恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「コスプレ」仏教論

2015年04月30日 | 日記
 先日テレビを見ていたら、「コスプレ」ビルなるものが紹介されていました。「コスプレ」とは要するに、アニメやゲームの登場人物に扮装する遊びで、このビルには同好の士が大勢集まって、写真を撮りあったり、いろいろと交流したりしているわけです。いわば、子供の「ごっこ」遊びの進化・発展形態でしょう。

 ということは、当然、「コスプレイヤー」(そういう専門用語があるらしい)は、自分が登場人物そのものではないことは重々承知の上(架空の人物なのだから)、「日常」の自分からのズレや離脱感覚を楽しむわけです(仮に登場人物に現実になってしまったら、楽しいだけですむわけがない)。それはつまり、いずれは「日常」に帰ることが前提の「離脱」ということでしょう。

 では、登場人物そのものには決してなれないにしろ、「コスプレ的離脱」をずっとやっていたい者が世の中にいるとすれば、彼はどうしたらよいでしょう。「コスプレ」の「プロ」になる他ありません。

 登場人物に極限まで接近する「リアル」さか、「コスプレ」アイデアの驚くような「ユニーク」さで、それなりの数の「ファン」の支持を得て、その支持が現金収入になるところまで持ち込むということです。いわば、彼を中心とする「コスプレ共同体」が出来て、その共同体が彼の生活の面倒を見て、メンバーは彼の「コスプレ」を鑑賞したり、そのテクニックを教えてもらって満足を得る、というわけです。

 これは、「成仏」というアイデアを考えるよい例になるだろうと私は思います。

 私たちは、決して「成仏」できません。どうなると「成仏」なのか、現実の例(ゴータマ・ブッダ)がとっくの昔に失われている以上、わからないからです。

 また、「成仏したとわかった」にしても、「わかった」時点で誤解です。なぜなら、「わかった」その時、当人が何者なのかわからないからです。まだ人間なら「仏」になっていないでしょうし、すでに「仏」なら、もう「成仏」はありえないからです。

 ということは、この世で起こる「成仏」とは、言葉で今に伝承されるゴータマ・ブッダの考え方や振る舞いに、限りなく近づいていく行為過程と考えるほかはありません。その近づき方のアイデアは人それぞれで、中には、他の絶大な支持を集めるアイデアを提示する者も出てくるでしょう。すると、彼をめぐる支持者のグループもできてくるわけです。

 こう考えてくると、この世で「私は仏になった、成仏した」と断言する者は、ただの勘違いをしているにすぎません。現実に可能なのは、「仏」になろうと生きている限り努力し続ける意志と行為において、「仏のようなもの」になることだけです。

 この歴然とした違いを冷厳に自覚していた、おそらく日本で唯一の仏教者が、道元禅師だと私は思います。

「自戒」です。

2015年04月20日 | 日記
 一般に人が15分以上黙って話を聞いているのは、面白い話か役に立つ話、あるいは「確かにそうだね」と共感できる話だけです。

 したがって、たとえ「正しい」「真実の」「大事な」話をするにしても、それを他人に聞かせようというなら、「面白い」か「役に立つ」か「共感できる」話にアレンジしないかぎり、まず15分以上は持たないでしょう。

 坊さんにしろ、上司にしろ、教師にしろ、親にしろ、およそ「説教」なるものは、そもそも自分の話が「正しく」「真実で」「大事だ」と思う人によってなされるわけですから、ここにもアレンジがあるべきです。

 ところが、「説教」は往々にして、アレンジ抜きの、むき出しの「正しさ」「真実さ」「大事さ」で行われます。だから、「説教される」当人が、議論の余地なく自分が「悪かった」「至らなかった」と自覚しているレアなケースを除くと、ほとんど9割がたの「説教」は、長ければ長いほど、馬耳東風に聞き流されているのです。

 ちょっと考えてみれば、こんなことは自明で、誰だってわかりそうなことなのに、どういういわけか「説教」している当人が自覚することは極めて稀です。というより、「説教」しているうちに、程度の差はあれ、大抵の人は次第に自己陶酔的状態になっていくことが多いのです。

 思うに、「正しく」「真実の」「大事な」話をしていると思い込んでいる人は、話しているうちに自分が「正しく」「真実の」「大事な」人になったような気がしてくるのでしょう。

 ということは、「説教」は、それをしている人にとって快感なのであり、もっとも洗練された「娯楽」(つまり「娯楽」と気が付かない)でしょう。

 霊魂やあの世や超能力の話も所詮は「娯楽」以上に出ないにしろ、これが「説教」と結びつくと危険なのは、「説教」する人間がそれを「娯楽」だと思う余地が完全に消滅するからです。それはもはや「正しく」「真実の」「大事な」イデオロギー以外になりようがないわけです。

 その話は聞く人にとって面白いのか、役に立つのか、共感できるのか。話し手は時々反省して、「正気」を保った方がよいと、私は思います。

追記:次回「仏教・私流」は5月21日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。

不順な春の駄弁

2015年04月10日 | 日記
 わざわざお寺に来られて神様の「存在」を熱弁なさる勇気と情熱に敬意を表して申し上げます。

 私は、「存在する」か「存在しない」かを問題にしているのではありません。問題にしているのは、「存在していると言える」のか、「存在しているとは言えない」のか、ということです。

 このとき、「存在していると言えない」ということと、「存在しないと言える」ということとは、まるで別のことです。なぜなら、何も「存在しない」なら、そもそも、それについて「言える」ことなど何も無いからです(「存在しないと言う」ことさえ不可能)。

 おわかりいただけるでしょうか? 私は、「存在」問題は言い方の問題、語り口の問題だと考えているのです。当然、誰にも一切何も語られないことは端的に「存在」せず(正確には「存在する」という言表が不可能)、語る本人以外の誰も理解しない「存在」は「存在する」と言うべきではない、と考えているわけです。

 私は、けっしてあなたがおっしゃる「神」の「存在」を否定しているわけではありません。あなたが「存在」を語る方法、その語り口は一定の条件の下でしか意味を持ちえず、その条件を共有しない者には、せいぜいファンタジーにしか聞こえない、と言っているのです。

 思うに、「神」に関して「存在」を語ることは、不可能なのではないでしょうか。「神は存在する」と言い方、すなわち「絶対者」たる「神」に、人間が共有するルール内でしか意味のない「存在」という語を結びつけることが、所詮無理筋でしょう。

 だとすれば、「神の存在」は文字通り自ら「啓示」するしかない、と私は思います。もしその「啓示」が我々に理解可能な言葉でなされるなら、「神の存在」は決してそのものとして開示されることはありません。

 私が理解する限りの仏教は、「存在」を開示する言語の機能を批判することで、「神」ならぬ「存在の彼岸」を示唆するだけです。私はそこに踏みとどまります。

 あなたのように「神」を語られることは羨ましい限りですが、それは、私が思い出したくもない10代の一時期に、自傷するように断ち切った欲望なのです。