恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

恐山開山2014

2014年05月10日 | インポート

Dsc_1495 5月1日、恐山は今年も無事開山いたしました。山内唯一の桜は、例年より早くこの日に満開。近くにまで寄って見上げる参拝の方も多く見受けました。以下は、今年の開山挨拶です。

 皆さま、早々とようこそお参りくださいました。恐山は、今年も無事開山の日を迎えることができました。思えばこれも諸縁が調い、皆様のお志のあるが故と存じております。

 ですが、毎年この日を迎えておりますと、なんとなくそれが当然のことのように思われてしまうものです。それは1日1日のことも同じでしょう。昨日とさして変わらない今日が来て、今日とあまり違わない明日が来るあろう思うと、そのように無事な毎日が続くのが、意識することもなく当たり前と感じてしまうのが、人情です。

 ですが、先の大震災を思うまでもなく、変わりのない毎日が続くことは、実は至難なことでしょう。思わぬ出来事が日常を一変してしまうことは、決して他人事ではありえません。

  昔中国で、ある偉い老師のもとを久しぶりに弟子が訪れました。部屋に通された弟子は、久しぶりのことですから、挨拶をします。

「老師、最近、お加減はいかかがですか?」

 すると老師は答えます。

「毎日毎日、結構なことだな」

  私が思うに、老師のような境地に至ればそうなのかもしれませんが、普通は毎日毎日結構と言うのは無理ではないでしょうか。それこそ病気もすれば事故もある。災難にだって遭うかもしれないし。それも結構なのか?

  修行僧時代、当時つかえていた老僧に訊いてみたことがあります。

「毎日毎日結構なんて、あり得ないですよね。どういう意味でしょう?」

  すると老僧は言いました。

「そりゃ、お前の言う通りだな。生きていれば色々ある。結構なことばかりであるはずがない。避けることのできない困難があるのは、当たり前の話だ。

 だがな、人はどんな目にあっても、どんなに辛い状況に置かれても、その1日、なすべきだと信じたことはできる。しなければならないと思うこともできる。それが精一杯できたとき、1日の終わりに、今日はとにかく一生懸命やったと、納得できるかもしれない。そうできることを『結構』と言うのではないかな。

 毎日結構だと老師が言うのは、どんな1日でもその日を結構な1日にしようと努力することが修行だと、弟子に教えたのだと思うがな」

 皆様、今日はお志をもってお参りいただき、いま無事お参りが済もうとしています。まずはお互い結構な1日となるのではないでしょうか。

 ならば、また明日も、それぞれにご縁を調えるように努めて、結構な日であるように願うばかりです。そのような毎日が積み重なり、また恐山にお参りいただければ、まことに有りがたく、うれしく存じます。

 皆様、本日はまことにありがとうございました。


最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なすべきことをする、という心持ちで生きていると... (ride)
2014-05-10 09:37:49
なすべきことをする、という心持ちで生きていると、自然になすべきことが現れます。明日、なすべきことは何になるのか。宇宙である自分の内から、示されるように感じる今日この頃です。
返信する
ウーン奥が深い (Unknown)
2014-05-12 18:54:42
ウーン奥が深い
返信する
maimai様 (苦しい人)
2014-05-13 14:34:18
maimai様

気分を害するなんてとんでもありません。逆に安い答えを出したくなる欲求に抗い、私と同じような問題意識(=仏教を己の生き方にいかに組み込むか)を持った方に出会えて嬉しく思います。釈迦も初転法輪のとき、他人に自分の法が通じて嬉しかったんだろうなと想像します。

仏教を自己の生に組み込む。私もこの5年ほどずっと考えてきました。私の答えは「空」です。私は南和尚の「空とは言語批判である」という命題に衝撃を受けた者です。これは私にとっては革命でした。私流の言葉で換言するならば「空」が言語批判であるならば、それは大乗仏教徒が取るべき行為態度(エートス)である」となります。

私は「過去」という存在がとても不思議でした。私はトラウマを抱える者です。創価学会員の両親に耳の穴から手首を突っ込まれ、脳みそをかき回されるような育てられ方をした者です。スッタニパータには「過去は過ぎ去った。未来はまだ来ない」という言葉が出てきます。だが、それにしては過去とは余りにも生々しく現れ、現在の私を苦しめる存在でした。なんて表現ではまだ不足です。過去とは何度でも繰り返し蘇るもっと確固とした実在でした。高々、断片的なイメージとそれを関連付ける言語が織り成すだけの実在性の欠片も無い存在のはずなのに、私にとっては何度と無く現れては私をズタズタにする何者にも増して生々しい実在でした。

スッタニパータの言葉を真に受けていた私は、実在性の無い過去を存在だと考える私の方こそ「おかしいのだ」と思っていました。世間で流行る「ありのまま思想・今ここ思想」、私がずっと頼ってきたそれらを体現する恩師の影響もあります(この人を切るのは私にとっては大変な作業で今も続いています。その意味で私には未だにオウム信仰を続ける人間の気持ちが多少なりとも分かる気がします)。「考えても仕方が無いことを考えてしまう私がおかしく、また『悪い』のだ」と私はずっと思っていました。

しかし、物象化論やヴィトゲンシュタインの論理定項と操作、ハイデカーの死の現存在分析や用在、概念的存在まで存在と認めるアビダルマ、そして「縁起の思想」が指し示すのはそれらとはまったく逆のことでした。何故だがは分からない。しかし、人は関係の物象化であるところの言語を存在とみなす動物であり、また、それゆえに「私」とはまさに過去と未来を備えた概念的存在としてしかありえない。ならば、本当にありえないのは南和尚が批判するところの「天台本覚思想」の方だと。人が言語的存在であり、言語に囚われざるを得ず、また、人であることを覚悟するのなら、過去も未来も考える価値を備え、また考えるべきなのだと。そのような行為態度こそが私にとっての「空」であり在家としての大乗仏教への「信」です。

「信」だというのは本当にそれでいいのか分からないが、私にはそれしかないと思えるからです。南和尚は言う「存在とは言語である」。ならば私は考えます「人間とは言語としてしかありえない。少なくとも仏ならぬ人間の『ありのまま』には言語の果て以上はない。ならば私はそのことを考える他に道はない」

おそらくここがmaimai様と私を隔てるポイントだと思うのですが、私は仏教が価値の体系だとは思っていないのです。価値とは人間のものであり、仮に仏を間と定義するならば、仏教に価値があるとは私には思えないのです。価値があったとしても人間としての関心しか備えず人間としての言語体系しか持たない人間に、自己への関心を失った仏の価値体系は理解不能な代物であると考えます(その意味で仏に言語はありえない)。仏教とは間・非価値の人間の否定としか表現しようのない立場から人間の在り様を強烈に照らし出す聖なる非価値だと私は捉えます。私にとっての必要上、私の中で仏教が世俗を相対化するオルタナティブとしては成立しないのです。

以上、異常に長くなってすいません。自分の仏教に対する考えをはっきりさせるために、私もmaimai様にかこつけて私のことを書いてしまいました。自分の言語で書いてしまっているので伝わっている自信が全然ありません。何らかmaimai様の仏道への参考程度にもなればと願っています。

最後に書かせていただきます。出家というのは私にもまったく分かりません。4年ほど坐禅を組み続け、5年仏教を考えても私にはその動機が一向に分かりませんでした。人間であることは苦しい。それは認めます。私も大変苦しい。人の輪郭とは苦しみでできているとすら思います。しかし、それがやめられるとは思えないのです。仏教が照射する無明な人の在り様にはリアリティーを大変に感じこそすれ、なんだか分からないのが定義であるところの仏にはまったくリアリティーを感じませんでした。スッタニパータや大涅槃経における釈迦も私にとっては法身としての釈迦などではなく、覚者としての釈迦がいるわけでもなく、ただ、人として生き人として死んだ釈迦がいるだけでした。maimai様が指摘する隘路に私自身も相当悩みました。仏は私の存在を照射するものではあるものの、究極の目標となるものではありませんでした。

逆に私が共感するのは親鸞でした。南和尚によると不信の人・親鸞とは阿弥陀の名号そのものになることを願った人だそうです。真宗関連の書籍はまったく呼んだことが無いのでよく分からないのですが(坊さんの話を聞いても阿弥陀の本願ありがたや的でまったく共感できない)。でも、阿弥陀の名号そのものになることを願う親鸞の気持ちはなんとなく分かります。

私にとっては祈りとは悲鳴です。でも同時に願いでもあるだろうと考えます。人は無明で儚く有限だからこそ、その永遠を願う。毘盧遮那仏と一体化してでも。私は仏になろうとは思いません。でも少なくとも人として、私は無明のうちに滅びるとしても、人の世界の存続を願う人間でありたい! なりたい!とは激しく欲します。両親の枷にはめられ私を生きてことが無い人間未満の私が願うのはまず、私であること欲望する人になることです。

私が人になったとき、もしかすると成仏を願うようになるかもしれませんね。
返信する
苦しい人さん (浅野)
2014-05-13 17:48:36
苦しい人さん

共感するところがいくつかありました。例えば、仏になろうとするところの信まではない感じ。仏が相対軸になるとしても目標にはならない。
道元禅師より親鸞に親近感がある感じもよくわかるな。親鸞の歎異抄の現代語訳は、数年前に挑戦しましたが、さっぱりわからなかったイメージがありますが。ただ、南さんが時々、引用する文章や意見には、親鸞の方がシンパシーを感じるこの頃です。
苦しい人さんも自己の輪郭が定まってなさそうですね。僕もそうで、それを仕事に見出そうとしてきました。徒労ですけどね今も。
僕は、人類の存続なんて望んでないなぁ。そう思う自分も仕方ないと断念しましたね以前から。自分の根源には非常に冷たい自分がいます。マイナスのナルシストなのかなぁ。それとも現状に不満があるのか。私にはわかりません。
返信する
「2010/01/30 ずっと前から、もっと遠くから」  ... (はてな)
2014-05-16 10:30:25
「2010/01/30 ずっと前から、もっと遠くから」  を思い出しましたが、存在の在り方を問うということは、この自己という事態を織り成す環境要因が如何に在ろうとも、それに関しないのだから、仏道をならうということの味わい深さは底知れぬ無限の領域にありますね。

私自身、考えるという領域に誘われ問いが芽生え感化されているように思いますが、人のこころを感化するという直哉さんの境地は、恐山に参拝されている多くの方々の悲しみや辛さが源になっているのでしょうね。 恐山の参拝者の思いが、現成公案の示す更なる境地に直哉さんを誘っているように感じさせられます。

人の思いを汲むことが大切なことは言うに及ばぬことですが、それがなかなかできませんよね。 参拝者にとって、思いを汲んでくれる直哉さんのようなお坊さんがいることはさぞかしありがたいことでしょう。
返信する
苦しい人様 (maimai)
2014-05-17 22:24:00
苦しい人様

お返事ありがとうございます。
苦しい人様の仏教に対するスタンス、生い立ちの中での宗教への関わりが少し分かったような気がしました。私は、何故、あなたが「ありのまま思想」に対して憎悪にも似た激しい嫌悪を示すのかよく分からなかった。あなたのコメントは、憎悪と絶望と悲哀が繰り返し、繰り返し、表現される。それが、何を意味するのか、少し、分かりました。

これはあなたの傷跡、いや、今でも残る開いた傷口、そして、あなたが「あなた」として生きることへの試みの軌跡。
たぶん、「ありのまま思想」はあなたの中で、過去のつらい記憶を呼び起こし、今でも自分を断罪するもの、長い間自分を縛り、今でも苦しめるものの象徴になっているのだと思います。
子供は、親の考え(宗教、思想、価値観、そして好悪にいたるまで)空気のように吸い込んで育つ。
親から吸い込んだものが何であるかも分からないまま、それを基礎にしてしまう。そこから、自分の「生」をスタートさせる。骨の髄まで染みこんだ「両親から嵌められた枷」を外すこと、新たに哲学や仏教を学びなおすこと、自分自身の内部を組み替えること、新たに「自分」として生きなおすこと、それが苦しい人様の命題なのかな?何かそんな気がします。

たぶん、(たぶんなんですけど、)あなたはご自身の過去を否定しきれない、だから辛いんだと思う。
過去を否定することは、飲み込まされた教えを否定すること、恩師を、ご両親を、自分の原点を否定すること、そしてそれはメビウスの輪の果てのように最終的にあなた自身を否定すること。
でも、あなたは本当に苦しい思いをしたんだと思う。自分の家がよその家と違うこと、ご両親の信じる「教え」に従わされること。違和感と罪悪感を自分の中に押し込めて子供時代を過ごしてきたんだと思う。
でもその辛かった気持は子供だったあなたのもの
あなたの「悲鳴」はあなた自身の発したもの。
あなたの「願い」はあなた自身の生へ希求。
あなたの「生」はあなたのもの。
それは誰にも奪えないものだと思う。

トラウマ話のついでに、私の話も少ししますね。
私の父は殴る人でした。殴られて殴られて育ったので、私は頭がおかしくなりました。どん底の鬱状態になると、周囲の音が消えて、頭の中で「死にたい、死にたい」という声が聞こえる。自分がどこにいるのかも分からなくなる。
過去は確固とした実在、だから、あなたが書かれたことはよく分かるんです(苦笑)
断片的な光景、夜、外に出されたて裸足が冷たかった、とか泣き叫ぶ私と姉を殴りながら父がニヤニヤ笑っていたとか、いろいろ。いろいろ最低な記憶。昔のことが出てくると今でも奈落の底に落ちるような感覚になります。姉は3時間ごとに服用する抗うつ剤で生き延びていますでも、私は抗うつ剤に代わる何かが欲しかった。仏教が私のとって薬になるかどうかは今でも分からないんです。
南和尚様の本や、精神病についての本を読んだり、鬱落ちして寝てたり試行錯誤(?)でも大したことは何もしてません、そんな日々です。

以上、私も長くなってしまいました。
では、仏教論議(?)に移りましょう。(笑)
論議のはいる前提として、南和尚様の仏教を土台にするということでいいでしょうか?仏教の言葉の定義も仏教観も、仏教者それぞれによって違う。
でも私、白状してしまうと、仏教書は南和尚様の本しか読んでないので、ほかの仏教は全く知らないんです。(大汗)
役不足なんですけど、お相手していただるのなら、
仏教に関する理解を深めることができるので本当にうれしいです。

「空」というのは、人間の認識の限界性、不完全さを表す言葉だと私はとらえています・
人間の認識というのは言語を通して、初めて形になって意識される。五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚・・)が感知した外部の刺激を、言語化して物をとらえる。人は言語を使わないとものを認知できないのだ。換言するなら、言語というフィルターを通し、言語の鋳型にはめることで、人間はものを存在させる。その意味で人間の認識は言語にとらわれ、言語に縛られる、つまり人間は言語内存在といえるだろう。この言語化の過程で、言葉によって表された物がそれ自体で存在するという錯覚を人間に与える。机と命名された木箱は、あたかも木箱に机という本質が内在しているように錯覚してしまう(南和尚様は机の例が好きですね。。分かりやすいからなのかな~)しかしこれは大いなる錯覚なのだ、この錯覚を「無明」と定義する。
本質は存在しない、あるのは私とそのものとの関係性、縁起が言語によって定型化されたものなのだ。机と命名された木箱は、椅子にも台にもなりうる。この例えからいっても、言語で表されたもの、それが「私」であれ「神」であれ「真理」であれ、そのもの自体で存在し、本質が内在したものではないことは自明である。「私」も、私と縁起する外部の諸々との関係性によって変化する流動的なものである、「私」が「私」の中に本質が内在し、「私」だけで存在すると思うのは無明、つまり錯覚である。
「私」の内部は空洞であり、私と縁起する外部との関係性を豊かにすることが「私」の豊かさにつながる。この「豊かさ」とは、私の空洞を補填するため、ものや人を所有すること、つまり思い通りにすることではない、敬意をもって接することなのだ。

こんな感じなのかな~、まとめてみました。

南和尚様の仏教を学ぶことによって、言語によって表されたのものは自明のものではないこと、言語でものを完全にとらえることはできないこと、その言語の存在条件、前提条件を考えること、ものごとを深く考えられるようになり、少しだけ視野は広がりました。

ただ、けれど、だからといって、私の苦しさは変わらない。鬱状態になると、頭がおかしくなって死ぬことばかり考えてしまう。
私の仏教理解はここが限度で止まっています。
返信する
はじめまして。 (なつき)
2014-05-19 16:40:01
はじめまして。
坐禅の記事を読みました。
意識や心の話題は私の周りでは誤解されやすいです。
意識について知っている方に意見を聞きたいと思っています。私の考えをブログにまとめているので見て頂けないでしょうか。
突然ですが、よろしくお願いします。
http://nna899.blogspot.jp
返信する
先日、夏目漱石の「門」という小説を読んだ。主人... (あじさい)
2014-05-19 19:33:52
先日、夏目漱石の「門」という小説を読んだ。主人公は参禅するが結局悟ることはできず帰宅する話。想像以上に修業は厳しく、期待が大きすぎるのは禁物。

私の父は不安神経症であったので、私のライフワークはトラウマ治療方法の研究。来月は講習会で厚かましくも講演する。心の傷を癒すメソッド研究は、心理学、生理学、工学の膨大な知識と時間が必要。

心の傷は簡単に癒されることはない。書籍で「座禅で心が軽くなる」というのは誇大広告である。
ある種の記憶が強い恐怖と結びついている。記憶と強い情動を引き離すには海馬機能を回復させシータ波が出ている状態で分離できることが多い。また、再構成するには鋭波(脳波)が記憶と情動を固着させることが多い。鋭波は目玉をぐりぐり動かして出す。記憶と激しい不安の情動が結びついた状態を治癒するには記憶と情動の分離ができて、平静な感情と再結合すればよい。例えば温泉につかりながら心の傷を思い出せば記憶と情動の再配置が生じることがある。ただし短期的な傷を癒すのは気晴らしをして一時的に忘れたほうが良い。負荷の大きい運動はしないほうが良い。

森田療法(禅の行動療法)についても、手放しでよいというものでなく、有効範囲があり適応症と禁忌がある。また、どの程度実践すればどの程度改善する可能性が高いのか、正しいい情報を知らしめる必要がある。多くの人の価値観等が変化すれば文化として普及する手法であると思う。しかし、甘い薬ではない。過剰な期待も禁物であるし、時間がかかる。参禅するには心の準備があったほうが良い。例えば自意識のこだわりが粉砕されたような諦めの覚悟が望まれる。一時的な病気の場合はやめたほうが良い。

人々は無知のせいで損をしている。ただし有効な情報は膨大であるので個人ですべてを習得するのは不可能。助け合いの共同作業で行きたいものです。
返信する
なつきさん (あじさい)
2014-05-19 20:26:37
なつきさん
私たちは全く違う夢の中で生きている。あなた自身の 裁判官、犠牲者を信じてはならない。内なる声を単純に信じてはならない。それは真実でない。

我々は二つの心を有している。一つは脳にある機械的な心、もう一つは日常生活で沈黙している隠された心。本来の心である。二つの意識が互いを侵害せずに共存している。どちらも全く違っているように見える。それらは最小限の干渉で共存している。彼らは、扉を隔てて隣に住む存在である。私たちと潜在意識のレベルで交流しているのだが、覚醒のレベルではない。しかし彼らと親密になるということは無駄なことである。彼らも私たちと同様に困っている。彼らは私を助けることが出来ないし、私も彼らを助けることが出来ない。両方とも極度に扱いにくく、なんでもないことに腹を立てる。同じなのは、両方の存在は深い自己中心主義に陥っていることだ。
返信する
今日ですね。NHKの夜の番組、「ドキュメント」... (浅野)
2014-06-06 08:03:14
今日ですね。NHKの夜の番組、「ドキュメント」。恐山が舞台です。南さんは出演しないと思いますけど。一般の方を追った番組です。
返信する