恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

若し、仮に

2017年01月30日 | 日記
 若し、仮に、先日アメリカ合衆国大統領になった人物が、実に度外れたナルシストで、法外な自己顕示欲の持ち主であり、大統領職とその権力は、そういう自分を高度に満足させる道具に過ぎず、特に政治的理念や政治家的志しを持っているわけでもないとしたら、彼についてどんなことが考えられるでしょう。

 ナルシシズムも自己顕示欲も、他者の視線が不可欠の条件であり、しかも圧倒的に必要です。つまり、恒常的に他者の賞賛と支持と肯定を動員しなければなりません(だからこそ、批判には大人げないくらい過敏に反応して、「逆切れ」的反撃に出る)。ということは、彼は「独善的」な人ではないということです。「独善的」な人は、他人の評判をほとんど気にしません。

 このとき、大多数の賞賛を動員できる装置(独裁体制など)が用意できれば結構ですが、そうでなければ、民主主義的制度下の選挙において、圧倒的大多数の支持の獲得は極めて困難です。また、同時に、そのような圧倒的支持は、あればそれに越したことはありませんが、なくても構いません。

 必要なのは、反対勢力と同じくらいの規模の支持を確保することです。それが確保できれば、最低限、反対勢力に勝てなくても、負けません。そして、自分は支持者の中に引きこもり、反対者を攻撃し続ければ、支持者の賞賛と熱狂は高まり、ナルシシズムと自己顕示欲の満足は十分可能でしょう。

 その場合、支持者の中には、必ず「有力者」を調達しておかなければなりません。支持の「量」で反対者を圧倒しきれなければ、「質」で圧力を高めるのです。

 世間において「有力者」とは、まず「金持ち」であり、さらには「暴力」を管理する地位にいるものです。新大統領が、支持の「量」をミドルクラスの白人から得て、閣僚や幹部に金持ちと軍人を揃えて「質」を強化しているのは、その意味で理に叶う行動です(この「量」と「質」の捩じれが将来大きな摩擦を起こす可能性大)。

 となると、彼の政治的行動が「先の読めない」ほど不安定なのは、当然でしょう。要は、ナルシズムと自己顕示欲からの行動なのですから、それを満足させるために、とにかく支持者に「ウケる」政策を場当たり的に乱発するだけです(そのとき「ウケ」れば、実現可能性は低くてもよい)。そこに一貫した「国家経営」「外交戦略」の政治的構想などあるはずもないでしょう。

 彼の「アメリカ第一」は、要するに「支持者第一」で、大統領選時点で、未だにある程度大きなボリュームを持つ白人ミドルクラスに不満が鬱積していることを敏感に察知して、自分の支持者に取り込むことにしたわけです。あのとき、自分への大量の支持の調達が、ヒスパニック系をはじめとする移民からの方が簡単だと彼が考えていたなら、おそらく「自由貿易」と「多文化共生」こそが「アメリカ第一」の意味だと主張したでしょう。

 彼は、イデオロギーで自分を正当化する従来の「独裁者」とはタイプが違います。また、政治的な立場として「ポピュリスト」なのでもありません。そうではなく、道元禅師の言葉で言うと、要するに「吾我名利」むき出しの人、に私には見えます。

 もしそうだとすれば、これは危険です。「吾我名利」の人は、「独裁者」同様、自分が他者との関係において存在することを根本的なところで理解できません。つまり、「無明」の人です。この人が暴走すれば、個人なら本人だけの厄災ですむかもしれませんが、一国の指導者となれば、「独裁国家」の末路のごとく、国ごと災難に遭うかもしれません(いや、アメリカの場合は世界の災難か)。

 大概の場合、「吾我名利」の人は、多くの他人を巻き込む(つまり、支持者の多くを失うような)大失敗をしない限り、反省をしません。また、支持者が反省を許しません。ただし、ナルシストは、ちょっとした失敗を追及されても気分を害し、思い通りにならないことが数回続いたりすると、いきなりそれまで手掛けていた仕事を投げ出すことがあります。

 いずれにしろ困ったことですが、政治的、あるいは道義的な説得が効く相手ではなく、自分と支持者の損得だけが問題ですから、当面は取り引き相手にしかなりません。彼が「ディール」的手法で政治をするのは当然で、「国民」を見ているのではなく、「支持者」だけを見ているのです(彼が「ディール」で政治をしようとするのは、実業家だからではない。「吾我名利」の人だから、これほどあからさまな「ディール」を臆面もなく政治に持ち込めるのである)。

 ただ、決して間違ってはならないのは、「吾我名利」の人は仏教的見方からすれば「愚者」でしょうが、世間的には必ずしも愚かな人ではないということです。まさに「デイール」においては、極めてすぐれた頭脳の持ち主であることが多いのです。だから、災難も大きくなるわけです。

 そうは思いたくありませんが、ワイマール体制がナチズムを生んだように、アメリカ民主主義が「吾我名利」大統領を生んだのだとすれば、あまりに悲しい話です。

 今は私の考えが見当外れであることを願うのみです。

T氏への応答

2017年01月20日 | 日記
 あなたの言われる通り、私はこれまで、「悟り」や「涅槃」はそれが何であるか、釈尊が語っていない以上、根本的に「わからない」のだと言い続けています。

 ただ、これまで「悟り」については、事の是非はともかく、『正法眼蔵』の記述から自分なりに、「縁起的実存の自覚における主体性の生成」などと定義したり、初期経典にある釈尊の言説や行状から、彼の「悟り」は「無明の発見」のことだろうと推定したことがあります。

 ところが、「涅槃」に関しては、はっきりした自分の解釈を述べたことがありません。しかし、あなたのおっしゃる通り、この重要な言葉に何の解釈も示さないようでは、私の考えている仏教の輪郭が明確にならないというご指摘は、もっともだと思います。

 そこで、現在の自分がとりあえず定義する「涅槃」について申し上げようと思います。

 私は現在、「涅槃」を「死の受容」だと考えています。今のところ、私たちが「涅槃」を事実だとして認識し得るのは、経典中に語られる釈尊の「死」だけです。私は、いわばこの「外形的事実」(「事実」の内容は一切考えない。考えても無駄だから)を、そのまま我々の実存にスライドさせてみました。

「死」は、いつか、どこかで、「それが何だか決してわからない」出来事が勃発し、今の我々の在り方全体を不可逆的に変えてしまうことです。現時点でこれ以上のことは言えません。

 この「死」を、欲望することもなく、解決と思うこともなく、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ「受容する」態度と行為を「涅槃」と考えたいと、私は思います。

 私が考える「死の受容」にとって重要なのは、「生き続けたい」自己と「死にたい」自己の持つ欲望を無力化することです。

 その場合、ターゲットにすべきは、「欲望」ではなく「自己」の方です。「欲望」は時と場合で転移し変化するので(「生きたい」は「死にたい」に、「死にたい」は「生きたい」に、「所有」欲と「断捨離」欲がしばしば互いに転移するように)、特定の「欲望」を消去したとしても、それは消えているのではなく別の「欲望」に転移している場合がほとんどです。ですから仏教的アイデアは、「欲望」ではなく欲望する「自己」を解体することを目指すわけです。

 では、日常的な実践としてはどうするのか。基本は二つです。

 自意識を解体する身体技法(たとえば坐禅)を習慣的に行い、「自己」の実存強度を低減する。

 同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。具体的には、他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出す。その根本は、何か行動する場合に「他者」を優先することです。

 ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。

 大切なのは、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことです。相互理解の土台はこの行動です。そして、仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです。

 この取り組みは、工夫の仕方によっては、自己をめぐる「縁」を豊かに深くするでしょう。それは、結果的に「なすべきことをなした」という実感になるかもしれません。これが積み重なれば、満腹の人が食事を終えるように、「死の受容」が実現する可能性があると、私はいま思っています。

 

眉毛問答

2017年01月10日 | 日記
 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

 年頭に当たって、思いつき禅問答シリーズ。

 禅の語録には、仏法を誹謗すると眉毛が落ちてしまう、という文句が時々出てきます。

 ある禅師が、夏の修行期間の最終日に修行僧に向かって説法をしました。

「この修行期間中、君たちのために説法してきたが、私の眉毛は落ちなかったかな?」

 ある修行僧が言いました。

「泥棒も実は内心ビクビクしていますからね」

 別の修行僧がいいました。

「いま、生えてきていますよ」

 もう一人が言いました。

「ここは通しませんよ」

 私はこの問答を次のように解釈します。

 禅師が「眉毛が落ちなかったか」と言うのは、言語化できない悟りの境地を言語化するのは間違い(仏法の誹謗)だと思うか、という問いです。

 最初の修行僧の言葉は、「悟り」そのものを言葉にすることは不可能だと自覚しつつも、敢えて言語化し続けるべきだという意味でしょう。

 次の修行僧は、言語化しない限り、仏法も悟りも、それが存在することさえわからない(生えてくる)と言っているのです。

 三番目の修行僧は厳しい。確かに言わなければならないが、言ったとしてもそれが他人に通じるかはどうかは、別問題だと言っているわけです。

 ならば、語る内容の妥当性は、語る当人が何を狙って、どんな方法で語るかを吟味してから、評価されるべきでしょう。