恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「老人」の垂訓

2011年08月30日 | インポート

医師・男性

「安らかな死、なんてのはないでしょうな。安らかそうに見える死はあるけど」

無職・女性

「死ぬ覚悟ができれば、欲は減るか無くなるかと思いましたが、違いました。欲の姿が変わるだけでした」

僧侶・男性

「90過ぎても、いつ死ぬのか見当がつかん。人を生かしておくには必要な無知だな」

無職・女性

「どれだけ長く生きたかより、どう生きたかが大切だと、よく言いますでしょ。でもね、そう言っても、誰だって大した生き方はしていませんでしょ」

無職・男性

「人はなぜ平気で眠れるのかね。平気で眠れるんだから、平気で死ねばいいのに」


自殺について

2011年08月20日 | インポート

 このブログでも何度か言及したと思いますが、自殺を否定する道徳的・論理的根拠はありません。どんな理由を説明されようと、自殺を決意した人は自殺するでしょう。このこと自体、自殺を理屈で否定することの無意味さを暴露しています。

 自殺についてとりうる唯一の態度は、するかしないかの根拠なき決断だけであり、したがって、自殺志願者への「しないように」という説得は、「してはならない」という論理ではなく、「しないでほしい」という懇願で行う以外にない、ということになります。

 死にたければ勝手に死ね、という考えもありましょうが、私はこの考えは非常に危険だと考えています。なぜなら、私は自殺をしないという決断だけが、人間における倫理の根拠であり、あらゆる「善」を可能にする条件だと思うからです。

 自己が他者に由来すると考えるなら、「善」とは、そのような自己の在り方を受容し、肯定し、他者との関係を充実させていくことを意味するでしょう。

 すると、自殺は、単なる自己の否定ではなく、自己が由来する「他者」それ自体の否定になり、それはすなわち、「善」なり「倫理」の成立条件を一挙に破壊する行為になります。

 これは「自殺は悪いことだ」という意味ではありません。私が言いたいのは、自殺はそもそも善悪の判断そのものを無意味にしてしまう危機的行為だということです。

 この意味で私は、他殺より自殺の方が危機的だと思います。なぜなら、他殺ならどのようなものであれ、対象は限定され、そこに殺す意思があり、その意思には理由があります。したがって、他殺は、極限的な形式であるにしろ、人間の関係の仕方なのです。だからこそ、その関係の仕方が問題となり、「悪」と認定されれば、倫理的あるいは法的に裁かれるわけです。

 ところが、自殺は他者との関係性それ自体の否定であり、関係性の当否を判断する役目を負うはずの倫理が存在する余地をなくしてしまいます。

 自殺は「悪」ではありません。だから私は自殺した人や、自殺したいと思う人を責めも否定もしません。しかし、我々がこの世に「善」を望むなら、「自殺しない」と決断すべきだと、私は思います。

 


無常、無記、空

2011年08月10日 | インポート

仏教で「無常」あるいは「無我」というとき、私が考えることは、

「この世ははかないなあ」などという詠嘆でも、

「一切のものは一瞬もとどまることなく、移り変わっていく」という諦念でも、

「あらゆるものには実体はなく、様々な要素の寄せ集めである」という見解でもありません。 

 私が考えていることは、そのような物言い、判断や考え方には、その正しさを無条件的に保証する根拠が欠けている、ということです。

 つまり、私がいう無常とは、「すべては無常である」という判断も含めて、一切の判断それ自体に確実な根拠はなく、その反対の考え方、たとえば、

「無常と見える現象の背後には、それを成立させている普遍的で絶対的な何か、理念や法則が存在する」

 という考え方を、頭から否定する理由はない、ということです。

 ということは、事実上、私は、「無常」「無我」を、形而上学的な命題に対して判断を停止する「無記」のアイデアと同様に解釈していることになります。

 すると、肯定であれ否定であれ、なんらかの判断を下すという行為は、事実認識の問題ではなく、信念の問題になります。確実な根拠がないにもかかわらず、一定の条件を仮設した上で判断を下し、それを「正しい」と信じることが、要するに我々の「認識」というわけなのです。

 竜樹祖師(ナーガールジュナ)が有名な『中論』で行ったことは、私に言わせれば、この「無記」の考え方の徹底的な論理化だったと思います。 この本の中で、彼は別に「三世両重」の「小乗的」縁起説を「相依相関」の「大乗的」縁起説に改訂したかったわけではないでしょう。そんなことは、どこにも書いてありません。ましてや、「妻がいるから夫がいる」とか「世の中すべてお互い様」程度の世間話をしたかったのではありますまい。

『中論』において大規模に展開されているのは、とにもかくにも徹底的な言語批判を通じて、我々の持ちやすい「常に同じで変わらない何か」があるかのごとく思う錯覚を、排除することです。

 この場合、何事であれ判断とは、要するに「何か(A)をそれ以外の何か(非A)から分ける」ことですから、Aの実存は、「非Aとの違い」という在り方において、非Aに根拠を持つことになります。そして、この「違い」として現象する関係性を、「縁起」と呼ぶわけです。

 そうすると、「縁起を見ることが空を見ること」と言うなら、常に同一な「Aそれ自体」の存在を無条件に肯定する判断は間違いだと考えることが、「空」の実質的な意味であり、したがって、「空」は「無記」の論理的展開だと言えるだろうと、私は思います。

 この考え方すれば、イスラム教圏のみならず、アメリカ空軍でも持ち出されていた「聖戦」論は、意図的に曲解するか、お目出度い誤解でもしないかぎり、何をどうごまかしても、仏教からは出て来ないはずです。

追記:9月の「仏教・私流」は9月15日(木)午後6時半からです。前記で曜日を間違えました。すみません。