かろうじて聞こえるくらいの声で返事をしています。

 言われて嬉しいというか、こころ安らかでいられるのは、私の場合は「方丈さん」と呼ばれたときです。この「方丈」とは禅寺の住職の書斎・居室のことで、一丈四方の部屋という意味です。これを敬称として使うわけで、私が住職する寺の檀家はそう呼びますし、改まった場では「南方丈」と呼びかけてきます。この言い方が一番好きです。ただし、住職以外の僧侶に使えないのが難点です。その点、「和尚」はいいですね。これはもともと「師」を意味するサンスクリット語を漢語で音写した言葉です。小さい子供などに「和尚さん」と呼ばれるとほっとします。

 禅宗以外の宗派にも様々な敬称があり、それを聞き覚えている人からは、いろいろな呼ばれ方をしました。ただ、いきなり「御前(ごぜん)」と言われたときは、「男はつらいよ」じゃあるまいしと思ったし、「お上人さん」と呼ばれると、念仏や真言とは宗旨が違うんだがと独りごちたりします。

 それほど気にするようなことでもないのでしょうが、相手が気を使っている様子がわかると、どうもこちらの方も意識過剰になってしまうようです。というわけで、単純に「南さん」と読んでいただくのが、やっぱり気楽でよいですね。

追記:「アエラ」の記事は、雑誌の事情で、来年に掲載が延期されたそうです。あしからず。