今や目にすることが珍しくなった絣のモンペに唐草模様の大風呂敷の荷物。写真中央の女性は、従業員から「ユキばあちゃん」と呼ばれています。
御年91歳。右手に杖・左手に傘で、大きく腰の曲がった体を支え、ひとりで電車とバスを乗り継ぎ3時間。もう30年近く、毎年大祭期間中にお参りにくるのだそうです。
私は期間中お参りの方々に直接応対する機会が少なく、今年はじめてお会いしました。
大きな荷物の中には、まずお地蔵様へのお供え物、そして亡くなった「ダンナとムスコ」のためのお供えが入ってます。
今日は、まず受付で故人の塔婆供養の申し込みをして、境内を参拝しながら例年のところにお供えをします。そして宿坊に止まって翌日、午前中イタコさん一本に絞って少なくとも3時間ほど待ち、口寄せをしてもらって帰るのだそうです。おそらく荷物の中には折りたたみ椅子やペットボトルなど、「イタコ待ち」グッズも入っているでしょう。
供養の受付を終え、受付係の一人がお供えに回る彼女を途中まで送ろうとすると、「和尚さん、どうか気遣いせんでくだせぇ」とはきはきした口調で言い、「今日は法話はありますか」と尋ねたと聞きました。法話する予定の私は柄にもなく緊張してしまいました。
驚いたのは、その法話のときです。彼女は姿をすっかり改め、萌木色の着物に薄茶の帯という、涼しげで実に粋ないでたちで現れたのです。その鮮やかな変身にはびっくりしました。
すでに当日泊りの方々と仲良くなったようで、周囲の人たちが何気なく配慮していました。宿直の和尚さんも、部屋の近い宿泊者に移動の介添えをお願いしておいたそうです。
「ああ、今年もお参りできました」
そう言って、「ユキばあちゃん」は帰って行きました。来年もお参りしてもらえることが、我々の心からの願いです。
立ち葵の彩りに和みますが気温湿度の高い折、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
ユキばあちゃんご自身、この言葉にいろんな思いが込められていることでしょうし、無論、意思として表出していない大いなる意思も込められていることでしょう。
そして恐山のお坊さん方をはじめ関係者ご一同様や我々第三者がその言葉から感じることも様々でしょう。 私としましては、毎年のお盆に迎え火と送り火の松明を灯している在りし日の祖父の姿を想い出しましたね。
この自然に想い出すという事態もそうですが、前回、直哉さんが言われた >考え出したらキリがありません。 は、「当然の事」としてその言葉自体をしっかりと受容していることが非常に重要ですが、それは「思考領域の開と閉が同居している」のですから、たまらなく味わい深い領域に人は存在していることを感じさせられます。
そしてお参りしてきた人に対してお坊さん方はいいお客様だ、、
とでも思っているのですかね。
少し気になりました。
いや、変えなければ。
何か出来る事からはじめよう、、
住職育ててどうするの。
僧侶がいじめ、暴力、何もかも腐ってる。
お坊さんてなんだ?
頭丸めて、ただそれなりの格好してる人か?
それなら誰だってできる。
参拝者はなにをありがたがってる?
仏像をおがむことか?見ることか?
ただの物質のかたまりなのに。
壊しちゃえばいいんだ、寺なんて。
このままだと、後の世代にのこる仏教は間違いなくカルトだ!
どこかで変えなければ!
私はそのきっかけになりたい。
想像すると涙ぐんでしまう。
もう、むぎゅーって抱きしめたい(笑)
日常生活、例えば電車の中とかたまたま目の前に立った方がお年寄りで、席を譲ってもあたりまえのように座られると、非常に心の狭い私は、(チッ、たかだか私よりウン十年先に生まれただけなのにな!)などと心の中で、いつも悪態をついているのですが、
もう、「ユキばあちゃん」には絶対に絶対に、
かなわない!!勝てない!
自分の未熟さや傲慢さを反省します。
お墓参りだって、恐山へのお参りだって、お参りするだけで気がすむのだから、それで充分じゃないかな。
私自身他人様のことをとやかく言えるような者ではありませんが、人の振り見て我が振り直せと言われるように、自分自身の存在の在り方を正すということがどれ程大変かは、お参り同様、やっている者でなければ分からないと思いますよ。
それが仏の教えだと勘違いさせてもですか?
なぜ仏教と名乗っている寺や僧侶がやるのかな?
他でやればいいのに。
間違いだらけの何とかじゃないけれど、仏の教えと言われても何のことかと思いますし、何をもって勘違いなのかも分かりません。
質問ですが、金科玉条でもおありとお考えですか?
>なぜ仏教と名乗っている寺や僧侶がやるのかな?
やってはいけないのですか? 先の質問に同じです。
私の考えは、自己という事態における存在の在り方が如何に在るかであって、他者云々は二の次ですね。 今回のユキばあちゃんのお参りに関しても何の問題もないことでしょう。
やってはいけないのですか? 先の質問に同じです。
私の考えは、自己という事態における存在の在り方が如何に在るかであって、他者云々は二の次ですね。 今回のユキばあちゃんのお参りに関しても何の問題もないことでしょう。
だから
他でやれば?
葬式とか墓とか寺とか住職とか。
やっている行為は仏の教えなのですか?
在家の人間から金品をもらい、なんだかわからない儀式をしてお不動さまだの、あの世だの、死んだ人間に向かってお経だの、むちゃくちゃすぎる。
仏教を名乗る僧侶が仏の教えを曲げる
のは大罰ですよ。
私達在家の人間にも責任はあるんです。
お寺は娯楽の場みたいですから。
間違いだらけのなんとかって、仏の教えは仏の教えです。