恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

いい湯だよ。

2006年05月30日 | インポート

Photo_1   恐山が歴史的な文献に現れてくるのは意外に遅く、江戸時代です。当時はすでに全国的に知られていたようですが、それ以前の恐山については、今のところ確実な文献資料が発見されていません。信仰の場としては、おそらく中世にまでさかのぼるでしょうが、それ以前の具体的な様子については、厳密には伝承の域を出ません。したがって、恐山の最初期の姿は想像する以外にないのですが、こはまず湯治場として地域の人々に知られ始めたのだろうと思われす。

   Photo_8    なにしろ火山地帯で、しかも大きな湖があるほどですから、境内には昔から温泉が涌き続けています。それこそ、江戸時代の文献には、諸国から湯治の人々が集まり、自分たちで当座の仮小屋を立て、さまざまに交流しながら逗留していた様子が記されています。

 仏教に限らず、宗教者はその昔、学者であり、医者であり、技術者でもありました。ならば、体を癒す湯治場は、病を救う医者の役割を持った宗教者が活躍する場所にふさわしく、たぶん恐山は最初期から、何らかの宗教者が出入りする湯治場だったのではないでしょうか。

   Photo_5    現在、温泉は外湯が四つ、宿坊内には大浴場があります。かつては

外に五湯あって、「五霊泉」と呼ばれていたようです。写真は、上から外湯の一つ「花染めの湯」、「花染めの湯」の内部、その下の写真は右の小屋から「薬師(やくし)の湯」「冷抜(ひえぬき)の湯」「古滝(ふるたき)の湯」、一番下が宿坊大浴場の内部です。

「花染めの湯」は肌によいと評判で、特に女性に人気があります。  

 実際、地元の女性がアトピー性皮膚炎の子供さんを毎日入浴に連れてきて、治してしまった例があるそうです(これはあくまで伝聞です。必ず治るとは言えません)。   

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「薬師(やくし)の湯」は眼に効くとされ、「冷抜(ひえぬき)の   

 湯」は神経痛やリュウマチ、「古滝(ふるたき)の湯」は胃腸によいと言われています。いずれも硫黄の温泉らしい乳白色をして 

 いて、湯質は かなり強く、長湯すると疲れます。

私は以前、真冬に、4メートル近い雪のある中、雪上車を使って恐山に入り、四日ばかり滞在したことがあります。そのときは毎日、「薬師の湯」に入っていました。冴え渡る月の光が漫々たる雪に染みとおり、この絶景の気持ちよさに、連日のんびり浸かっていたら、硫黄が眼にあたって、文字通りひどい目にあってしまいました。四方を雪に囲まれて風が吹き抜けず、ガスが溜まってしまったのです。眼が開けていられないほど痛み、涙も止まらず、眼に効くとは、まさに毒にも薬にもなるということなのだと、本当に痛感しました。

ちなみに、外湯は全部、入山料を払ってお参りいただいた方には、どなたにでも入浴していただけます(ちなみに宿坊大浴場は宿泊者のみ)。このことはあまり知られておらず、タオルをもって恐山にお参りする人は、かなりのツウです。現在、「花染めの湯」は混浴、「薬師の湯」「冷抜の湯」「古滝の湯」は適宜に男女の別を入れ替えています。入浴できるのは開門時間と同じで、朝6時から夕6時まで。

ときどき、不心得の旅行者がいて、午後6時以降の閉門時間に塀を乗り越たり、裏山の小道を抜けて、こっそり境内に忍び入り、温泉にタダで入ろうとするようです。しかし、お地蔵様は見ていますよ。

ある日、若いカップルが混浴の「花染めの湯」に忍び込みました。風情のある山の湯に喜んだ二人は、さっそく湯船に浸かると記念撮影にかかりました。ところが、そこへ、その日の仕事を終えた従業員のおじさん達が、今日の疲れを名湯「花染めの湯」で癒そうとやってきました。

二人並んでポーズを決めたカップルに対して、まさにカメラのシャッターが落ちようというその刹那、何も知らぬおじさんがガラッ! とたんにとどろく悲鳴と絶叫!! あとはどうなったか、聞きませんでした。


衣を着たお地蔵さま

2006年05月25日 | インポート

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 今回は、恐山のご本尊、地蔵菩薩を紹介します。インド仏教においては、「地蔵」の「地」は文字通り大地を、「蔵」は「母胎」を意味していました。「菩薩」とは、最初は仏になることを目指して修行する者くらいの意味でしたが、大乗仏教になると、成仏できるのにあえてそうせず、この世にとどまって迷える人々を救済する者、という解釈になり、如来と同じように超越的存在と考えられるようになりました。

 地蔵菩薩は、観世音菩薩と並んで、最も人々に親しまれ、信仰された仏さまでしょう。

「お地蔵さま」と呼ばれ、様々な形や名称の彫刻・絵画が今もさかんに作られています。

歴史的には、特に中国で地蔵菩薩を主題とする多くの経典が作られ、地蔵信仰が広まる大きなきっかけになりました。教義上は、釈迦牟尼仏が入滅してのち、次にこの世に現れるはずの弥勒如来(これも有名な弥勒菩薩は、いま現在、天上世界で成仏前の待機中なのです)が、実際に現われて人々を救済するまでの間、地蔵菩薩が地獄の底から天上世界まで巡り歩いて、あらゆる人々の苦悩を救う、ということになっています。

 この「あらゆる人々の苦悩を救う」というところが、人々の気持ちに訴えたのでしょう、特に子供をあわれみ救済する菩薩として深く信仰されるようになりました。

 地蔵菩薩の像は、一般に子供を思わせる可愛らしいものが多いですが、恐山の地蔵菩薩像は、2メートル近い木造彫刻で、顔もけっして優しいとは言えません。そして左右には、左に仏心を育てる掌善童子(しょうぜんどうじ)、右に煩悩を滅ぼす掌悪童子(しょうあくどうじ)が付き従っています。

言い伝えでは、この仏像は、恐山を開かれた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)様が刻まれたとされ、本当だとすれば、千年以上経っていることになります。以前、修理したおりに木材を鑑定してもらったところ、そのくらい前の木だと言ってもおかしくはないとのことだったそうです。

この像の他にほとんど類を見ない特色は、僧衣を着ているところです。写真の赤い衣は、現在曹洞宗の住職が着ている衣と同じものです。私はこういう姿をしている仏像を他で見たことがありません。また、いつごろからこういう姿になったかもわかりません。

ただ、恐山には、すでに江戸時代ごろから地蔵菩薩をめぐる伝説がありました。このお地蔵様は、昼間はお堂に立って人々の参拝を受けるけれど、夜になるとお堂から出て、恐山の地獄に見立てられる岩場を巡って、苦しむ魂を救って歩くというのです。その証拠に、菩薩像の着ている衣の袖がぼろぼろに裂けているではないか。あれは亡者がその袖に取りすがって救われることを願うからなのだ・・・・

おそらくこの言い伝えは、当時単なる伝承ではなく、実際の衣の袖を前に、その通りの現実として僧侶から説かれ、この菩薩像が本当に歩くと、人々には思われたのでしょう。これは、今の時代からすれば、馬鹿々々しい話かもしれません。また、当時でも、そう思う人が多かったでしょう。しかし、ある人にとっては、まぎれもなく「現実」だったのです。皆が承認する「客観的現実」ではないにしろ、その人にとっては、本当にお地蔵様は歩いていたのでしょう。

 人間の意識から独立した、それ自体で存在する「客観的現実」はありえません。あるのは、何を「客観的現実」と決めるかというルールです。昔、「神がかり」と言われた人は、今「精神病者」と言われるかも知れません。このルールの変更は社会の意思として起こるのであって、自然の成り行きではありません。

 かつてこの裂けた衣の袖を見て、お地蔵様の前に深く額づいた人々にも、今の我々とルールの違う、彼らの「現実」があったのです。その「現実」は、今の我々のそれよりも、おそらく切なく、そしてもう少し安らかだったでしょう。それがよいのか悪いのか、もはや誰にもわからないことです。


教えてもらう住職

2006年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今、私は住職している福井の寺にいます。10年前、まだ修行僧だった私を住職として迎え入れてくれたのが、この寺です。大勢の信者さんで成り立つ恐山とは違い、この寺は30軒ほどの檀家さんが支えてくれる、曹洞宗としては一般的な寺院です。

私は月に一度、下北と福井を8時間半くらいかけて往復しています。一週間ほど滞在し、檀家さんをまわって「月参り」のお経を読み、法事をしたりします。また、突然どなたか亡くなって葬儀ということになれば、飛行機でも電車でも、そのとき乗れる物に飛び乗って、帰ってきます。

恐山にずっといるならともかく、ほかにも、会議だ、講演だと出張する仕事が時々あるので、いまや私は「住所不定住職」などど言われています。ですから、普段この寺の面倒をみてくれる事実上の「住職」は、両親です。私はいまだに親だのみで何とか毎日やりくりしているわけで、まったく申し訳ない話です。両親とも元教員で、お寺の世界とは縁もゆかりもなかったものですから、最初は大丈夫かと思いましたが、今や堂々たるお寺の顔役で、住職は頭が上がりません。

檀家が30軒というと、やはり寺としては小さいほうですが、これくらいの規模だと、まず3年で家族の顔は全部わかるようになり、10年で親戚もわかるようになります。記憶のよい住職なら、もっと早いでしょう。そうなれば、「準身内」のような感じになり、お互いかなり立ち入った話もできるようになってきます。

いわゆる「檀家」、この寺と檀家の関係は、江戸時代に幕府によって、必ずしも信仰とは関係なく、政治的に制度化されたものです。明治以後は、法的制度ではなくなりましたが、慣習として存続してきました。したがって、檀家さんたちは、自ら仏教や宗派の教義を学んでいる、自覚的な信心を持つ「仏教者」とは限りません。

しかし、「檀家」という長い慣習が培ってきた確かな信仰があることも本当です。私は以前、80歳をすぎたお婆さんから、なるほど信心とはこれか、と教えられたことがあります。

ある日、月参りで一軒の檀家さんを訪ねたときのことです。いつものように、その家のお婆さんと奥さんが出てきて、私と一緒にお経を挙げてくれました。挙げ終わって、お茶を出してくれながら、奥さんが「最近妙なことがあった」と言うのです。

「いえね、この前、近所に見かけないお坊さんが来てね、お経を挙げさせてくれって、回って歩いてたんですよ。そしたら、お婆ちゃんが、うちで挙げてもらえって言っちゃってね。しょうがないから、挙げてもらって、お婆ちゃんがお布施もしたの。でも、なんだか変なお経なの。般若心経だと思うんだけど、節もおかしいし、つかえるし。インチキみたいで」

 それを聞いて、私も笑いながら、

「いやあ、最近、都会じゃ坊さんの恰好をして妙な金儲けする連中がいるみたいですよ。いよいよ福井でも出ましたか」

 と言ったら、黙って聞いていたお婆さんが突然、低い声でつぶやきました。

「誰が挙げてもお経さまは有難いもんだ。わしはお経さまにお布施したんで、坊さんにしたんじゃねえ」

 それを聞いたとたん、夏の暑い日でしたが、私は背筋に冷たいものが走るような気がしました。それは、信心が結晶した、実に水晶の刃のような思想でした。それは書物から組み立てた思想とはまったく別の、しかし思想としか言いようのない強靭な言葉でした。

 帰り道で私は、踊念仏で有名な一遍上人の逸話をまざまざと思い出しました。

弟子を引き連れての遊行の途中、上人はある侍の屋敷に立ち寄り、念仏を唱え布教しようとしました。おりしも、その屋敷では主の侍が仲間とともに酒盛りの最中でした。家来が上人の来訪を告げると、主はにわかに衣服を改めて出迎え、上人の前に正座し、合掌して念仏を受けたのです。念仏終わって、上人一行が立ち去ると、主は再び宴会に戻り、坐ったとたん、「あいつはとんでもないインチキ坊主だ」と言い放ったのです。それを聞いた仲間は笑って、「では、なぜ念仏を受けたのだと」と訊くと、侍は一言、「念仏に嘘はないからだ」。後でそれを聞いた一遍上人は、「彼こそ本当の念仏者だ」と言ったと伝えられます。

 この日以後、私は書物から学問として、あるいは思想として仏教を学ぶ限界を、明確に意識するようになりました。それが無意味だとか、無駄だと言うのではありません。ただ、宗教と宗教学は、別なものなのです。それを自覚した上で、宗教の言葉に向き合わないと、お婆さんの言葉の力を、私たち僧侶は持つことが出来ない、痛切にそう思ったのです。

 


お金が降ってきた!

2006年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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 下北半島がようやく春らしくなってくるこの時期、恐山には周辺各地の町や村から「地蔵講」の人たち(ほとんどが中高年の女性)がお参りに来ます。

「講」とは、信心を同じくする人たちが集まって寺に詣で、先祖供養をしたり、住職の法話を聞いたり、皆で食事を共にして一日を過ごすという仏教行事で、こうしたものは今でも全国でかなり行われています。ちなみに、私の住職している福井県の寺にも同じようなことをする講があります。

 古くは、修行僧がお経などの講義を受けたり、教義の議論を行う「講会(こうえ)」だったのでしょうが、仏教が庶民信仰として浸透していく過程で、現在のような形の「講」になったのでしょう。

 恐山の講は、地蔵菩薩信仰に基づき、彼女たちは数人から三十人程度のグループをつくり、午前9時ごろ上山してお供え物を準備し、地蔵殿で祈祷や供養のお参りをし、持ってきたお弁当でお昼を食べ、午後は温泉につかり、仲間とゆっくり四方山ばなしをして、3時ごろ帰っていきます。

 去年はじめて法要の導師をしたときには、びっくり仰天してしまいました。法要の最中に後ろからお賽銭が飛んでくるのです(携帯電話で撮った写真が不鮮明ですみません)。最初はパラパラッと、そのうちババババッ、ババババッ、中にはドスンというのもあります。ビニール袋に入れた、ソフトボールくらいの小銭の塊が落ちてくるのです(畳の上で光って見えるいくつかの丸いものがそれです)。ときには、後ろの方に坐っている人が野球の投手なみに振りかぶって投げてくるので、それが耳元をかすめると、ビュッと風を切る音がするほどの勢いです。当たると痛い。怖いです。

 私の後ろで読経する僧侶は心得たもので、丸柱に身を隠し、微妙に体を動かして上手にかわしているのですが、ど真ん中にすわっている新米院代の私は全員の標的で、導師たるもの身動きもできず、地蔵菩薩に自分の頭の無事を祈るばかりでした。

 なんだか大衆演劇一座の役者になったような気分でしたが、これもこの地方に長く生きてきた信仰の形なのです。

 おそらく彼女たちは、「投げたい」とか「投げなければならない」と思って投げているのではないでしょう。そうではなくて、「投げることになっている」から投げるのです。それが習慣というものです。「したい」「しなければならない」は、所詮、人の感情や意思によります。それは変わりやすく、習慣のように長く続くことは困難でしょう。

 私が禅道場で修行していた頃、ある老僧がこう言っていました。

「好きでやっている坐禅は凡夫だな。しなければならなくてやっている坐禅も素人だ。するのが当たり前になった坐禅が本物だ」

「するのが当たり前になった坐禅」、これこそが生き方にまで練り上げられた坐禅であり、そうなっていくことを修行というのでしょう。

 習慣を持っている人は強い。その人は生き方の形を持っています。どうしてそれが必要なのか。それは、我々がそもそも、「自分でありたくて」自分なのではなく、「自分でなければならなくて」自分なのでもなく、「自分であることになっている」時、はじめて自分を受け容れていられるからだろうと、私は思います。


しょせん、勝てない

2006年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0003_1          ご存知の方も多いでしょうが。恐山は、この写真のような、現在も硫黄ガスが噴出する火山地帯にあります。自動車で街道を走ってくると、恐山の境内が見えるあたりから、急に強い硫黄の臭いがしてきます。Cimg0007_1 この火山活動がつくりだした風景が、ある種異界の様相を呈し、特にこの岩場の一帯は地獄になぞらえられ、独特の信仰を生み出してきました。

しかし、この環境は、実際きびしい。5月1日が開山日ですが、開山してからが大変です。ここは鉄や銅の類があっという間に腐食してしまうのです。寺務所や宿坊は大変。あらゆる電気設備にコーティングしても、硫黄ガスのパワーは防ぎ切れません。

アスファルトもガスで持ち上がっています。宿坊建設のときに使用した釘も、鉄はダメで、特注品だそうです。

パソコンは半年で動かなくなります。去年、私のパソコンは、まさに半年で突然死してしまいました。今年は、宿坊事務所のパソコンをいざ使おうとしたら、液晶画面からいきなり煙が出てきて終わり。常にバックアップと予備のパソコンを準備しておかなければなりません。要するに使ってはいけないところで使ってるんですね。

あと、開山3日目くらいに、お風呂の蛇口がさび付き、閉まらなくなって水が止まらず、大騒動でした。エアコンにもかなりの不具合が(現在は宿泊者が少ないので、部屋の融通はきくので、ご不自由はおかけしません)。飲み物の自動販売機は、3日に一度くらい、何も反応しなくなり、業者が飛んできます。

恐山のスタッフは心得たもので、どんなときもあわてません。新米の私が右往左往しているだけで、皆はこれが普通だと思っているのです。とにかく参拝の方々にご迷惑にならないようにと、それだけは日々戦いという感じですね。

私はここで、つくづくと悟りました。自然には勝てません。「自然対文明」などという図式は、自然から遠く隔たった「文明」の中で言う寝言のようなものです。ハナから勝負になりません。いや、そもそも勝負が成り立たないでしょう。人間が増え、「文明」が拡大したら、自然は、それも自然の内として、それなりの対応をするだけです。我々が「自然破壊」や「環境破壊」と思っいることでも、自然にとっては破壊でも何でもありません。人間に都合のよい環境が、人間の都合で破壊されるだけのことです。私はここで生活して、自然に対する畏敬などではなく、時として恐怖を感じることがあります。そして、おそらくそれは、生物として健全な感覚だろうと思っているのです。


はじめまして

2006年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0002_2 ここは本州最北端、下北半島の中央部、知る人ぞ知る霊場恐山です。私はここで恐山山主の代理(「院代」)をしています。今日から恐山の紹介や仏教の話など、あれこれ書かせていただきます。どうぞよろしく。

5月1日、今年も恐山はようやく開山を迎えました。まだ、寒いです。桜はようやくほころびはじめました。写真(クリックすると大きくなります)は、左上に見えるのが本尊地蔵菩薩を安置する地蔵殿、右下が、古くから湧き出る恐山の温泉(外湯)、さらに大勢の信者さんが祖霊の供養に奉納した大卒塔婆の列。また右上には、4年前に新築された宿坊が写っています。これから少しずつ紹介してまいります。