恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ご意見番

2016年01月30日 | 日記
 某日、法事であったお爺さん(推定年齢80歳代後半)。

「久しぶりだの、方丈さん」

「檀那、元気で何より」

「あんた、最近新聞に出てたの。息子が見せてくれた」

「あれ、そう」

「いつかテレビにも出てたし、あんたは有名人なんか?」

「あのね、本当の有名人は、アンタは有名人か? なんて訊かれないよ」

「ハハハ、でも、大したもんじゃ」

「そう思う?」

「でもまあ、わしらにはそういうことより、大きい声でしっかりお経読んでくれるところが、いいな」

「ありがと」

「方丈さん、アンタ、なかなかだぞ。オレもこの年までいろんな坊さん見てきたが、あんたはイイ、イイほうじゃ」

「うれしいなあ!」

「話もうまい」

「ほんと?」

「ああ。ただ、口達者なヤツはいざというときに根性がなくなるからな。気をつけな」

「ハ、・・・ハイ・・・」

「ゴミ」と「宝」と「自分」

2016年01月20日 | 日記
 昨今「ゴミ屋敷」というものがしばしば話題になります。ある人物がケタ外れの量のゴミを自宅に集積して、近隣住民の生活に様々な支障を与えている状況のことです。

「ゴミ屋敷の主人」には共通の特徴があります。一つは、私が見聞する限り、ほとんどが無職らしき中高年齢者で、人づきあいも極めて乏しく、孤立に近い状況であること。もう一つは、本人も生活に困難をきたすほどの量のゴミを溜め込んでいること(ゴミに自宅を占拠されて、「主人」が路上で生活している例さえある)、です。

 このとき、本人が暮らしに困ってもなお集積を止めないのは、これは要するに、溜め込んでいるものが彼にとって最早「ゴミ」ではないからです。彼はそれを価値あるもの、いわば「宝の山」とみなしているわけです(「ゴミではなく資源だ」と主張し続けていた「主人」もいる)。だから、「捨てない」し「片づけない」のです。

 なぜ彼はそのような概念操作を行うのか?

 社会的に「孤立している主人」が、単に溜まった「ゴミ」に埋もれているとするなら、本人もその生活を「世間の常識」からして「真っ当」なものとは思いにくいだろうし、自分を「価値」ある存在と感じることは難しいでしょう。

 ところが、「世間」が「ゴミ」だとするものを、「主人」が「宝の山」(少なくとも「ゴミではないもの」)だと断定するなら、以後それは「認識」と「価値観」の違いだと主張できることになり、自分の生活を卑下する必要もなければ、自身を「無価値」とする理由もなくなります。

 すると、彼の「孤立」は「世間」からの「落伍」ではなく、「世間」との「対峙」になります。つまり、「対等」な関係になるということです。

 ということは、「ゴミ」転じて「宝の山」の溜め込みは、彼のアイデンティティーを構成する行為なのであり、その所有は彼の実存を根拠づける「自我」も同然です。

 そうなれば、「主人」は「ゴミ」の処分に強く抵抗することになるでしょう。一度価値を認めた「自分であること」の放棄は、そう簡単にできるはずがありません。

「ゴミ屋敷」現象は、モノの価値・無価値にかかわらず、所有行為自体が「自我」を根拠付け得るメカニズムを、非常に純粋な形態で見せてくれます(いわゆる「価値あるもの」の「コレクション」も、構造的には同じこと)。

 

 

ぶっちゃいました。

2016年01月10日 | 日記
 新年早々、思いつき禅問答シリーズ。


 昔の中国で、雲門という禅師が旅の雲水に訊ねました。

「どこからやって来たんだね?」

「西禅老師の道場からです」

「老師は最近、どんなことを言ってるんだ?」

 すると、雲水は両手を開いて差し出しました。

 とたんに、雲門禅師は雲水に平手打ち一発!

 雲水、あわてて

「自分にはまだ言うことがあるんです!」

 雲門禅師、すかさず両手を開いて差し出す。

 雲水、びっくりして無言。

 ここで、雲門禅師また雲水の横っ面に一発!!


 この話を、私はこのように考えています。

 雲門禅師の「どんなことを言ってるんだ?」という問いは、「西禅老師は悟っているのか? その悟りをどう語っているのか?」という意味です。

 これに対して、雲水が両手を差し出したのは、悟りは体験として把握されるもので、言語化はできないということを表しているのでしょう。ですから、行為としては何でもよかったのであって、手を差し出そうが逆立ちしようが、構わない話です。

 これに対する雲門禅師の平手打ち一発は、悟りだろうが何だろうが、体験それ自体は無意味だと言っているのです。問題はある「体験」をどのような文脈に乗せて語るかなのです。その語りによってのみ「意味ある」事象になるわけです。

 「悟り」として語られる経験は、心理学などの文脈で語られれば「変性意識」とでも呼ばれるでしょうし、禅や仏教に興味も関心も無い人に言わせれば、「馬鹿じゃないの」ですませる話でしょう。つまり、「意味ある」何かになるためには、語られなければならないのです。

 そこで雲水は「まだ言うことがあるんです」と弁明します。

 すかさず雲門禅師が手を差し出したのは、体験は語られなければ無意味だが、どう語ってもそれは、体験そのものを「正しく」言語化することはできないと教示するためです。

 事ここに至って、雲水は進退窮まって言う言葉を無くします。

 雲門禅師の平手打ち二発目は、「言語化できない」でとどまってはいけないことを示しているます。とどまれば、それは「言葉にできない真理」として概念化され言語に固定されてしまいます。

 したがって、「言語化できない」事象を言語化し続け、かつ言語化に失敗し続ける行為以外に、「悟り」体験を語る方法はないということになるでしょう。


 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いいたします。