先日テレビを見ていたら、「コスプレ」ビルなるものが紹介されていました。「コスプレ」とは要するに、アニメやゲームの登場人物に扮装する遊びで、このビルには同好の士が大勢集まって、写真を撮りあったり、いろいろと交流したりしているわけです。いわば、子供の「ごっこ」遊びの進化・発展形態でしょう。
ということは、当然、「コスプレイヤー」(そういう専門用語があるらしい)は、自分が登場人物そのものではないことは重々承知の上(架空の人物なのだから)、「日常」の自分からのズレや離脱感覚を楽しむわけです(仮に登場人物に現実になってしまったら、楽しいだけですむわけがない)。それはつまり、いずれは「日常」に帰ることが前提の「離脱」ということでしょう。
では、登場人物そのものには決してなれないにしろ、「コスプレ的離脱」をずっとやっていたい者が世の中にいるとすれば、彼はどうしたらよいでしょう。「コスプレ」の「プロ」になる他ありません。
登場人物に極限まで接近する「リアル」さか、「コスプレ」アイデアの驚くような「ユニーク」さで、それなりの数の「ファン」の支持を得て、その支持が現金収入になるところまで持ち込むということです。いわば、彼を中心とする「コスプレ共同体」が出来て、その共同体が彼の生活の面倒を見て、メンバーは彼の「コスプレ」を鑑賞したり、そのテクニックを教えてもらって満足を得る、というわけです。
これは、「成仏」というアイデアを考えるよい例になるだろうと私は思います。
私たちは、決して「成仏」できません。どうなると「成仏」なのか、現実の例(ゴータマ・ブッダ)がとっくの昔に失われている以上、わからないからです。
また、「成仏したとわかった」にしても、「わかった」時点で誤解です。なぜなら、「わかった」その時、当人が何者なのかわからないからです。まだ人間なら「仏」になっていないでしょうし、すでに「仏」なら、もう「成仏」はありえないからです。
ということは、この世で起こる「成仏」とは、言葉で今に伝承されるゴータマ・ブッダの考え方や振る舞いに、限りなく近づいていく行為過程と考えるほかはありません。その近づき方のアイデアは人それぞれで、中には、他の絶大な支持を集めるアイデアを提示する者も出てくるでしょう。すると、彼をめぐる支持者のグループもできてくるわけです。
こう考えてくると、この世で「私は仏になった、成仏した」と断言する者は、ただの勘違いをしているにすぎません。現実に可能なのは、「仏」になろうと生きている限り努力し続ける意志と行為において、「仏のようなもの」になることだけです。
この歴然とした違いを冷厳に自覚していた、おそらく日本で唯一の仏教者が、道元禅師だと私は思います。
ということは、当然、「コスプレイヤー」(そういう専門用語があるらしい)は、自分が登場人物そのものではないことは重々承知の上(架空の人物なのだから)、「日常」の自分からのズレや離脱感覚を楽しむわけです(仮に登場人物に現実になってしまったら、楽しいだけですむわけがない)。それはつまり、いずれは「日常」に帰ることが前提の「離脱」ということでしょう。
では、登場人物そのものには決してなれないにしろ、「コスプレ的離脱」をずっとやっていたい者が世の中にいるとすれば、彼はどうしたらよいでしょう。「コスプレ」の「プロ」になる他ありません。
登場人物に極限まで接近する「リアル」さか、「コスプレ」アイデアの驚くような「ユニーク」さで、それなりの数の「ファン」の支持を得て、その支持が現金収入になるところまで持ち込むということです。いわば、彼を中心とする「コスプレ共同体」が出来て、その共同体が彼の生活の面倒を見て、メンバーは彼の「コスプレ」を鑑賞したり、そのテクニックを教えてもらって満足を得る、というわけです。
これは、「成仏」というアイデアを考えるよい例になるだろうと私は思います。
私たちは、決して「成仏」できません。どうなると「成仏」なのか、現実の例(ゴータマ・ブッダ)がとっくの昔に失われている以上、わからないからです。
また、「成仏したとわかった」にしても、「わかった」時点で誤解です。なぜなら、「わかった」その時、当人が何者なのかわからないからです。まだ人間なら「仏」になっていないでしょうし、すでに「仏」なら、もう「成仏」はありえないからです。
ということは、この世で起こる「成仏」とは、言葉で今に伝承されるゴータマ・ブッダの考え方や振る舞いに、限りなく近づいていく行為過程と考えるほかはありません。その近づき方のアイデアは人それぞれで、中には、他の絶大な支持を集めるアイデアを提示する者も出てくるでしょう。すると、彼をめぐる支持者のグループもできてくるわけです。
こう考えてくると、この世で「私は仏になった、成仏した」と断言する者は、ただの勘違いをしているにすぎません。現実に可能なのは、「仏」になろうと生きている限り努力し続ける意志と行為において、「仏のようなもの」になることだけです。
この歴然とした違いを冷厳に自覚していた、おそらく日本で唯一の仏教者が、道元禅師だと私は思います。