恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

油断できない

2021年01月30日 | 日記
 修行僧時代、旧約聖書を読んでいて(まあ、趣味です)、やっぱりこれは油断できない書物だなあと、つくづく思ったのは、『ヨブ記』と『コーヘレト書』を読んだときです。ユダヤ・キリスト教信仰の基盤である聖書に、両書があることは、この信仰の深淵を私に垣間見せるものでした。

『ヨブ記』とは、極めて敬虔で「完全な」信仰心を持つ、財産家の家長ヨブなる人物の話です。

 この話がすごいのは、始まり早々に、こともあろうに悪魔が登場して、神(ヤハウェ)に面会するのです。そして、悪魔は神に、あのヨブは実に真面目で敬虔な信者だが、一度酷い目に遭わせて、その信仰が折れないか試してみたらどうかという、実に悪魔らしい提案をします。

 すると、驚くべきことに、神は断るどころか、よし、やってみようと、悪魔に同意して、その酷い目を彼に委託するのです。実に無茶苦茶です。

 その結果、ヨブは全財産を失い、愛する者を奪われ、自身は重篤な病に陥ります。

 それを知った友人たちは、早速彼を見舞いにやってきて、彼を慰めようとします。

 ところが、自らの存在を呪い、自分の信仰に疑問を持つようになったヨブは、激しい苦悩の中で、訪問してきた彼らを相手に、激論を交わすことになります。

 ヨブは神を呪うわけではありませんが、自分の存在を呪うことは、神による万物の創造という根本的な信仰に、疑問を呈する行為と言えるでしょう。
 
 友人たちは、そのような彼の不信を咎め、この不幸の原因は神の意志ではなくヨブ自身にあるのではないかと考え、ヨブに反省と改心を求めます。

 しかし、彼は頑としてその説得を受け容れず、神に対する冒涜寸前の怒りを吐露します。

 彼の疑惑と怒りは、要するに、これだけ敬虔かつ真面目に神への信仰を貫いて来たのに、なぜこのような報いを受けるのかということでしょう。実にごもっともな話です。

 友人たちがどうしてもヨブを説得できず、改心させられないままでいると、ついに最後に、神が出て来て、発言を始めます。

 神は姿を見せないまま、一方的に言葉を畳みかけ、ヨブを圧倒します。それは、ヨブの不幸の原因を説明するわけでも、自分の行為の正統性を主張するわけでもありません。神はただ、この世界と万物を創造し支配する、己の絶対的な力を誇示するだけなのです。

 この力の誇示を執拗に繰り返し、最後はヨブを屈服させてしまいます。彼は言います。

「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」

 このエピソードでわかるのは、神への信仰は徹頭徹尾、取引ではない、ということです。「よい行いをすれば、よい報いがある」という互酬の論理が一切通用しないのが、神との関係なのです。

 神に裏切られても構わない。それどころか、神に裏切られるのは当然で、そもそも裏切りと考えるべきではない。人間は神の振る舞いについて説明を求める立場にない。それが、神への信仰の根本にあるべき覚悟なのでしょう。

 ということは、神は約束をしない、神との契約は実は契約ではない、ということになるだろうと、私は当時考えて、慄然としたものです。

 もう一つの『コーヘレト書』もユニークです。冒頭がすごい。

「空の空、とコーヘレトは言う。空の空、いっさいは空、と」

 まるで般若系の仏教経典のようです。ちなみに、コーヘレントとは、ダビデの子であるソロモンになぞらえた主人公です。

 もちろん、ここでの「空」は仏教的な「無常」「無我」「縁起」の教えを言うのではありません。むしろ虚無の意味に近く、人生や世界の不条理、幸不幸の無意味、善悪の無根拠性などを延々と述べ続けるのです。一種の厭世思想とも言えるでしょう。

「日の下で労苦するいっさいの労苦は、人間にとっていったい何の益があろう」
「賢者の目はその頭にあるが、愚者は暗闇の中を歩むとのだ、と。だが、私は知った、そのどちらも同じ運命に臨むことを」
「私は、今なお生きる生者より、すでに死んだ死者たちを讃えよう。いや、その両者よりも、今まで存在しなかった者を幸いと(讃えよう)」

 さらにこんなことまで言います。

「わが空なる日々、私はすべてを見きわめてた。その義ゆえに滅びる儀人がおり、その悪ゆえに生きながらえる悪人がいる。あなたは義(ただ)し過ぎてはならない。あまりに賢くあってはならない。どうして自滅してよいだろう。あなたは悪過ぎてはならない。愚かしくあってはならない。時をまたずに、どうして死んでよいだろう。こちらも把握し、あちらにも手を休めないことがよい。神を畏れるものはどちらにも拘泥しない」

 これはほとんど、ご都合主義的処世術を説くニヒリストの言い分でしょう。

 そして、最後にこう言います。

「これらに加えるに、わが子よ、自戒せよ。書物を多く作ってもきりがない。学び過ぎは身体の疲れ。最後のことば。いっさいは聞かされている。神を畏れ、その戒めを守れ」

 これは要するに、人間の存在とその認識は一切虚妄なのであり、神のみが絶対的真理なのであり、それに無条件で従え、という意味でしょう。この書で繰り返される「空」の事例は、その「真理」の絶対性を強調する道具なのです。

 しかし、仏教の「空」は、むしろあらゆる「絶対」の虚構を衝くため、きりが無くても物を書き(経典の膨大さ)、疲れても学ぶこと(宗旨と修行の多様さ)を、我々に要求するでしょう。そこに正解も結論も無くても。

これも壊れる

2021年01月20日 | 日記
 思いつき禅問答シリーズ。

 ある修行僧が老師に質問しました。

「この世の終わりの大火災が起こって、全宇宙が壊滅する。そのとき、これは壊れますか?」

 禅師は答えます。

「壊れるな」

 それを聞いて修行僧は言います。

「じゃ、それに従っていきましょう」

 すると老師は、

「それに従っていけ」


 この問答の解釈は、結局、修行僧の冒頭の質問をどう考えるかに尽きます。私の解釈は次の通りです。

 修行僧の質問の意味は、始まったり終わったりする物事、発生したり消滅したりする現象とは別の、それ自体で存在する実体や本質、あるいは真理のようなものがあるのか、ということでしょう。質問中の「これ」とは、そういう絶対的で超越的なもの、「永遠の真理」「真実の自己」のようなもの、あるいは「悟り」と言ってもよいでしょう。

 これに対して、禅師はあっさり、「壊れる」と言います。そんなものはない、諸行無常というわけでしょう。

 ならば仕方がない、というわけで、修行僧は「それにしたがう」、即ち諸行無常に任せて、そのままに生きる、と言うわけです。これは、ある種のニヒリズムに受けとられかねません。

 しかし、仏教はニヒリズムではない。だから、老師は即座に、同じ文句を命令形に直して、修行僧に言い返すのです。これはどういうことか。

 諸行無常だからといって、ただそれに追従していくのでは、仏教にならない。一切は無常と見切ったら、その無常をいかに生きていくか考えなければならない。敢えて自らの生き方を選び、「真実の自己」などではなく、「無常の自己」を引き受け、生き方を構築していくべきなのだ。仏教はその方法であり、提案なのです。

「どうせ死ぬのに、なぜ生きるのですか?」

「そう思うなら、死をめざして生きたらどうです?」

「非本質的」資本主義

2021年01月10日 | 日記
 今回のウイルス禍が国内を席巻するようになって以来、様々な耳新しい言葉が世間を飛び交いましたが、数あるその中で、私の耳に特に引っかかったものの一つが、「エッセンシャルワーク」とか「エッセンシャルワーカー」というものです。

 仕事に関しては、子供の頃から「職業に貴賤はない」というような話を聞かされましたが、これとは別に世に「本質的(エッセンシャル)」な仕事と言われるものがあり、と言う以上は、「非本質的」な仕事があるわけで、要は「職業に本質/非本質がある」というアイデアが、今どき突然出て来るとは思いませんでした。

 で、「本質的な」仕事とは何かというと、それは大まかに言えば、我々の日常生活の基盤を支えるような仕事、医療・介護、各種ライフラインなど社会インフラの維持・保全、生活物資の生産・輸送・販売、警察・消防・ゴミの収集、義務教育・幼児保育、市役所・役場など地方自治最前線の業務、あたりが代表のようです。

 これら「本質的」仕事をざっと見渡すと、すぐに思いつくのは、身体性が高度に要求され、リモートワークができない職種がほとんどだということです。

 しかも、同時にそれらは、概して労働量やその強度に比して、相対的に賃金が低いように見えることです。ということは、いわゆる「生産性が低い」とみなされている職種と言えるでしょう。というよりも、そもそも「生産性」とか「効率」という尺度で測ることが不適切な職種なのです。

 では「非本質的な」仕事とは何かというと、これはむずかしい。ただ、上述の事例からその反対を想像して、理屈だけで言うならば、それは、身体を駆使する必要性が低く、リモート可能な、労働の量や強度の割に高い報酬を得られる、「生産性が高い」職業、ということになります。

 たとえば、株式売買がそうでしょう。やろうと思えば、株式上場しなくても企業は存続できるのですから、株売買は「本質的」ではありますまい。ところが、この売買で、パソコンのクリック一発か、それさえせず自分の知らないうちに、巨額の金を手にしている人がいるわけです。

「CEO」という流行りの役職があり、何の仕事をどのようにしているのか知りませんが、これによって何億もの年収を得ている者がいます。それが後ろめたくて隠匿した果てに、海外に逃亡した例もあるくらいですから、これはどう考えても、「非本質的」な役職でしょう。おそらく、こんな者にビタ一文支払わなくても、会社も世間も困るはずがありません。

 そこで思い出されるのは、これも今回頻出した「不要不急」というタームです。「非本質的」であることは「不要不急」に結びつきます。ということは、現代の経済成長や市場拡大においては、「非本質的」で「不要不急」な経済行為こそが「生産的な」主役を張っているということしょう。それどころか、成長や拡大には、まさに「非本質的」で「不要不急」な経済活動こそが大規模に必要なのです。

 けだし、現代の資本主義市場経済は、このような「非本質的」な仕事を経済の「本質」にしているという、倒錯的なシステムになっているわけです。今回の「エッセンシャルワーク」という言葉は、まさに暴走に近づいた資本主義市場経済が、このウイルス禍に端なくも露呈させた、みずからの倒錯性と幻想性を象徴するものでしょう。

 いまや、いわゆる「新自由主義的」資本主義には、その倒錯性が自覚された上で、膨らむ幻想の程度を制御する、一定の修正が必要でしょう。すなわち、時代は「修正資本主義」の構築を要求しているのではないかと、私は考えています。

 遅ればせながら、新年のお慶びを申し上げます。皆様のご息災とご清安を心より祈念致します。 合掌