恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

開山しました。

2022年06月01日 | 日記
 去る5月1日、今年も恐山は開山の日を迎えました。

 境内にただ1本の桜は満開でしたが、ゴールデンウィーク中は、季節外れの冷え込みで驚いてしまいました。

 にもかかわらず、今年は昨年の倍くらい、ウイルス禍前の6割程度の参拝をいただきました。大変嬉しく思った次第です。以下は、冷え込みの上に雨模様となった5月1日、参拝の方々に申し上げたご挨拶です。



 皆様、いくら本州最北とはいえ、5月にこの冷え込み、さらに雨の中、お参りをいただきまして、誠に有り難く存じます。

 ざっと拝見したところ、皆様マスクをお召です。このような生活も3年となりました。慣れか経験か、いささか先の見通しがついて来たようにも感じられますが、まだまだ油断はできない昨今です。

 その心配が尽きないうちに、今度はいきなり、いつの時代の話かと思うような戦争です。しかも、今や遠い国の戦いが、我々の生活を直接脅かしているのです。人々が戦火に苦しむ姿を連日目の当たりにして、自らの無力をつくづくと思う次第です。

 考えてみれば、東日本大震災以後を考えても、度重なる天災があり人災があり、今般の疫病があり、この戦争です。そのたびに、市井の私たちは自らできることの少なさを思う他ありませんでした。

 力を貸す自由な時間のある方、必要とされる能力のある方、提供できる資財のある方は、それぞれに苦境になる人々の力になっていただければ、それは大変結構なことだと思います。

 しかし、今それを持ち合わせていない人は、どうしたらよいでしょうか。できることは無いのでしょうか。

 天災、人災、事件事故、戦争などで、突然大切な人と引き裂かれるように別れなければならなかった方々が大勢おられます。人に命があっという間に奪われ、遺された人々には深い喪失のダメージがいつまでも消えません。

 私たちが、今すぐその方々の力になれない事情なら、その奪われた命を思いつつ、まずは自分に身近な人、さらに縁のある人の命を大切にしたらどうでしょうか。そして、そのようなご縁で織りなされる自身の日常生活を慈しんだらよいと思うのです。それは、ついには、奪われた命の重さと大切さを実感する営みなのです。

 人を大切にすると言う時、私は是非皆様にしていただきたいことがあります。それは、自分の思うところを言う前に、相手の話を聞いていほしいということです。自分の言い分を主張する前に、相手が何を考えているのかを、丁寧に受け止めてほしいのです。

 そうして、自分が正しいと思うこと・善いと思うことが、相手にとっても本当に正しく善いのか、静かに考えてほしいと思います。

 世の中に取り返しのつかない厄災をもたらすのは、「悪」ではなく「正義」です。「自分は絶対に正しい」と思い込む者が暴走すれば、何が起こるかは歴史が証明し、我々が今ウクライナで目撃していることです。

 まず相手の話を聞くこと、自分の正しさを疑える自省心を持つこと、もうこれ自体が反戦の行動であり、自由と公正さを守る力です。

 これは、生きている人だけのことではありません。亡くなった大切な方を想い、時に「あの時は自分の方が間違っていた」と気がつくことも、それ自体が深い深い供養であり、命を尊ぶ営みだと私は思います。

 本日は、それぞれにご供養の御霊がおありでしょう。どうかそのご供養の節、いわれなく奪われていった命に思い寄せて、ご焼香を願えれば、恐山と致しましては大変ありがたく存じます。

 皆様、本日はお参り誠にお疲れさまでございました。