修行僧時代、旧約聖書を読んでいて(まあ、趣味です)、やっぱりこれは油断できない書物だなあと、つくづく思ったのは、『ヨブ記』と『コーヘレト書』を読んだときです。ユダヤ・キリスト教信仰の基盤である聖書に、両書があることは、この信仰の深淵を私に垣間見せるものでした。
『ヨブ記』とは、極めて敬虔で「完全な」信仰心を持つ、財産家の家長ヨブなる人物の話です。
この話がすごいのは、始まり早々に、こともあろうに悪魔が登場して、神(ヤハウェ)に面会するのです。そして、悪魔は神に、あのヨブは実に真面目で敬虔な信者だが、一度酷い目に遭わせて、その信仰が折れないか試してみたらどうかという、実に悪魔らしい提案をします。
すると、驚くべきことに、神は断るどころか、よし、やってみようと、悪魔に同意して、その酷い目を彼に委託するのです。実に無茶苦茶です。
その結果、ヨブは全財産を失い、愛する者を奪われ、自身は重篤な病に陥ります。
それを知った友人たちは、早速彼を見舞いにやってきて、彼を慰めようとします。
ところが、自らの存在を呪い、自分の信仰に疑問を持つようになったヨブは、激しい苦悩の中で、訪問してきた彼らを相手に、激論を交わすことになります。
ヨブは神を呪うわけではありませんが、自分の存在を呪うことは、神による万物の創造という根本的な信仰に、疑問を呈する行為と言えるでしょう。
友人たちは、そのような彼の不信を咎め、この不幸の原因は神の意志ではなくヨブ自身にあるのではないかと考え、ヨブに反省と改心を求めます。
しかし、彼は頑としてその説得を受け容れず、神に対する冒涜寸前の怒りを吐露します。
彼の疑惑と怒りは、要するに、これだけ敬虔かつ真面目に神への信仰を貫いて来たのに、なぜこのような報いを受けるのかということでしょう。実にごもっともな話です。
友人たちがどうしてもヨブを説得できず、改心させられないままでいると、ついに最後に、神が出て来て、発言を始めます。
神は姿を見せないまま、一方的に言葉を畳みかけ、ヨブを圧倒します。それは、ヨブの不幸の原因を説明するわけでも、自分の行為の正統性を主張するわけでもありません。神はただ、この世界と万物を創造し支配する、己の絶対的な力を誇示するだけなのです。
この力の誇示を執拗に繰り返し、最後はヨブを屈服させてしまいます。彼は言います。
「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」
このエピソードでわかるのは、神への信仰は徹頭徹尾、取引ではない、ということです。「よい行いをすれば、よい報いがある」という互酬の論理が一切通用しないのが、神との関係なのです。
神に裏切られても構わない。それどころか、神に裏切られるのは当然で、そもそも裏切りと考えるべきではない。人間は神の振る舞いについて説明を求める立場にない。それが、神への信仰の根本にあるべき覚悟なのでしょう。
ということは、神は約束をしない、神との契約は実は契約ではない、ということになるだろうと、私は当時考えて、慄然としたものです。
もう一つの『コーヘレト書』もユニークです。冒頭がすごい。
「空の空、とコーヘレトは言う。空の空、いっさいは空、と」
まるで般若系の仏教経典のようです。ちなみに、コーヘレントとは、ダビデの子であるソロモンになぞらえた主人公です。
もちろん、ここでの「空」は仏教的な「無常」「無我」「縁起」の教えを言うのではありません。むしろ虚無の意味に近く、人生や世界の不条理、幸不幸の無意味、善悪の無根拠性などを延々と述べ続けるのです。一種の厭世思想とも言えるでしょう。
「日の下で労苦するいっさいの労苦は、人間にとっていったい何の益があろう」
「賢者の目はその頭にあるが、愚者は暗闇の中を歩むとのだ、と。だが、私は知った、そのどちらも同じ運命に臨むことを」
「私は、今なお生きる生者より、すでに死んだ死者たちを讃えよう。いや、その両者よりも、今まで存在しなかった者を幸いと(讃えよう)」
さらにこんなことまで言います。
「わが空なる日々、私はすべてを見きわめてた。その義ゆえに滅びる儀人がおり、その悪ゆえに生きながらえる悪人がいる。あなたは義(ただ)し過ぎてはならない。あまりに賢くあってはならない。どうして自滅してよいだろう。あなたは悪過ぎてはならない。愚かしくあってはならない。時をまたずに、どうして死んでよいだろう。こちらも把握し、あちらにも手を休めないことがよい。神を畏れるものはどちらにも拘泥しない」
これはほとんど、ご都合主義的処世術を説くニヒリストの言い分でしょう。
そして、最後にこう言います。
「これらに加えるに、わが子よ、自戒せよ。書物を多く作ってもきりがない。学び過ぎは身体の疲れ。最後のことば。いっさいは聞かされている。神を畏れ、その戒めを守れ」
これは要するに、人間の存在とその認識は一切虚妄なのであり、神のみが絶対的真理なのであり、それに無条件で従え、という意味でしょう。この書で繰り返される「空」の事例は、その「真理」の絶対性を強調する道具なのです。
しかし、仏教の「空」は、むしろあらゆる「絶対」の虚構を衝くため、きりが無くても物を書き(経典の膨大さ)、疲れても学ぶこと(宗旨と修行の多様さ)を、我々に要求するでしょう。そこに正解も結論も無くても。
『ヨブ記』とは、極めて敬虔で「完全な」信仰心を持つ、財産家の家長ヨブなる人物の話です。
この話がすごいのは、始まり早々に、こともあろうに悪魔が登場して、神(ヤハウェ)に面会するのです。そして、悪魔は神に、あのヨブは実に真面目で敬虔な信者だが、一度酷い目に遭わせて、その信仰が折れないか試してみたらどうかという、実に悪魔らしい提案をします。
すると、驚くべきことに、神は断るどころか、よし、やってみようと、悪魔に同意して、その酷い目を彼に委託するのです。実に無茶苦茶です。
その結果、ヨブは全財産を失い、愛する者を奪われ、自身は重篤な病に陥ります。
それを知った友人たちは、早速彼を見舞いにやってきて、彼を慰めようとします。
ところが、自らの存在を呪い、自分の信仰に疑問を持つようになったヨブは、激しい苦悩の中で、訪問してきた彼らを相手に、激論を交わすことになります。
ヨブは神を呪うわけではありませんが、自分の存在を呪うことは、神による万物の創造という根本的な信仰に、疑問を呈する行為と言えるでしょう。
友人たちは、そのような彼の不信を咎め、この不幸の原因は神の意志ではなくヨブ自身にあるのではないかと考え、ヨブに反省と改心を求めます。
しかし、彼は頑としてその説得を受け容れず、神に対する冒涜寸前の怒りを吐露します。
彼の疑惑と怒りは、要するに、これだけ敬虔かつ真面目に神への信仰を貫いて来たのに、なぜこのような報いを受けるのかということでしょう。実にごもっともな話です。
友人たちがどうしてもヨブを説得できず、改心させられないままでいると、ついに最後に、神が出て来て、発言を始めます。
神は姿を見せないまま、一方的に言葉を畳みかけ、ヨブを圧倒します。それは、ヨブの不幸の原因を説明するわけでも、自分の行為の正統性を主張するわけでもありません。神はただ、この世界と万物を創造し支配する、己の絶対的な力を誇示するだけなのです。
この力の誇示を執拗に繰り返し、最後はヨブを屈服させてしまいます。彼は言います。
「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」
このエピソードでわかるのは、神への信仰は徹頭徹尾、取引ではない、ということです。「よい行いをすれば、よい報いがある」という互酬の論理が一切通用しないのが、神との関係なのです。
神に裏切られても構わない。それどころか、神に裏切られるのは当然で、そもそも裏切りと考えるべきではない。人間は神の振る舞いについて説明を求める立場にない。それが、神への信仰の根本にあるべき覚悟なのでしょう。
ということは、神は約束をしない、神との契約は実は契約ではない、ということになるだろうと、私は当時考えて、慄然としたものです。
もう一つの『コーヘレト書』もユニークです。冒頭がすごい。
「空の空、とコーヘレトは言う。空の空、いっさいは空、と」
まるで般若系の仏教経典のようです。ちなみに、コーヘレントとは、ダビデの子であるソロモンになぞらえた主人公です。
もちろん、ここでの「空」は仏教的な「無常」「無我」「縁起」の教えを言うのではありません。むしろ虚無の意味に近く、人生や世界の不条理、幸不幸の無意味、善悪の無根拠性などを延々と述べ続けるのです。一種の厭世思想とも言えるでしょう。
「日の下で労苦するいっさいの労苦は、人間にとっていったい何の益があろう」
「賢者の目はその頭にあるが、愚者は暗闇の中を歩むとのだ、と。だが、私は知った、そのどちらも同じ運命に臨むことを」
「私は、今なお生きる生者より、すでに死んだ死者たちを讃えよう。いや、その両者よりも、今まで存在しなかった者を幸いと(讃えよう)」
さらにこんなことまで言います。
「わが空なる日々、私はすべてを見きわめてた。その義ゆえに滅びる儀人がおり、その悪ゆえに生きながらえる悪人がいる。あなたは義(ただ)し過ぎてはならない。あまりに賢くあってはならない。どうして自滅してよいだろう。あなたは悪過ぎてはならない。愚かしくあってはならない。時をまたずに、どうして死んでよいだろう。こちらも把握し、あちらにも手を休めないことがよい。神を畏れるものはどちらにも拘泥しない」
これはほとんど、ご都合主義的処世術を説くニヒリストの言い分でしょう。
そして、最後にこう言います。
「これらに加えるに、わが子よ、自戒せよ。書物を多く作ってもきりがない。学び過ぎは身体の疲れ。最後のことば。いっさいは聞かされている。神を畏れ、その戒めを守れ」
これは要するに、人間の存在とその認識は一切虚妄なのであり、神のみが絶対的真理なのであり、それに無条件で従え、という意味でしょう。この書で繰り返される「空」の事例は、その「真理」の絶対性を強調する道具なのです。
しかし、仏教の「空」は、むしろあらゆる「絶対」の虚構を衝くため、きりが無くても物を書き(経典の膨大さ)、疲れても学ぶこと(宗旨と修行の多様さ)を、我々に要求するでしょう。そこに正解も結論も無くても。