パーリ語経典をよりどころとする、いま主に東南アジアでさかんな仏教をテーラバーダ仏教、または上座部仏教といいますが、以前は「大乗」仏教側が批判的に「小乗」仏教と呼んでいました。
その最も通俗的で人口に膾炙した解説は、「小乗」仏教は自分たちが悟るための修行ばかりに専念して、一切衆生を救おうとする慈悲に欠ける。そこで大乗仏教が興って、この欠点を克服したのだ、という語り口のもので、特に日本ではこの言い方が大いに流行りました。
私が聞いたことのある珍説の最たるものは、「日本では僧侶が結婚することで、衆生と一心同体になり、これはまさに大乗の究極の姿だ」という、驚き入った話でした。
これは完全に誤解です。東南アジアの僧侶は、僧院で修行しながら、多くの信者に接し、日常生活の悩みを聞き、アドバイスを与え、彼らとの信頼関係を日々更新しているのです。
一方、「慈悲行」に励んで、何も修行をしない「大乗」ならば、それはほとんど単なる慈善事業やボランティアとかわらず、僧侶が僧侶としてしなければならない必然性はありません。
私は今、日本の伝統仏教は、修行と慈悲の意味を自ら根底から問い直し、再定義する時期に来ていると思います。