恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

世間話あれこれ

2013年08月30日 | インポート

 私は今のところ、政治制度としては代議制民主主義にもとづく体制を支持しています。もちろん、今後直接制を組み込み、さらにネットの政治的意見を制度的に吸収していくメカニズムの導入、議会だけでなく行政への国民参加の方策づくりなど、常に改良を加える必要があるとは思うものの、基本的には代議制がよいと考えます。

 私が民主主義制度を支持する最大の理由は、次の三つの自由を他の体制と比較して、最も広汎に保証し、またそう保証することで成り立つ制度だからです。

 三つの自由とは、言論・表現の自由、思想・信条の自由、結社・集会の自由です。仏教徒として、宗教者として、この三つの自由は、死活的に重要です。私は、この「自由」を最大限に保証する政治制度を支持します。言いたいことを言えないような制度は認めてはいけません(いわゆる「ヘイトスピーチ」的言論には一定の規制の必要があると考えますが、それは極めて限定的な条件で行うべきです)。

 私が民主主義体制が最も優れていると考える最大の理由は、民主主義体制は、自らを否定する言論・思想・結社にも、自由を保証するからです。この体制の危うさはここにもあるのでしょうが、しかし、このような、国家が独善や思い上がりに陥らないために不可欠な装置は、民主主義体制にしか組み込まれていません。

 政治制度には「ましな」ものがあるだけで、「正しい」ものはありません。声高に「正しい」体制を主張するのは、妄想かナルシシズムにすぎません。

 私が国家主義や民族主義的主張を支持できないのは、これらの主張には自己反省する制度的回路が欠けているからです。というよりも、これらの主張は、自己反省しては成り立たないからです(「自分は間違っているかもしれない」と習慣的に反省しつつナルシスティックに生きることはできないでしょう)。

 昨今世間で目に付く「ウヨク」的主張で私が疑問なのは、日米安全保障条約や「核の傘」に「保護」されている現状をほとんど批判せずに、「国の誇り」を言挙げしているように見えることです。

 だからと言って、アメリカから「自立」して「ナショナリズム」に思い切り入れ込む度胸は、ほとんど誰にもないでしょう。もしこの種の「ナショナリズム」を貫徹するなら、最終的に核武装しなければなりません。なぜなら、「ナショナリズム」は根本において戦争する覚悟を持たなければならないからです。その覚悟がないなら、所詮「ナショナリズム」は子供の火遊びです。大人(たとえばアメリカ)に叱られて終わりでしょう。

 しかし、国家単位の「総力戦」に展望を持てるのは、食料とエネルギーなどの基本的資源を自給できる国だけです。それなしで戦争するなら短期決戦以外に道はなく(太平洋戦争時の「大日本帝国」)、今や短期決戦で勝敗をつけようと思うなら、核兵器を準備しておくほかないでしょう(某独裁国家的発想)。これは完全に馬鹿げた錯覚です。

 現在もこれからも、日本は通商国家、つまり商売で生きていく以外ない国です。商人の成功に必要なのは、知恵と愛想と勤勉さであり、それを最大限効果的に発揮できるのは、争いごとの無い環境下でです。

 したがって何より大事なのは、争いごとの兆候に敏感で、その原因を除去する積極的工夫を積み重ねることです。つまり、紛争予防に努めることが、商売人の最大の自衛なのです。

 商人も店は守らねばならないでしょう。が、商売人が鉄砲をちらつかせてまともな商売はできません。そういうものは普段目立たぬように、つまりは必要最小限にしておくのが基本です。

 また、商人は、仲間やお得意様が喧嘩を売られたからといって、その喧嘩にすぐに飛び込むような愚を犯すべきではありません。商人の本領は立ち回りのうまさです。なるべく巻き込まれずに、喧嘩がおさまるように仕掛けを打つのが、知恵のみせどころでしょう。その知恵と工夫が先々の商売の信用になっていくと考えるべきです。とにかく感情的になることが知恵の敵とわきまえることです。

 そんなことで「国の誇り」はどうなるのかと言われそうですが、商人には商人の誇りがあるはずです。「お客様にも、手前どもにも、世間様にも、それぞれ結構でありますように」尽くすことこそ、商人の誇りというものです。それにくらべれば、一方的な自己愛的「国の誇り」など、時代錯誤の「サムライ」妄想です。

 民主主義の政治制度は、運用にとにかく手間と時間がかかるものです。一方で経済システムは、グローバル化にともないその回転が桁外れに高速化しています。このギャップが民主主義体制への民衆のいら立ちとなります。いら立ちが高じれば、経済の速度に合わせて民主主義体制を節約したくなるかもしれません(要するにトップダウンで速く「決められる」政治。その究極は独裁)。

 しかし、思うに、民主主義の手間は、必要なコストと割り切るべきであり、経済のスピードはもはや個々の人間が追いつける速度ではなくなっていると考えるべきでしょう。

 おそらく、今後の人間と社会により大きなダメージを与えるのは、民主主義の手間ではなく、経済の速度です。私は、民主主義体制を改良しつつ擁護して、経済の速度を効果的に牽制する手段を持つほうがよいだろうと、いま考えています。


独学と独善

2013年08月20日 | インポート

「神を見た」とか「悟った」という当人の体験それ自体は、それが錯覚か否か、本人も含め誰にも区別できません。当人とは別の誰かが何らかの方法で同意してはじめて「奇跡」「悟り」として語られるようになるのです。まさにこの点に宗教が共同体、つまり教団を形成する必然性があるわけです。

 イエスにしてもブッダにしても、彼ら以前にすでに「ユダヤ教」や「バラモン教」と呼ばれる宗教共同体があり、その存在を前提に、今度は自らの新しい共同体(「十二使徒」「十大弟子」など)を作り出しました。

 では、宗教において(ここでは「宗教」の定義は問いません)、「独学」は可能でしょうか? この問いを言い換えると、この「独学」が「独善」に陥る危険は無いのか? ということです。

 学問において、あるいは教養や知的興味において、「宗教」の独学は可能でしょう。なぜなら、「学問」なり「知識」の場合は、学問的・知識的に整理され体系づけられた言説の集積がすでにあり、それが「学会」のような共同体から相対的に独立した、原則として誰にもアクセス可能な基準として機能しています。

 である以上、「独学」の言説もその基準によって計られるからです。優秀な「独学」説は、ユニークな「新説」と評価され、そうでないものは「独善的妄説」とされるでしょう。

 ところが、原理的に、あるいは定義として、言語の埒外の領域(いわゆる「超越的」「絶対的」領域)との関係の仕方が最重要のテーマである「宗教」は、「独学」の「独善」性を明確に判断する基準(完全に言語化された基準)を持ちません。それはひとえに、教団内部の暫定的な手続き(たとえば「奇跡」の承認、「印可証明」)において、承認されるか否認されるかにかかるのです(「正統」と「異端」)。

 したがって、当然、教団が間違う可能性もあります。教団が「独善」と否定した言説が、後から実は正当だったと変更されることもあり得るのです(それは学問の世界でもそうでしょう)。

 
 ただし、そうであっても、変更するのはあくまで「教団」であり、「独学」者本人が「独善」性を否定できるわけではありません(学問の世界なら、学会の意向がどうであろうと、「正しいものは正しい」と主張できるでしょう)。

 つまり、教団をまったく否定した「独学」宗教者は、自身の「正しさ」を主張する根拠を確保できないのです。彼は、自分が「独善的な間違い」を犯していないかという疑念を決して払拭できません。というよりも、間違いなのかどうかが、「独学」であるかぎり、いつまでも不明のままでいるほかないのです。

 私は何も、何らかの立場で教団に属さない限り「宗教」にアクセスできないと言いたいのではありません。そうではなくて、たとえ間違うことがある「教団」「宗教的共同体」であったとしても、その存在を前提としない「独学」は、「宗教」においては不可能だと、そう思うのです。つまり、それは、学んでいるのかどうかさえ、わからないのです。

 


猛暑の戯れ言

2013年08月10日 | インポート

 いわゆる「芸能界」には、かつて「スター」と呼ばれた人々がいました。たとえば、石原裕次郎とか吉永小百合、三波春夫や美空ひばりなどの人達です。

 この人たちは、容姿や歌唱や演技などの卓抜した資質・能力を備え、ある日忽然と舞台やスクリーン、テレビに登場します。そして忽ち民衆の圧倒的な欲望と支持を集め、彼らは天上に押し上げられ、「スター」として君臨したのです。

 そのような彼らは「スター」として、民衆の欲望の視線を一身に浴び、それを才能と個性で体現し反射することで輝いたといえるでしょう。

 彼らの私生活やデビューまでの過程は、あくまで「スター」となった後に好奇心の対象となるのであって、まずは「スター」として出現することが先決なのです。

 このような、世代や社会階層などを超えた、広汎な民衆の支持を得ることは、要するにある程度統一された欲望の対象となることです。それは、民衆に共通する欠乏に由来するでしょうから、「スター」はそういう欲望が存在した時代、即ち戦後から1970年代、「アメリカのような豊かな生活」が大方の理想として機能していた時期のものと言えるでしょう。

 この事情が変わるのは、1970年代初頭に始まった「スター誕生」というテレビ番組の登場です。この番組は、一般人を材料に「スター」を製造する過程を見せてしまったのです。これは明らかに、容姿や能力などの資質をひっさげ、突如出現して輝くという、「スター」の在り方とは異なります。

 たとえば、山口百恵などは、その上昇過程がほぼ完全に可視化されていました。彼女が「菩薩」と称されたように、その「スター」性はまだ維持されていたものの、このような可視化は「降臨」し「君臨」することを損ないます。これぞ、「アイドル」の始まりでしょう。

「アイドル」の原意は「偶像」です。つまり民衆の欲望がイメージとして作り出したものです。つまり、その根本において、「スター」に不可欠な「才能」「資質」という輝くための実質的な「光源」が、原理的に必要とされません。必要なのは民衆の欲望を喚起する「きっかけ」なのです。

 同時に、民衆の側にも自明で共通の欲望、つまり「アメリカのような豊かな生活」への欲望が、1970年代に入り低減していきます。つまり、その欲望が基本的に満たされ、「一億総中流化」したのです。1970年の政府調査で、9割の人が自分の生活を「中流」と答えたと言います。

 ということは、これ以後の「芸能界」は、未知の特別な才能を「世に出す」のではなく、民衆の欲望を検索し、扇動し、それを製品として提供しなければならなくなります。つまり、「アイドル」とは業界のプロジェクトなのであり、人物ではないわけです。

 それをあからさまに示したのが「ピンクレディー」でしょう。彼女らに過去の「スター」のような資質が乏しいことは、最初から明白でした。しかし、プロジェクトとして徹底的に商品化したことで、それまでとは別次元の成功をおさめました。ここで二人の女性に求められたのは、プロジェクトが割り当てた役割を忠実に果たすことなのであり、それは結局、民衆の欲望を自ら反射する「鏡」ではなく、それを吸い取り続ける「スポンジ」のようになることだったでしょう。

 1980年代の代表的「アイドル」である松田聖子にも同じことが言えると思います。彼女や同時期の中森明菜などの特徴は、スキャンダルが「アイドル」にとっての致命傷にならず、場合によってはその「アイドル」性を強化することです。

「スター」にスキャンダルは禁物です。広汎な民衆の欲望を反射しながら君臨するためには、いわば鏡のようにそれ自体無色でなければなりません。スキャンダルは文字通り「汚れ」になってしまうのです。

 しかし、「アイドル」はプロジェクトなのですから、プロジェクトが優秀なら、材料の多少の傷は問題になりません。むしろその変異が、処理や加工の仕方によっては、全体の活性化に役立つこともあるわけです。

 私が「アイドル」に見分けがつくのは、松田聖子までです。それ以後、修行生活に入り、今や誰一人区別がつきません。

 しかし、「アイドル」の在り方は、今やそのプロジェクト性が誰の目にも明白で、民衆は業界の仕掛けに参加して、それぞれの欲望に合わせて「アイドル」をデザインするようになっています。

 最近の「アイドル」グループの「総選挙」はその意味で見事な仕掛けです。しかし、私が最近目にして本当に驚いたのは、「初音ミク」なる「アイドル」です。これは人間を材料としない、正真正銘の「アイドル」、すなわちイメージのプロジェクトなのでした。

 これが成功するということは、最早アイドルは、民衆が自作自演できるでしょう。つまり、プロジェクトに人間が不要だということになれば、それは逆に言うと、どんな人間でも材料にできる、ということです。プロジェクトさえ当たれば、歌唱力どころか「カワイイ」容姿さえ必要ないでしょう。

 プロの芸能界の外で、アマチュアが趣味で何らかのサークルを立ち上げるように、ある程度の人数を集めて「プロジェクト」を始めればよいわけです。すでに「ご当地アイドル」なるものが存在するらしく(青森に草分けがいるらしい)、ならば遠からず、「手作りアイドル」とか「仲間内アイドル」のようなプロジェクトが現れるかもしれません(ひょっとしたら、もういるのか?)。

 さて、戯れ言のシメ。「スター」は一神教的、「アイドル」は仏教的。お粗末でした。