恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

にんげんっていいか?

2010年10月31日 | インポート

 何度か耳にしたことのある、新手の童謡かと思っていた「くまの子みていたかくれんぼ・・・」ではじまる歌が、かつての名作アニメのテーマソングだということを、つい最近知りました。

 実は恥ずかしながら、この歌を初めて聴いた時、私は思わず涙ぐんでしまいました(正直言うと、私は涙もろい方)。

 この歌は、「いいな、いいな、にんげんっていいいな」というサビの一節に続いてこうなります。

「おいしいおやつに、ほかほかごはん、こどものかえりを待ってるだろな。ぼくもかえろ、おうちにかえろ」

 私は、最初別になんの感慨もなく、この歌を聴いていたのですが、この「・・・ほかほかごはん、こどものかえりを・・・」まできて、ちょっと違和感を覚えたのです。当然ここは「ぼくのかえりを・・・」と続くのだろうと、思うともなしに思ったからでしょう。ところがさにあらず、ここは「こども」となり、直後に「ぼくもかえろ・・・」となるわけです。そして、私の涙腺を痛撃したのは、まさにここです。

 この「ぼく」は幼さの無知ゆえに、「こども」にはみな「おいしいおやつとほかほかごはん」が用意されていると信じているのです。それが「おうち」というものだと。彼には、自分をめぐる人々と世界に対する、自覚以前の信頼があるということです。それが「こども」の世界というものなのです。そして、 どんな「こども」にも同じような「おうち」あるはずだという、この無知と信頼に身をゆだねて、はじめて安心して「ぼくもかえろ」となるのでしょう。

 しかし、この「ぼく」はまもなく気がつくことになります。「おいしいおやつに、ほかほかごはん」は必ずしもどの「こども」にも保証されているわけではないことに。そういう「おうち」ばかりではないことに。それに気づいた時の、刺すような痛み、それが全身にゆっくりひろがっていくような不安。おそらく、「ぼく」はこのときはじめて、「他者」と「社会」に出会うことになるのでしょう。同時にそこから、「自己」の孤独と焦燥が始まるのです。

 この歌は、そうした「他者」と「自己」を発見する前の、まったく自覚の外にあるという意味での、透明な「無知」と「信頼」だけがもたらす、あの絶対的な「幸福」を想い起させるのでしょう。

 ただ、しかし、我々は、それを失うことでしか、「にんげん」になれないのです。


ちょっとした感想

2010年10月20日 | インポート

 以下は、ある寺が主宰する坐禅会の記念誌に寄稿したものです。こういう話は珍しいでしょうから、転載してみます。

坐禅という道しるべ

              

 〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで、まことにおめでたい、また一曹洞宗僧侶として、ありがたいことだと思う。

 副住職さんとは永平寺の入門が一緒で、その縁もあってか、会員の皆さんの前で話をさせていただいたり、ご一同がはるばる恐山まで参拝に来て下さったりと、今では何だか他人という気がしない。

 そこで、方々で行われている坐禅会の様子を時々見聞して、私が個人的に感じていることを、この機会に聞いていただきたいと思う。

◆   ◆   ◆

 以前、あちこちのお寺で参禅経験があるという初老の人と話をしていたら、彼がこんなことを言った。

「南さん、坐禅というのは人を傲慢にしますな」

 これはおかしいだろう。普通は、坐禅を続けていれば、「我がとれて傲慢でなくなっていく」という筋書きになるはずである。

 ところが、彼は逆だと言うのである。

「私は最初、勉強だと思って、いろいろなお寺の坐禅会に参加していました。しかし、そのうち通うのをやめて、家で坐禅を続け、折に触れて知り合いのお坊さんに直接指導してもらうようにしたのです。実を言うと、お寺の坐禅会もいいのですが、かなりの割合で、だんだん居心地が悪くなっていくのです」

 坐禅会の「居心地」とは何のことだろうと思っていると、

「それというのもですねえ、どの参禅会に行ってもたいてい、何というか、すでに五年十年坐ってます、みたいな『古株』の人がいるんです。お寺によってはこの人たちが初心者の指導を任されているところさえあります。それはそれでよいのですが、どうかするとですね、彼らがときとして、初心者とか新参の者に対して、なんとなく尊大な、横柄な感じになるんです。本人は気がついていないかもしれません。しかし、初心者や新参の者にはそう感じることが多いのです」

 彼は私の表情を伺うようにして、ニヤッと笑った。

「もうひとつイヤなのはですね、四十人、五十人くらいの大きい参禅会になると、住職や指導してくれる和尚さんをめぐって、派閥みたいなものができてくるんです。それで寵愛を競うみたいな。ね、イヤでしょう」

◆   ◆   ◆

 思い当たるフシがある。何も参禅会に限らない。修行僧と師家(指導者)が集まる道場でも似たようなことがある。どうして、そんな馬鹿々々しい話になるのか。

 まず思うのは、「尊大」になる人というのは、坐禅をすることがとても立派なことだと思い込んでいるのではないかということだ。なぜ立派かというと、坐禅が「宇宙の真理」や「真実の自己」などと称する、さらに立派なものに到達すること、あるいはその立派なもの自体になることだと、考えているからだろう。

 だから、それを教えてくれる指導者は大事なのであり、その人から「親しく」教えてもらうことは、「特別待遇」になるのだろう。

「尊大」な人がこのとおり意識しているかどうかは別としても、こういう構図があるだろうし、それがないかぎり、少なくとも「派閥」なんぞはできないだろう。

 正直くだらないなと、私は思う。「宇宙の真理」や「真実の自己」というアイデアを否定しようというのではない(賛成もしないが)。しかし、たとえそれらがあったとしても、「宇宙の真理」を知ったら「尊大」になり、「真実の自己」になったら「派閥」ができましたと言うのでは、出来の悪い冗談である。

 坐禅を続けていたら、気持ちが安らかになり、人に優しくなれましたというなら、私もわかる。そして、それで十分だろう。

 生きていれば、悲しいことも苦しいこともある。自分の努力でどうにかなることも、ならないこともある。そういう必ずしも簡単でない人生を、ともかくまともに歩いていこうというときの、その道しるべがお釈迦様や道元禅師の教えであり、坐禅もまたそうである。これさえやっていれば万事OKという「ゴール」ではないのだ。

 私は、〇〇寺参禅会の皆さんが、坐禅を通じて、何かしら生きるのが楽になり、ご自身をめぐる人の縁を豊かにしていけることを、心から願っている。また、方丈様も副住職の彼も、同じ気持ちだろうと信じている。

 

 

 まあ、何事であれ、直立二足歩行して言葉を話す動物が考えたりやったりしていることを、それだけがすべてであるかのように大げさに崇め奉ることは、まず間違いの元であり、よしたほうがいいと思います。                         

                                        追記:次回の講座「仏教・私流」は、11月29日(月)午後6時半より、東京赤坂・豊川別院にて、行います。

    

 


言い訳的身の上話

2010年10月10日 | インポート

 今まで私が何冊か本に書いたり、講演などで話したりしてきた内容の、基本的なアイデアや発想は、そのほとんどが10代終わりから20代の間に出てきたものです。

 当時は無知蒙昧の若造でしたから、自分が問題にしているテーマに、何かちょっと使えそうなアイデアを思いつくたび、こんなことを思いつくなんて、オレは天才ではないかと、ひとりで興奮していました。

 とはいえ、少々知恵がついてくれば、さすがに自分程度の人間が思いつくことは、ずっと昔に先賢がより鮮やかに、かつ徹底的に考え抜いていると、身にしみてわかってきますから、「天才」妄想は早々に醒めました。が、それでも、自分など及びもつかぬ賢人がかつて考えていたことと、つながるような考えに思い到ったことは、それはそれで嬉しい気持ちがしたものです。

 まあ、実際には、思いついたことにしても、それなりに使えたのは、百のうち二、三というところでしたが(特に夜中に思いついた「天才的アイデア」は、ほぼ例外なく、朝には愚にもつかぬタワゴトとわかる)、質はともかく数として、アイデアと問題設定の産出能力は、20代で抜群、以降は衰える一方でした。

 そのかわり、30代に入って身についてきたと思われるのは、一種の構想力であり、構成力です。つまり、思いついたアイデアに、あちこちから調達してきた道具を使ってアプローチし、それなりの言説に仕立て上げる力です。私が永平寺の機関誌や、曹洞宗内の刊行物に論考を発表し始めたのも、この頃からでした。

 ところが、そういった書き物や講演は、自分の思い入れを、ともかく力ずくでモノにしたような代物でしたから、読み手や聞き手に妙なインパクトを与えはするようなのですが、どうも話の本筋が通じなかったような気がしました。

 40代になって、書くにしても話すにしても、宗門の外に位置する不特定多数の人々に相対する機会が増えてきて、ようやく少しずつつ持ち合わせるようになったのが、いわばコミュニケーション能力だと思います。あるいは、話を通じるようにさせる、インサイドワーク的なテクニックです。

 今でも、自分自身に内発的なものを感じなければ、書いたり話したりできないことは同じですが、出版する際に編集者と行う共同作業や、講演等で出会う様々な経歴の人たちとの対話を通じて、40代以降、アイデアを伝達するという意味で、自分の言葉により意識的になったとは感じています(それにしては、相変わらずわかりにくいじゃないか! と叱られることが多いですが)。

 というわけで、ここまで、得たものあり失ったものありの30年でした。では、今、50代に突入して、如何!?

 正直言って、逆さにして振っても何も出ません。有り難いことに、最近でも、いくつかの出版社から、本のお誘いをいただいたり、ときおり方々から講演の申し込みをお聞きするのですが、突飛な発想力も勢いまかせの力技も、大向こうにアピールできるアレンジ能力も、完全にピークアウトしていて、ご意向にそえないことばかりです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、今なお、何かしなければならない、何かできるという意識だけは、なおも頭の芯の部分をじりじり焼いている。これは、はて、どうしたものか?

 以上、このところ不義理を重ねている皆様に言い訳とお詫びです。すみません。

追記:「なおこ」さんからコメントをいただいたとおり、11月に『語る禅僧』の文庫版が出ます。単行本は古書店で一時期、驚くほど法外な値段で売買され、著者の私にも苦情がきたりしましたが、ようやく今後は、ご迷惑をおかけせずにすみそうです。興味ある方々には、よろしくお願いいたします。また、高額の古書を買っていただいた皆様、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。