恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

悪態です3

2015年06月30日 | 日記
 6月の中旬、自衛隊の士官の人たちが恐山に来られました。むつ湾の大湊というところには、戦前から軍港があり、今では自衛隊の艦船が寄港する基地となっていて、この日の前日にも大型艦船が寄港し、おそらく休日になったのでしょう。笑顔でそれぞれ境内で写真を撮りあっていました。

 すると、その中の一人がグループを離れて、寺務所の方に歩いてきました。中に入ってきたのは、女性の士官でした。自衛官というと女性でも「偉丈夫」を想像するところですが、入ってきたのは、見たところごく普通の女性でした。

 彼女は、しばし周りを見まわして、おもむろに受付に近づいてくると、和尚さんに

「あの・・・、ここでは、ご祈祷というか・・・、ご祈願というか、そういうものをしていただけるんですか?」

「はい、しますよ」

「それは、その、世の中の平和とか、そういうものも、いいんでしょうか?」

「はい、結構です。で、どのようにお札に書きますか?」

「え・・・・、それ、どうしたらよいでしょうか、わからなくて」

「じゃ、こちらの宗派でそういうときにご祈祷する、『国土安穏 万邦和楽』ではどうでしょう?」

「どんな意味でしょうか?」

「この国に人災や天災、戦争や紛争も無く、人々が安らかで、また世界の国々がみな平和で楽しくあるように、ということですね」

 そう聞いて、彼女ははじめてにっこり微笑みました。

「はい。それでお願いします」

 地蔵殿で行われたご祈祷の間、読経を聴きながら彼女は身じろぎもせず、真っ直ぐお地蔵様の姿を仰いでいたそうです。

「ああいう人も、この先戦地に行くことになるんでしょうか・・・」

 お参りを終え、他の士官に合流して門から出ていく彼女を見送りながら、ある和尚さんが小さくつぶやきました。

 
 ここから、悪態です!

 今回は名指しだ。

 あのなあ、とりあえず安倍政権と自民党と公明党。

 議員が地元でまともに説明できず、学者のほとんどが「違憲だ」とソッポをむくような、いたるところ穴だらけの粗末な法律を押し付けて、彼女のような若者たちを本気で戦地に送り出すつもりなのか? 

 大方が違憲を疑っているような任務で、彼らは死ぬ覚悟をしなければいけないのか? それは、あまりと言えばあまりに、無礼じゃないのか?!

 真正面から憲法改正を目指すならともかく、これほど姑息なやり方で事を進めるとは、浅はか極まりない話だ。

 これに限らず、現政権のやることは、短慮で性急で浮薄だ。

 大震災以来、地震ばかりか噴火まで、あきらかに活動期に入った地面の上で、ポンコツ原発を動かす努力は惜しまないのに、電力会社が抑制したがるほどの潜在力を持つ再生エネルギーの開発や展開にこれほど消極的なのは、いったいどういうわけだ?

「憲法違反」してまで集団自衛権を行使するのと引き換えに、沖縄から基地をなくす交渉をしようというなら、まだ話の筋も通るかもしれない。それもできずに、ただひたすらアメリカに追従しながら、なぜ沖縄の人々をこうも軽視するのか? 「美しい」「取り戻す」日本に、沖縄は入っていないのか?

 被災地の復興もままならないのに、調子に乗ってオリンピックなどと浮かれているから、どうせロクなことになるまいと思っていたら、案の定、どうするんだ、アノ馬鹿げた競技場は? いや、競技場ばかりじゃない。こんなオリンピック騒ぎで社会の矛盾を棚上げしているうちに、この国はニッチもサッチもいかなくなるぞ。

 根本問題が高齢化と人口減少にあるのに、札束をばらまいて株価を吹き上げ、あとは「生産性向上」のために、減少する「労働力」を搾れるだけ搾って(「TPP]「改正派遣法」「女性活用」)、とにかく「経済成長」すれば万事なんとかなるというのは、あまりに能天気だろう。それこそオリンピックが終わるころには、谷底に転げ落ちかねないぞ。

 ちなみに、昨今さらけ出された安倍首相の「応援団」の「懇話」ぶりは、この政権の思慮の浅さをマンガチックに象徴している。

 不思議だ。いったい、安倍政権は何を「保守」したいんだ? 具体的に何だ?! まさかアメリカと株と権力か? 

 

 

無常の形而「外」学

2015年06月20日 | 日記
 人間の実存(経験的・具体的在り方)そのものを全体として自覚し、それを根拠づける原理や理念に関する思惟(さらに、それに基づく実践)の体系を形而上学と考えるなら、それは当然実存の中には無く(根拠づけるものが根拠づけられるものの中にあったら、根拠にならない)、個々の実存を普遍的に制御する、いわば「超越」的位置にあることになるでしょうから、形而「上」学と言われるのも、わかる話でしょう。

 このとき、人間の実存は言語に強く浸透・拘束された、いわば「言語内存在」ですから、それを根拠づける原理や観念は、実存が日常使用する言語とは別次元に設定された、強力な「超越的」言語によって表現されるころになるでしょう(「神の言葉」「預言」「真言」「呪文」)。

 仏教は、実存を全体として自覚しようとするとき、まずその「言語内存在」という存在様式それ自体を問題にします。そして、この実存を、何らかの原理や理念を持ち出して根拠づけることをせず、それ自体を禅定などの方法で解体して、その「外」に視点を設定する方法をとります。その視点から露わになるのが、「無常」「無我」と呼ばれる事態です。つまり、仏教は形而「上」学ではなく、形而「外」学です。

 このとき問題なのは、形而「上」学は、実存に根拠を言語によって明白に提示するのに対し、形而「外」学はそれを与えないことです(「悟った」からと言って、実存する限り苦悩はやまず、「ニルヴァーナ」は何のことか説明がない)。

 したがって、本来形而「外」学的体系であるものに形而「上」学的観念(「輪廻」「極微」「刹那」「仏性」「見性」)を導入することは、仏教の最もユニークでオリジナルな提案である、形而「外」学的な実存了解を毀損するでしょう。

95歳名言(?)集

2015年06月10日 | 日記
▼男性、医院にて

「先生、この薬、副作用無いでしょうね」

「いつまで生きる気かね」

 ※お医者さんは米寿。


▼男性、誕生日に一族が集合

「やっぱり、孫はかわいいんでしょう?」

「生き物はみんなかわいい」

 ※すごい境地。


▼女性、久しぶりに会った知り合いに

「おばあちゃん、目も耳もしっかりしてるし、口も達者だし!」

「この歳でボケたら恥ずかしい」

 ※プライド!


▼女性、こっそりと打ち明け話

「嫁がかわいくなってきたら、お迎えは近い」

 ※周囲の例を見てきた経験上、そうだそうです。