恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

クラブ活動

2018年01月30日 | 日記
 今年5月で齢60を迎えるから、というわけでもありませんが、長年懸案としていた課題に取り組むことにしました。それは『正法眼蔵』の全巻講義です。まあ、ライフワークみたいなもので、運よく命があれば完結するでしょうが、先のことはわかりません。

 実は、第一回目を、昨日(29日)夜、大本山永平寺で行ってきました。これには経緯があります。

 昨年か一昨年、永平寺で運営の最高責任者の任にある僧侶(これが私の旧知の友)から依頼がありました。

「直哉さんも、そろそろ本丸を攻める頃合いじゃないですか?」

「なんだよ、本丸って?」

「眼蔵ですよ、眼蔵。もう始めてもいいでしょ。永平寺で修行僧に眼蔵の講義、やってくださいよ」

「やだよ。本山でやるなら、オレみたいな傍流はだめだよ。本流・王道の老師を頼みなよ」

「え~っ、いいじゃないですか。本流を引き立てるのも傍流ですよ」

「失礼だな。オレは引き立て役か?!」

「怒らないでください。ぜひお願いしたい一心ですよ」

「じゃあねー、クラブ活動ならやる」

「え?」

「参加不参加は自由。中途参加も退会も自由。有志のみ、参加したい者だけ。その人たちだけでやる。」

「なるほどね。本山正式の講義ではなく、ですね。つまり、課外活動」

「そう。だから、ただの講義にしない。ゼミナール方式にする。自分の意見を言い合い、質問しあって、参加者が眼蔵にアプローチする自分なりの道筋を見つけられような、そういう講義をしたい。前半を各自の見解を述べた上での討論、後半をぼくの解釈に対する質問と討議の時間にする」

「直哉さんらしいですね」

「ぼくにとっては、自分の解釈がどう受け止められるかの実験として有意義だし、参加する修行僧にとっては、この勉強を通じて、自分は何をテーマにして僧侶、就中道元禅師門下の僧侶であろうとしているのかを、深く考える機会になればよいと思っている」

「希望者多数ならどうします」

「大丈夫。せいぜい数年程度の修行歴で、眼蔵に真っ向から挑戦、なんて威勢のいい修行僧がそう多くいるわけはない。あと、南さんは『参加する以上は、脳から血が出るまでやる』と言ってると宣伝してくれよ。オレの過去が過去だから、未だに真に受ける修行僧も多いだろ」

・・・というやりとりから、まさか実現しないだろうと思って高を括っていたら、本当にすることになってしまいました。

 で、行ってみたら15人の参加者がいました。一人でもいるなら結構だと思っていたので、数の多さに驚いてしまいました。今後どうなるかわかりませんが、とりあえずスタートです。

追記:10年にわたって釈尊から道元禅師までの仏教思想を講義した「仏教・私流」が、『超越と実存』(新潮社)と題して書籍化され、先日発売となりました。編集者の指示でプロローグとエピローグを書き下ろしで付け加えています。ある友人には、そこだけ褒められました。やれやれ。

傍目の見方

2018年01月20日 | 日記
 ゴータマ・ブッダの生涯については、初期経典に言及する文章が散在してます。また、後代には伝記的経典も作成されました。

 その中から古来、特に重要な出来事を四つ選んで「四大事」と言います。その四つとは、誕生、成道(悟りを開く)、初転法輪(最初の説法)、涅槃(入滅、逝去)です。この四つを誰が「大事」と決めたのか知りませんが、私には個人的な不満があります。

 たとえば、どうして出家が入ってないのか不思議です。我々にしてみれば、出家したゴータマ・シッダールタに意味があるのであって、ただのシッダールタの誕生などは、どうでもよいことです。 
 それに初転法輪を言うなら、それを可能にした梵天勧請(梵天による説法の要請)も重要でしょう。

 そこで、これらの仏伝のエピソードについて、日ごろ私がつらつら考えていることを書いてみようと思います。

〇誕生
 
 これについては、要するに、彼は大変結構な生まれと育ちで、十分な教育を受けていたということが重要です。極端な貧困や差別などの社会苦や、様々な病気や複雑な人間関係に苦しむような青少年期を過ごしたわけではない。ということはつまり、世間で宗教に「はまる」三大原因と言われる貧(貧困あるいは金銭問題)・病(自分や家族の病苦や介護)・婚(結婚・恋愛をはじめとする人間関係)とは関係がないということでしょう。

〇出家

 彼の出家は、人間が生きていることの根本条件である、老い・病い・死がテーマであったということ。しかも、それらが嫌で、不老不死を目的にしていたわけではなく、三つを嫌がる人間の考え方や態度を問題視していたことが、実にユニークな点です。

〇成道

 何を、どんな方法で悟ったのか、まさにその時の状況について、本人の言及がまるでありません。「悟り体験」みたいなものがあったとしても、それほど大したことではなかったのではないでしょうか。

〇梵天勧請

 ここで大事なのは、誰が説法を要請したかではありません。梵天はバラモン教・ヒンズー教の主神ブラフマンのことですから、仏伝作者がこれを持ち出すのは、仏教の優越性の主張として当然です。

 問題はそこではなく、要請でもされない限り、シッダールタ本人に自分の「悟り」を他人に教える気がまったく無かったということです。ということは、彼は自分が「悟った」ことを普遍的で絶対的な「真理」、すなわち誰もが知るべき・知らなければならない「教義」などと考えていなかったわけです。それはすなわち、彼はこの時点で、出家の動機となった自分の切実な問題にそれなりの見解を得たので、もうそれで十分だったということです。

 しかしながら、梵天勧請の最も重要な意味は別にあります。シッダールタが何を悟ろうと、それを誰かに話してみて、相手が納得しない限り、ただの個人的妄想と区別できません。これが単なる「自己満足」的錯覚ではないことの立証は、話を十分に理解し納得する他者がいるかどうかの一点にかかります。梵天の説得は、この事情を象徴的に物語っているのです。

〇初転法輪

 シッダールタがゴータマ・ブッダとなり、彼の考えが「仏教」になったのは悟りを開いたときではなく、まさに最初の説法のとき、その話を昔の修行仲間の一人が理解したときです。他の誰にも理解も共有もされないアイデアは、アイデアでさえありません。

 さらに私が面白いと思うのは、ブッダの修行仲間は、話を聞いただけで「悟った」と経典にあることです。修行仲間が当時どんな修行をしていたかは定かにわかりませんが、まさか後代の仏典で説く通りの修行をしていたわけではありますまい。とすると、ブッダはそれでも悟れるような、聞いてすぐわかる話を最初の説法でしていたということになります。

〇涅槃

 涅槃は仏教の最終的な到達点ですが、それは当事者でない第三者からみれば、死ぬことです。ということは、仏教の最終目標は、敢えて言えば、特定の死に方で死ぬことでしょう。あるいは、死の受容の仕方を稽古することなのです。

 ところで、ブッダは涅槃に入る直前、第四禅という禅定段階にいて、そこから涅槃に入ったと経典にあります。すると、後に教義として体系化された禅定段階において、さらに上位にある禅定はみな、仏教究極の目的と直接関係ないわけです。
 第四禅とは、簡単に言うと、あらゆる感受を停止し、意識を安定的に保ち、苦も楽もない心身状態に入ることです。なるほど、これなら精進によっては自分たちにも到達可能だと、修行者に思わせるところもあるでしょう。
 

番外:面会について

2018年01月17日 | 面会について
 最近またお問い合わせが増えてきたので、あらためて申し上げます。

 私との面会がご希望の方にお目にかかることは、日時と場所で折り合っていただければ、基本的に可能です。

 ご希望の節は、以下のようにお願い申し上げます。

一、面会希望の封書を送っていただく。

「面会希望」の一文(それ以外の文章は不要です)、お名前、住所、連絡先電話番号(携帯電話のものが有難いです)を明記したものを、当面福井の霊泉寺に、必ず封書でお送りください。

 宛先: 〒910-2165 福井県福井市東郷二ケ町27-4 霊泉寺

 注意! お名前・住所・連絡先電話番号の3つが揃わない場合、当方から返信・返答をしません。

一、遅くとも一か月以内に、当方から記載された電話番号に連絡申し上げる。

 このとき、日時と面会場所をご相談の上で決めます。

一、合意の日時と場所で面会。

 なお、この手続き以外の面会・面談、メールや電話による相談には一切応じません。また、突然お送り下さる手紙やメールなど(寺院業務やその他仕事上のものは除く)にも一切お返事しませんので、あしからずご了解ください。

 この記事は本ブログのカテゴリーに残しますので、よろしくお願いいたします。

立っているところ

2018年01月10日 | 日記
 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

 新年早々、思いつき禅問答シリーズ。

 行脚の修行僧が、ある老師の下に至り、その坐禅する場所を三周してから、手に持った錫杖をひとたび振るうと、その場に端然と直立しました。

 すると、老師いわく、「よし、よし」

 ところが、この話を聞いた別の老師はコメントして、「間違ってるな」

 行脚の僧は、さらにもう一人の老師を訪ねて、前の老師の時にしたことと同じことをして、直立しました。

 すると、この老師は「ダメ、ダメ」

 それを先のコメントの老師がまた、「間違ってるな」

 行脚の僧は、「ダメ」と言った老師に訊ねます。

「前に行ったところの老師は『よし』と言ってくれましたよ、どうしてあなたは『ダメ』なんです?」

 老師は答えます。

「前の老師の答えはよい。お前がダメなのだ。老師によいと言われた、お前の立っているところは、結局は無くなってしまうものだ」

 この話を私はこんなふうに読んでいます。

 行脚僧が「立っているところ」とは、彼が「真理」だと思っているアイデアです。それを最初の老師は肯定しました。

 次の老師が「ダメ」出ししたのは、最初の老師が行脚僧の真理だと思うことを肯定したことではありません。それは一つの見解としてあり得る話でしょう。

 しかし、その肯定によって、一定の条件下でしか成立しない見解を、行脚僧が絶対の真理のように錯覚することを、老師は「ダメ」と言ったわけです。

 ですが、この問答の核心は、コメント老師の「間違ってるな」にあります。この老師は、「よし」も「ダメ」も、両方間違いだと言うのです。

 なぜなら、「ダメ」の老師も自分の見解を言っているだけで、そこに絶対の根拠は設定できないからです。すなわち、およそ自分の立っているところには、コメント老師の「間違ってるな」も含め、無条件に通用し得る、何ら確実な支えもないということです。