恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

門だけの家

2020年01月30日 | 日記
 思いつき禅問答シリーズ。(これで何回目か?)

 ある修行僧が趙州従諗禅師に質問しました。

「禅師は何ものなのですか?」

 即座に禅師は言いました。

「東門、西門、南門、北門、だよ」

 この問答は、普通は次のように解説されます。
 冒頭で修行僧は「本来の自己」、あるいは「真実の自己」とは何かを問うている。これに対して、禅師の答えた四つの「門」は、要するに方便として使う言葉のことだ。
 つまり、「本来の自己」そのものを言葉で表すことはできないから、様々な方便で「真理」の在り処を比喩的に示すほかはない。それは門構えから中にある屋敷を想像させるようなものなのだ。

 私はこの解釈をとりません。禅師が門にしか言及しない以上、中に屋敷があるかどうかなど、わかりません。「門だけしかない家」なのかもしれません。この場合、「家」が「自己」で、「屋敷」が「本来の自己」を意味します。

 もし、門以外どうしても見ることができない、ということになると、我々は多くの場合、中に屋敷がある前提でものを考えるでしょう。すると、見えないことに耐えられなくなった誰かが、「見てきたような嘘」で屋敷の様子を語るかもしれません。

 仮に多くの人がこの家に非常に興味があり、屋敷を見たいと常々思っていたら、この誰かが語る「屋敷の様子」に感心したり、大いに満足するかもしれません。
 
 この屋敷話が大ウケするとなると、ウケ狙いでまた別の誰かが「見てきたような嘘」を言い出すかもしれません。これもウケたとなると、さらに次々「嘘」が出て来て、それぞれにファンが付き、百花繚乱状態になるでしょう。

 我々は屋敷話に乗るべきではありません。禅師が言うように、門だけの家を見て、そこに留まるべきです。一つの門から入っても、屋敷を見ないまま、別の門から抜け出てしまうような家なのかもしれません。

 あえて言えば、その家で「暮らす」とは、この門の出入りを際限なく繰り返しながら、見ることのできない屋敷を仮設しては撤去し、建て直し続ける運動なのです。

死をめざして生きる

2020年01月20日 | 日記
 仏教のまとまった戒律として最も古い「パーリ律」を見ると、殺人について次のように述べています(「人体戒」)。

「いずれの比丘であっても、故意に人体の生命を奪うならば、あるいはそのために殺害の道具を持つ者を求め、あるいは死の美を賛嘆し、あるいは死を勧めて、『ああ、君よ、この悪しく苦しい生は、あなたにとって何の役にたつのか。死はあなたにとって生に勝るだろう』と言い、そのように思い、そのように決心して、いろいろな方法で死を賛美し、あるいは死を勧めるなら、これは波羅夷罪であって、(これを犯す者は)共に僧団に住むべきではない」

 条文解釈の部分では、「人体」に胎児が含まれています。「波羅夷罪」は教団追放になる仏教の最重罪を言います。
 
 これを一読すると、殺人、殺人教唆、堕胎の実施、自殺教唆が禁止されていることは、すぐにわかるでしょう。安楽死や尊厳死が許容されるかどうかは微妙なところでしょうが、少なくとも積極的に肯定しているようには思えません。

 条文には自死の禁止が明文では見られませんが、殺人に自死が含まれていることは、戒律制定の機縁の話からして当然でしょう。それは次のようなものです。

 釈尊が弟子たちに不浄観という修行を勧めます。この修行は、死体が腐敗していく様子をつぶさに観察して、自らの欲望を克服し、その虚しさを悟る、というものです。
 釈尊の留守中、弟子たちは非常に熱心にこの修行をした結果、わが身を嫌悪して自死したり、お互いに殺しあったり、依頼して殺してもらうような者が続出したのです。帰ってきた釈尊は、この惨状を目の当たりにして、戒を定めたというわけです。

 もう一つの制定理由は、ある修行僧たちが、病床にある在家信者の美しい妻を奪おうとして、死を賛美して信者に自死を勧めるという、とんでもない非行があったからです。

 いずれにしろ、この戒においては、他殺と自死の教唆は明文の禁止、自死については、戒制定の機縁話からして、「故意に人体の生命を奪う」行為に含まれ、禁止でしょう。

 ところが、初期経典には、修行僧の自死を釈尊が肯定的に評価するものが出てきます。いずれも釈尊の弟子で、チャンナ、ゴーディカ、ヴァッカリのケースです。

 このうち、チャンナとヴァッカリは重篤の病苦から、ゴーディカはどんなに修行に励んでも解脱できないことに絶望して、自死してしまいます。

 そのとき、釈尊は3人の自死をこう評価します。
 チャンナについては「非難されるべきことなく」自死したのだと述べ、ゴーディカは「やすらぎに帰した」「ニルヴァーナに入った」「妄執を、根こそぎえぐり出して」「完全に消え失せた」とされます。ヴァッカリももまた、「パリニッパーナしたのだよ」と語られています。

 これら初期経典の評価は、どう考えてもパーリ律の条文と矛盾するでしょう。そこには明らかに「揺れ」、ないしは「ブレ」があるのです。

 しかし、私はこの「揺れ」「ブレ」はあって当たり前だと思います。と言うよりむしろ、ここにこそ仏教の思想的なユニークさを見ます。

 仏教の究極の目的はニルヴァーナです。これについては、すでに何度も言及したように、どのような状態を言うのか、経典に一切具体的な記述がありません。とにかく、経典からわかるのは、少なくとも外形的には、あるいはブッダ以外の者にとっては、ニルヴァーナとは「ブッダの死」なのだということです。

 すると、ブッダとは「死をめざして生きる」者ということになります。換言すれば、自己の存在が死によって意味を持つような生き方をする者、です。

 その死によってのみ肯定される生。このような桁外れなアイデアは、およそ仏教以外の宗教や思想には見られません。私はここにこそ、「自己」という様式を持つ実存を凝視する、深く透徹した眼差しを感じます。
 

 

「境地」の無意味

2020年01月10日 | 日記
 ゴータマ・ブッダの言葉を遺す最も古いとされる経典『スッタニパータ』(岩波文庫『ブッダのことば』中村元訳)には、次のような文章が出てきます。

「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 ここでは、修行者がブッダに、修行の結果到達する心身状態(境地)について論争のあることを指摘し、その最高の状態についてのブッダの見解を求めているのでしょう。すると、ブッダは次のように言います。

「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。」

 文中「霊の最上の清浄の境地」とは、霊魂のごとき形而上学的実体(アートマン)を認める語り口でしょう。逆に「断滅」を言い、「(精神も肉体も)残りなく消滅する」境地を言うなら、それはいわゆる「滅尽定」や「無余涅槃」を意味するでしょう。
 前者は、仏教の「無常」「無我」の考え方からして排除されるでしょうし、後者については、いかなる言語表現もできません(語る主体が消滅しているのだから)。
 それを無理に言おうとすると、要するに自分が主観的に獲得した心身状態を、「最上の境地」や「悟り」のごとき客観的・超越的価値として自画自賛する破目になります。
 だから、ブッダは言います。

「 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 ということは、ブッダが自分の「悟り」の境地に直接言及していない以上、上座部だろうが大乗だろうが、「悟り」「涅槃」について語られたナイーブな言葉は、所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません。

 したがって、「悟り」についての言説は、単に特殊体験をひけらかすのではなく、それをどのような文脈に乗せ、どのような方法で語るのかを明確に自覚して、「なぜ」「何を目的として」そのように自らの体験を語るのかを十分に説明しないなら、教説としてまるでナンセンスであり、結局は妄想や錯覚と区別できません。

 

 遅まきながら、あけましておめでとうございます。今年が皆様によい年でありますよう、祈念申し上げます。