恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

悪態です4

2016年06月30日 | 日記
 投票日前ではあるが、言わずにいられない。

 人は色々だから、十把ひとからげはよくないことだと承知の上で言うぞ。右の端から左の端まで、国会議員と参院選候補者は、一体全体、どうなってるんだ! どうして誰一人として(いわゆる「泡沫候補」の主張まで全部調べてはいないが)、いま増税を訴えないんだ!!

 直ちに増税に踏み込んだ上で、所得の再分配機能を強化した税制の見直しに着手しようとする政治家が、なぜ誰もいない?

 金利がマイナスになるほど札束をばらまいてもできなかった増税が、どうしてこの先突然できるようになると言うんだ(まさか「奇跡」だのみか?)。将来どころか、明日の子育てや介護に不安を感じている人に、「成長と分配の好循環」などという、今更ほら話にしか聞こえないご託宣を吹き込んでどうする!

 そうでなければ「赤字国債」で何とかするという。阿呆か! 異次元緩和だの国債だの、もはや中毒を自覚できない薬物中毒者のような言い草じゃないか。先に延ばせば延ばしただけ、事態は悪化する一方だろう!!

 このままでいけば、敗戦がわかっていながら破滅まで無策のままだった「帝国日本」同様に、破綻が見えているのにそのまま突っ込む「経済大国日本」になりかねないぞ。

 どうして間近な危機を具体的に正直に言わない! おそらくほとんどの人々は薄々わかっている。それを正面から訴えて協力を得ようとするのが、真っ当な政治家じゃないのか?!

 そして、みんながイヤでも取らざるえをない負担配分政策を、優先順位をつけて明らかにしなきゃダメじゃないか!(立法府と行政府のダイエットは、当たり前だ!!)

 結果、自分たちが今後どういう社会・経済システムを構築しようとしているのかを、堂々と掲げればよいだろう!!

 下手をすれば、今度の選挙は、今になって「離脱」を後悔しているらしい、どこぞの国民投票と同じになるぞ。先々を考えず目先の飴玉をしゃぶったために、2、3年後にどえらい苦い薬を飲まされかねない。いや、その薬を飲む前に、何も口から入らない重体に陥ったらどうする!

 誰がどう見たって、少子高齢化がもたらす課題には、長い複雑な取り組みと費用が必要に決まっている。その間、内需が劇的に大きくなるはずもない(大量の移民受け入れに踏み切るなら別だが)。内需が弱いのに外需がそれを上回る稼ぎをもたらすとは、想像できない。だったら、歳入が安定的に拡大するはずもなく、ある程度の規模で見込める確かな金は、増税して支出を減らすことによって捻出するしか道はない。

 みんなが辛くて切ないことを、どう互いに納得して実行するのか、その方策を考えるのが、いま本当に必要な政治のはずじゃないのか。

 この状況を放置したままだと、遠からず危機をめぐって、世代間で、富裕層ー貧困層間で、既得権者ー非既得権者間で、都市ー地方間で、そして政治的立場で、先進各国で先鋭化しているのと同じような分裂が、一気に表面化して収拾がつかなくなるぞ。

 言いたくないのは、わかる。しかし、それにしても、まるで誰も言わないとは、いくら何でもおかしいだろう!!

 終わりに一言。自分は投票に行く。そのとき白票をいれるかどうかは別として。もう、有権者の意地だけだ!

久しぶりの悪態です。失礼しました。

話の合わせ方

2016年06月20日 | 日記
 仏教徒というからには、少なくとも、ゴータマ・ブッダが「悟っ」て「涅槃」に入ったという話を、それが現実に起ったことだと認めなければなりません。これが最低条件です。

 ここで最も困るのは、何が「悟り」で何が「涅槃」なのか、あるいは「悟った」まさにそのとき何が起きたのか、「涅槃」とはいったいどういう状態なのか(そもそもそれは「経験」の対象と言えるのか)、皆目わからないことです。どの経典にも、ブッダ自身がこれらを直接テーマとして解説した部分は見当たりません。

 しかし、そうは言っても、何しろ仏教の核心ですから、とりわけ後に仏教の「プロ」化した弟子たち(民衆からお布施もらって生活している者たち)にとっては、ただ「わかりません」では済みません。

 すると、ブッダが残したとされる言説(様々な経典)から、「悟り」「涅槃」を自分たちなりに推定して語ることになります。これらの推定はしばしば「ブッダの真意だ」と勝手に強弁されますが、要するにすべて推定ですから、その是非を「客観的に」決定する基準はどこにもありません。

 しかし、一度それなりの「悟り」「涅槃」が言説として設定されると、今度はそこに到達する方法が考案されます。目的が「わからない」のに手段だけが正当化されることはあり得ませんから、方法も結局、とりあえず設定された「悟り」「涅槃」に適合するように制作された、とりあえずのものにすぎません。

 かくして、目的たる「悟り」「涅槃」が設定され、そこに至る方法の用意もでき、ある程度の規模の支持者も集まって来るとなると、次には、人々はそれぞれの考えや体験を出来合いの目的と方法に当て嵌めて考えるようになります。この態度が昂進すれば、当て嵌まらない考えや経験を無視することになるでしょう。

 となれば、「悟りたい」人や「涅槃に入りたい」人は、「プロ」が提示する目的と手段に合致するように、無理にでも自分の考えと経験を操作するようになるはずです(いわゆる「修行」)。

 このような経過は、何も仏教の場合に限らず、およそ「真理」なるものを目指すあらゆる営為に共通でしょう(「真理」それ自体も人間には認識できないから、事情は仏教と同じ)。

 だったら、「真理」だの「悟り」だの「涅槃」だのを大っぴらに掲げて世間に打って出るような者は、まず自分の言葉で明確に「真理」「悟り」「涅槃」を定義して、あくまでそれが「自分なりの解釈による」ものだと宣言した上で、それらに到達するために有効だと自分が考える方法を提示するべきです。あとは、話を聞いた人々がどの程度納得し支持するかだけの問題になります。

 すなわち、語る者はすべて手の内を明らかにして語るべきなのであって、思わせぶりな「言葉で言い表せない真理」などという無用の長物は、一切持ち出すべきではありません。

先々の話

2016年06月10日 | 日記
 世界最強と言われる囲碁の第一人者を打倒し、将棋のプロ棋士に勝つことは今や珍しいことではなくなり、一流大学の入試突破に肉薄しながら、小説を書くプロジェクトまで始まっているという、このところの人工知能の発達はますます加速しているように見えます。

 当ブログでも以前にこの問題について記事を書きましたが、ここでもう一度考えてみたいと思います。

 最近の人工知能の急激な進歩は、人間の振る舞いや会話に匹敵する能力を発揮する人型ロボットを出現させています。すると、我々が思うのは、この先人間の心あるいは意識を持ったロボット、つまり鉄腕アトムのようなロボットが現実になるのではないかということです。

 現在でも、非常にすぐれた会話能力を持ち、さらに学習することもできるロボットがあるのですから、「心のある」ロボットも夢ではないと考えるのも当然でしょう。

 しかし、いかに「人間らしく」ても、ロボットは「考えたり」「思ったり」「感じたり」しているのではなく、単に「プログラム」が作動しているにすぎません。そこに心や意識があるとは、とても言えません。

 ただし、問題は「ない」とも言えないことです。なぜか。

 それは、我々は「他人」に自分が持つような心や意識があるのかどうか、原理的にわからないからです。我々は他人の振る舞いや会話を自分に引き当てて、彼の意識と心の存在を「信じている」だけです(ちなみに、自分の「心」は、他人の言葉と振る舞いからコピーしたものですが)。

 だったら、事情はロボットも他人もかわりません。他人に心があると信じられるなら、「人間そっくり」のロボットに心があると考えてもおかしくありません。

 では、心や意識があるのかないのか、判断する方法はないでしょうか。

 私が思うに、意識とは自己と他者の関係それ自体を認識できることです。その認識の上で関係を操作(設定・維持・改変・解消など)する能力が現前することが、意識だと言ってもよいでしょう。

 この能力の獲得=心の発生の最もわかりやすい現象は、嘘を吐けるかどうかです。嘘は、自他の関係を認識していることを前提に、この関係を自分に有利になるように意図的に操作する、最もはっきりした行為です。関係の認識=自他の区別、意志の内在、意志に即して行動を組み立てる能力は、まさに意識の実質でしょう。

 このときもし、ロボットが嘘を吐けるようにプログラムされていたとするなら、それはプログラムに忠実に作動する「正直な」ロボットにすぎません。ということはつまり、嘘をロボットのプログラムにおいて吐かせるには、プログラムを裏切るプログラムが自動的に出現しなければならないということです。

 これは、プログラムの単なる「暴走」ではありません。「暴走」はそのプログラム自体の異常にすぎません。そうではなくて、嘘のプログラムは、プログラムの内部に突如としてメタプログラムが生じる事態なのです。そして、このメタプログラムの次にメタ・メタプログラムが継起し、無限に遡及すれば、これもまさに意識の様態です。

 では、プログラムの内部にメタ・プログラムが自動的に出現する事態は、どうしたら起き得るでしょう。おそらく、決定的に重要なのは、プログラムが「身体」を持つことです。プログラムとプログラムの外部(非プログラム)を媒介するもの(=身体)があれば、その媒介物の変質や轉換がプログラムに劇的変化をもたらすかもしれません。

 すると今度は、媒介物の変化や転換は、どういうシステムで可能になり、何がそれを促進するのか、という問題が出てきます(生物の新陳代謝、「成長」や「老衰」のごときシステムを構築できるのか)。

 だとすれば、今後、ロボットが「心」や「意識」を持つことは、そう簡単ではなく、現時点では想像もつかない先々の話ではないでしょうか。

 近い将来に人工知能が引き起こすであろう大問題は、けだし「心」云々ではありません。「自動社会」、すなわち、ほとんど人間の労働を必要としない社会が到来する可能性です。大量の機械「奴隷」に支えられた現代版「貴族社会」が出現するかもしれません。

 あらゆる生産を人工知能が担い(文化・芸術も含め、今後それが不可能とは思えない)、人間は消費と享楽する実存となる。それは一見、人間の最終的「自由」を意味すると思われるかもしれないが、実は、「生産」する機械に人間が「消費者」として隷属することでもあります。

 いったいそれは、ユートピアなのでしょうか、デストピアなのでしょうか。その判別も無意味なのでしょうか。