恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

大失言2

2015年10月30日 | 日記
 以前、当ブログで、私が某道場での修行僧時代に仕出かした失言の話を書きました。

 修行強化期間中の「絶対権力者」(としか、後輩には見えなかったでしょう)としてテンションが絶頂に達していた私は、強化期間初日に、期間中は肺炎になるか骨折をしない限り、誰も外には出さないと豪語した直後、あろうことか自分が足の指を骨折したという、御粗末な一席でした。

 この骨折事件から2か月後、暑い盛りの7月末、全山の草取り作務(さむ:修行として行う労働)がありました。

 例によって修行僧は山門前に集合。私は、暑さで気が緩むとまずいと思い、一発気合を入れてやろうと、皆を睥睨して開口一番、

「いいかァ!!」

「ハイ!!」(一挙に高まる緊張)

「お山の草取り作務は世間の草取りとはちがーう!」

「ハイ!」

「お山の草取りとはァ・・・」

(3秒くらいの間)

「砂漠にすることだ!!!」

(全員、無言)

「草一本残すな! 容赦なく根絶やしにしろ!!!」

(「サバク・・・」のつぶやき少々)

「わかったかあ!!」

「ハイ!!」(全員、大声)

「声が小さい! わかったかああ!!!」

「ハイ!!!」(全員、絶叫)

「始めーっ!」

 修行僧がいっせいに走り出し、散って行きました。と、そこに伝令が来て、某老師が急用だと言いました。本当に急ぎの要件だというので、私はしばらく持ち場を離れ、用事を片づけに行きました。

 30分ほどして用が済み、作務に戻ろうと階段を小走りに降りていくと、何やら修行僧がひとり、駆け上がってきます。

「書記おっさん!」(「書記」は当時の役職名)

「どうした?」

「植木も切るんですよね!?」(明るく澄んだ修行僧の眼)

「何のことだ?」

「ハイ、サバクにするわけですから、切らないと。でも、一応訊いて来いと・・・」

「ちょっと待てえ!」

 私は走り出しました。山門に駆けつけると、びっくり仰天、唖然、呆然。

 杉の巨木がそびえたつ山門前を覆う瑞々しい苔が、ほとんど剥ぎ取られています。さらに、時代を感じさせるあちこちの植木の周りに、ノコギリを片手にした修行僧が数人立っていて、

「あ、書記おっさん、もうすぐサバクにできますから」

「ちがーう!! ダメだダメ!! 中止ーーーーっ!!!」

 私の必死の叫びに驚いて、全員が作業を止めて立ち上がりました。

「何してるんだよお・・・・!」

「は? サバクにするんで・・・」

「コケはどうした? コケは!?!」

「捨てました」(当たり前だろう、という表情)

「取ってこーい! もどせーーっ!!」

 突然風向きが変わって、今度は修行僧がびっくり。私も廃棄場所にとんでいって、一緒に苔を拾い集めて持ち帰り、剥ぎ取った苔を総がかりで、まるでパズルのように組み合わせ、剥き出しの地面を覆いました。

 それから営繕を担当する部署のリーダーになっていた同期の友人のところに駆け込み、文字通り拝み倒しました。

「たのむ!! コケ、全部剥がしちゃったんだ。いま戻したから、明日から水遣りと手入れをして、なんとか根付かせてくれ!!」

「直哉、お前なあ・・・」

「だって、喩えだよお、喩え! ほんとにサバクにするなんて思わないじゃん。冗談が通じなかったんだよお!」

 すると友人は冷たくひと言。

「あのなあ、それが冗談かどうかを決めるのは、言ったお前じゃなくて、言われた方!」

 特定のイデオロギー(「書記おっさんの命令は絶対」)が、生活まるごとの中に叩き込まれるとどうなるかという、身に染みた教訓でした。

どこで、存在しなくなるのか

2015年10月20日 | 日記
 パーリ経典に、次のようなゴータ・ブッダの言葉が出てきます。

「〈どこで、水、地、火、風は足場をなくすのか(存在しなくなるのか)。どこで、長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場なくすのか〕。どこで、名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅するのか。
 
ここにその解答がある。

 定義づけられない、限定のない意識(識)を完全に捨てる場合。ここに水、地、火、風は足場をもつことはない。ここに長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場をもつことはない〕。ここに名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅する。意識の消滅によって、これ(名称と形態)が消滅する」(長部経典)


 経典では、「水、地、火、風」は「四種の基本要素(四大)」と呼ばれ、当時の思想では、物理的存在の根拠となる元素として考えられています。「足場」という言い方を「存在根拠」の意味にとると、この言説は、四つの要素はそれ自体に存在根拠を持つ「実体」ではない、ということを主張しているでしょう。すなわち、「どこで」という問い方は、四要素の存在(不在)を可能にする次元を予想しているのです。

 さらに、「長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄」は観念を意味するでしょうから、人間の思考それ自体にも最終的な根拠はあり得ないという話になります。「名称と形態」はそれらをまとめて言っているわけです。

 結論として、「どこで」の答えが「意識」だということになると、安直に考えれば、この時点でブッダは「唯心論」を説いているように誤解しやすいでしょう。

 しかし、「意識の消滅」を言っているのだから、「意識」もそれ自体で存在する「実体」ではありえません(「実体」なら定義上、消滅しない)。そもそも、「意識」は「○○を意識する」という具合に、「意識ではない何か」に向かって発動しない限り、「意識」たりえません。要は、「意識」は「非意識」に依存的である、ということです。

 では結局、このブッダの言葉は何を言っているのでしょう。

 私に言わせれば、「存在」への問いにおいて第一義的なのは、通常は「現象」とか「経験」とか言い表されるような、ある「出来事」の発生なのだということです。「物体」と「意識」が「出来事」を起こすのではなく、「出来事」から言語作用が「物体」と「意識」を括り出すのです。

 この「出来事」の発生には「根拠」がありません というよりも、「根拠」を問わないのです。問うなら、「どこで」というゴータマ・ブッダの問い方に背反することになります。

 冒頭の文言(韻文)に先立つ(長文)の部分では、ブッダは以下のように言ったことになっています。

「比丘よ、次のような質問をしてはならない〈世尊よ、この四種の基本要素、すなわち地界・水界・火界・風界は、どのような場合に跡形もなく消滅するのか〉と」

 この問い方をブッダが否定するのは、ある場合に消滅する(しない)という「出来事」の発生、すなわち「現象」の生起や「経験」の現前以前に、四要素の「存在」を前提にしているからです。より一般化して言うなら、「○○が発生する」「○○が消滅する」という言い方は、「発生」「消滅」とは別の「○○」の存在の仕方、つまり、「存在根拠」の役割を担う形而上学的な「実体」を否応もなく前提にしているのです。

 経典に言うとおりに、ブッダがあの時代にまさに「問い方」を問題としたなら、その徹底的な思考の強度と、言語に対する並外れた自覚の深さを感じざるを得ません。その思想的直系は、誰がどう見ても『倶舎論』などではなく、『中論』でしょう。

地球はなぜできたか?

2015年10月10日 | 日記
 小学校4年生のころだったと思います。夏休みのある日、私は子供向けの科学雑誌のようなものを読んでいると、「地球は宇宙の塵が集まってできた」というような説が紹介されていました。今でいう惑星物理学の初歩の初歩みたいな話だったのでしょう。

「ほ、ほう~」と思った私は、ちょうど庭で草取りをしていた父親に軽い気持ちで声をかけました。

「ねえお父さん、地球ってどうしてできたか、知ってる?」

 父親は顔も上げずに、

「なんだあ?」

「地球ってね、宇宙の塵が集まってできたんだよ!」
 
 すると、父親はいきなり立ち上がって、えらい剣幕で怒鳴りました。

「子供が浅知恵で中途半端なことを言うな!(子供はそもそも「浅知恵」でしょ!)」

 私はいきなり怒られて、驚くばかり。

「地球が出来た理由なんてのはな、科学的な理由もあれば、哲学的な理由もあれば、宗教的な理由もあるんだ!! わかったような口を簡単にたたくな!!!」

 そう言われた小学生は、何がなんだかわかりません。何を怒っているんだろう?

 どうも、草取りの邪魔をされたことだけで怒られたわけではなさそうだ・・・それに自分が言っていることを間違いだと言うのでもないし・・・・。

 それに「哲学的」とは何だ?(おそらく「テツガク」という言葉を聞いたのは、この時が初めて) それに、地球と「宗教」に何の関係があるんだ? (「シュウキョウ」もこの時点でほとんどわかっていない)

 私は怒られたことより、何で怒られたのかわからないことが、大変なショックでした。その日からしばらく考えに考えて、ようやく一つ思い当りました。

 どうやら、問題が同じでも考え方はいろいろなんだ。そのどれが正しいか容易にはわからないし、どれにもそれぞれの正しさがあるのかもしれない。それをボクが簡単に雑誌の受け売りをしたんで、安直さにハラを立てたのか・・・・(実際は、草取りの邪魔をしたからでしょうが)。

 父親は息子に教育らしい教育をしない人でしたが(教員なのに)、時々、後々までトラウマになるようなことを言いました。

 私が、ある人が立てた問いと、それを解決するために彼が選択した方法と、その使い方にこだわるのは、父親に怒られたこの原体験があるからだと思います。

「問い」の立て方に遺漏はないか、解決に選んだ「方法」は問いを規定する条件にかなっているのか、「使用の仕方」は、「方法」を正当に作動させているのか。

 およそ人がものを考えるのは、「真理」があるからではなく、「問い」があるからです。「問い」に見合う「方法」を使い、それによって「答え」を構成する。つまり、「答え」の正しさは、「問い」の立て方と「問い」と「方法」との関係の仕方で決まります(当たり前)。

 私が日頃「真理」を無視するのは、このアイデアが「答え」の評価にしか関わらず、「答え」の評価は結局、「問い」と「方法」の吟味によるほかない以上、「真理」などという観念は要らないからです。