私は今のところ、政治制度としては代議制民主主義にもとづく体制を支持しています。もちろん、今後直接制を組み込み、さらにネットの政治的意見を制度的に吸収していくメカニズムの導入、議会だけでなく行政への国民参加の方策づくりなど、常に改良を加える必要があるとは思うものの、基本的には代議制がよいと考えます。
私が民主主義制度を支持する最大の理由は、次の三つの自由を他の体制と比較して、最も広汎に保証し、またそう保証することで成り立つ制度だからです。
三つの自由とは、言論・表現の自由、思想・信条の自由、結社・集会の自由です。仏教徒として、宗教者として、この三つの自由は、死活的に重要です。私は、この「自由」を最大限に保証する政治制度を支持します。言いたいことを言えないような制度は認めてはいけません(いわゆる「ヘイトスピーチ」的言論には一定の規制の必要があると考えますが、それは極めて限定的な条件で行うべきです)。
私が民主主義体制が最も優れていると考える最大の理由は、民主主義体制は、自らを否定する言論・思想・結社にも、自由を保証するからです。この体制の危うさはここにもあるのでしょうが、しかし、このような、国家が独善や思い上がりに陥らないために不可欠な装置は、民主主義体制にしか組み込まれていません。
政治制度には「ましな」ものがあるだけで、「正しい」ものはありません。声高に「正しい」体制を主張するのは、妄想かナルシシズムにすぎません。
私が国家主義や民族主義的主張を支持できないのは、これらの主張には自己反省する制度的回路が欠けているからです。というよりも、これらの主張は、自己反省しては成り立たないからです(「自分は間違っているかもしれない」と習慣的に反省しつつナルシスティックに生きることはできないでしょう)。
昨今世間で目に付く「ウヨク」的主張で私が疑問なのは、日米安全保障条約や「核の傘」に「保護」されている現状をほとんど批判せずに、「国の誇り」を言挙げしているように見えることです。
だからと言って、アメリカから「自立」して「ナショナリズム」に思い切り入れ込む度胸は、ほとんど誰にもないでしょう。もしこの種の「ナショナリズム」を貫徹するなら、最終的に核武装しなければなりません。なぜなら、「ナショナリズム」は根本において戦争する覚悟を持たなければならないからです。その覚悟がないなら、所詮「ナショナリズム」は子供の火遊びです。大人(たとえばアメリカ)に叱られて終わりでしょう。
しかし、国家単位の「総力戦」に展望を持てるのは、食料とエネルギーなどの基本的資源を自給できる国だけです。それなしで戦争するなら短期決戦以外に道はなく(太平洋戦争時の「大日本帝国」)、今や短期決戦で勝敗をつけようと思うなら、核兵器を準備しておくほかないでしょう(某独裁国家的発想)。これは完全に馬鹿げた錯覚です。
現在もこれからも、日本は通商国家、つまり商売で生きていく以外ない国です。商人の成功に必要なのは、知恵と愛想と勤勉さであり、それを最大限効果的に発揮できるのは、争いごとの無い環境下でです。
したがって何より大事なのは、争いごとの兆候に敏感で、その原因を除去する積極的工夫を積み重ねることです。つまり、紛争予防に努めることが、商売人の最大の自衛なのです。
商人も店は守らねばならないでしょう。が、商売人が鉄砲をちらつかせてまともな商売はできません。そういうものは普段目立たぬように、つまりは必要最小限にしておくのが基本です。
また、商人は、仲間やお得意様が喧嘩を売られたからといって、その喧嘩にすぐに飛び込むような愚を犯すべきではありません。商人の本領は立ち回りのうまさです。なるべく巻き込まれずに、喧嘩がおさまるように仕掛けを打つのが、知恵のみせどころでしょう。その知恵と工夫が先々の商売の信用になっていくと考えるべきです。とにかく感情的になることが知恵の敵とわきまえることです。
そんなことで「国の誇り」はどうなるのかと言われそうですが、商人には商人の誇りがあるはずです。「お客様にも、手前どもにも、世間様にも、それぞれ結構でありますように」尽くすことこそ、商人の誇りというものです。それにくらべれば、一方的な自己愛的「国の誇り」など、時代錯誤の「サムライ」妄想です。
民主主義の政治制度は、運用にとにかく手間と時間がかかるものです。一方で経済システムは、グローバル化にともないその回転が桁外れに高速化しています。このギャップが民主主義体制への民衆のいら立ちとなります。いら立ちが高じれば、経済の速度に合わせて民主主義体制を節約したくなるかもしれません(要するにトップダウンで速く「決められる」政治。その究極は独裁)。
しかし、思うに、民主主義の手間は、必要なコストと割り切るべきであり、経済のスピードはもはや個々の人間が追いつける速度ではなくなっていると考えるべきでしょう。
おそらく、今後の人間と社会により大きなダメージを与えるのは、民主主義の手間ではなく、経済の速度です。私は、民主主義体制を改良しつつ擁護して、経済の速度を効果的に牽制する手段を持つほうがよいだろうと、いま考えています。