恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

戯れ言二題

2010年06月30日 | インポート

その一

 祀られる仏もなくなった、屋根が裂け板壁の破れた御堂の境内で、子供たちがかくれんぼをしていた。

 一番体の小さい子供にオニをおしつけたのか、あとの連中はビー玉をころがしたように散っていく。

 言葉もまだ覚束ないようなオニの子は、当然だろう、途方にくれて突っ立っている。どこからか激しい犬の鳴き声。

 するとオニの子は、肩凝りの老人が首を回すように頭を振ると、前に二、三歩つんのめって、小さく静かに、声を引きながら泣きはじめた。

 オニの子、泣くな。捜すな。隠れた連中は、見つかるために隠れている。お前が捜さなければ、出てきているのと同じことだ。

 さて。

「起源」を問うことは無意味である。それは決して「見つからない」。「宇宙の起源」を問うとき、問われる宇宙はすでにある。すでにある宇宙は、「起源」を含んでいる。したがって、「宇宙の起源とは何か」という問いは、常に「起源の起源とは何か」という問いになる。ならば、この後に続く無限の連鎖を断つのは、人間の都合でしかない。故に「起源」とは、「そのとき起源と決めたこと」にすぎない。

その二

 駅前のラーメン屋。入り口に近い四人掛けのテーブルに、男が一人すわっていた。瞼の厚い垂れた眼と、えぐれたようにこけた頬。頭蓋骨に張り付く薄い皮膚と、いやに黒々としているが、隙間の多い髪。

 足もとに大きな紙袋と、テーブルの上に小さいカバン。そこに店員が380円の中ジョッキと250円の「おつまみチャーシュー」を持ってきた。

 男は大儀そうにジョッキを持ち上げ、一気に三分の一を飲む。そして律儀に皿を口元まで近づけて、チューシューの付けあわせのキャベツを、麺をすするように食べ始めた。

 この男はいま、考えている。私が彼をみて考えているように、「何か」考えている。何を考えているか知らぬまま、無音の言葉が流れている。

 さて。

 孤独とは、一人でいることではない。たった一人でいるのに、声が聞こえることである。絶えざる呼びかけから逃れられないことである。どこの誰からの呼びかけでもないのに、私たちは無意味な応答を繰り返す。「人間」とは言葉が開いた裂け目にすぎない。

追記1: 恐縮ですが、引き続き宣伝させていただきます。来る7月29日午後7時より、新宿・紀伊国屋ホールで講演を致します。テーマは恐山。興味をお持ちの方、よろしくご来場下さい。

追記2: 次回の「仏教・私流」は、7・8月は休ませていただき、9月15日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


パワーレス・スポット

2010年06月20日 | インポート

 このところよく聞くようになった言葉に、「パワースポット」というものがあります。スピリチュアル・ブームからの派生品でしょうが、その土地に宿るとされる「霊力」めいたものが、人の運気を上げたり、願い事をかなえたりするという、「聖地」と称される場所のことだそうです。

 私は大して気にもとめずにいたのですが、このブームに乗って、大いに参拝が増えたり、いきなり有名になる寺社仏閣があるらしく、それはそれで慶賀の至りです。ただ、我々には無縁な話だと思っていたのです。

 ところが、最近、某大新聞のアンケート記事に、「パワースポットだと思うところはどこですか?」なる質問があり、なんと、伊勢神宮に次いで、恐山が堂々の(?)第2位になっていました。ビックリです。

 これだけでもビックリなのに、ほぼ時を同じくして、受信料を徴収する某テレビ局のディレクターから電話がかかってきました。

 彼いわく、今時の若者の宗教観や信仰に対する意識をテーマにした番組を企画しているのだが、昨今のパワースポットブームをどう思うか、あるいは恐山はパワースポットか、パワースポットだとすれば、どういう意味でそうなのか。

 答えるのがバカバカしくなるような話でしたが、相手の真面目な口調に好感を持ったので、私は以下のようなことを言っておきました。

 恐山が「パワースポット」だとするなら、それはパワーがあるからではなく、無いからです。ここには何か有り難いもの、超自然的なもの、人知に計りがたいものがあって、そこから力が発散しているわけではないでしょう。

 そうではなくて、力も意味も何も無いがゆえの「霊場」だと思います。あえて言うなら、底を抜いた時に水が吸い込まれていくような、そういうマイナスの力の働く場所だと思います。

 私たちの社会と生活は意味と秩序で出来上がっています。損得、利害、善悪、取引、競争、愛憎・・・、そうした意味と秩序の網目の中で暮らすのが、この「現世」というものです。そういう楽ではない毎日において、「元気をもらえる」ように、「癒される」ように、何か「ご利益」があるようにと、人々は「パワースポット」を求めるわけです。

 しかし、「霊場」としての恐山の存在の仕方は、それとは異なると思います。いまや恐山は、「現世」を根底から脅かすもの、「元気」を断ち切るもの、「ご利益」を無に帰するもの、社会と生活から可能なら排除したいもの、つまり「死」が開放される場所なのです。

 人間の生活においては、無益でときに有害かもしれなくても、その存在においては、決定的な力を持つ「死」。この日常の意味と秩序に収拾しがたいものを、意味と秩序の埒外の場に開放したとき、そこに「霊場」が現れるのです。

 恐山に長く続く信仰の形は、ほとんど自然発生的に生まれたものです。教義や僧侶が誘導したり強制したようなものは、結果としてありません。ここに集まる人たちが生み出し、引き継いできたのです。

 中に物が入った器には、それ以上の物は入りません。何も無いから、人は思いのままのものを、自由に入れられるのです。社会と日常に盛り込みがたい、しかし人間として生きることに是非とも必要な何かを受け容れて形になった場所こそ、「霊場恐山」だと、私は考えています。

追記:恐縮ですが、一身上の都合で、宣伝をさせていただきます。来る7月29日(木)午後7時より、新宿紀伊国屋ホールで、講演をいたします。テーマは恐山。興味がおありの方は、どうかご来場下さい。よろしくお願いいたします。


言葉による不在

2010年06月10日 | インポート

 たとえば、ある絵の美しさは、言葉でいくら説明しても伝えることは不可能で、実際に見る以外に、その美しさを知ることはできません。そういうことから、言語能力の不完全性に言及することは、よくあるパターンです。

 ただ、私が今回考えたいのは、そういうことではなく、言語が何かについて語るときには、不可避的に、そのもの、それ自体の存在を消失させてしまうということです。そして、そのものについて何か語っているときには、大抵の場合、その消失に気がつかない、ということです。

 たとえば、私が、いま目の前の「この」茶碗について語っているとき、まさに、ここに今たった一つのものとしてある、そういう茶碗です。それを称して「この」と言っているのです。

 ところが、茶碗を指す「この」という語は、いつでも、どこでも、何にでも使えます。けっして、いま私の目の前にある、まさに「この」茶碗だけに限定されて使われるわけではありません。つまり、本来「この」が意味すべき、その茶碗の存在の単独性、ユニークさには、決して届きません。

 と同時に、「この」は、いま「私の」目の前にあるということの、特別さも取り逃がします。なぜなら、「この」という指示が意味を持つのは、「この」茶碗が存在する場を、誰か他人と共有している場合だけだからです(実際に他人がそこにいるかどうかは別です)。すなわち、「この」という語は、その茶碗そのものを指しているのではなく、その茶碗について語られている場を意味しているのです。

 かくのごとく、言語が意味在るものとして通用している場では、いつでもどこでも、まさに言及されている当のものの存在それ自体は、決して語られません。むしろ、それを失うことで、言語は成立するわけです。

 ここまで言うと、察しのよい方は、私の言いたいことがおわかりだと存じますが、ならば、「私」という語も同じでしょう。

「私」も、いつでも、どこでも、誰でも使う言葉です、しかし、「私」が本来意味すべきなのは、この世界で、まったく代替不能で、ほかに比べようも無く単独で存在する、まさに「この」「私」です。

いま、ここに、「私」のように世界を見、聞き、感じている者は誰もいません。この苦しくなるような単独性を、「私」という語は、けっして担えないのです。その比類なさを失うことでしか、「私」を語ることはできません。

 さらに切ないのは、「私」の単独性や比較不可能性は、まさに「私」を成立させる言語によって他者に媒介されないかぎり、気がつかないということです。実際、単独性の自覚は、複数性が前提とされ、比較不可能性は、不可能を判断できる程度に比較されて始めて成り立ちます。「私」がこの世でたった一人の人間として生まれてきたなら、絶対に自分の単独性にも比類なさにも気がつかないでしょう。

 ときとして切迫する「私」という存在の居心地の悪さ、つい「本当の自分」を妄想するやるせなさは、そのものの存在を失わせるという、言語の「この」根源的な力に由来するのです。