恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

反省など。

2016年11月30日 | 日記
 恐山で「坐禅と講話の会」を行いますので、よろしければご参加くださいというご案内を、今年始めに当ブログでしました。6月・8月・10月の3回、一回につき30名定員という募集です。

 この会を、私は平日に1泊2日で行ったのですが、結果は3回で30名ほどのご参加でした。やはり平日に下北半島までおいでいただくのは、大変なことなのだと、改めて感じました(坐禅指導や講話をするには、実にやりやすい人数でしたが)。にもかかわらず、全国各地からご参加いただいた方々、ありがとうございました。また、お疲れ様でした。

 実は、ずいぶん前に、かなり厳格なスケジュールで2泊3日の参禅会を行ったときは、土日など休日の募集で、定員20名が2、3日で埋まりました。その経験があったので、もっと余裕のあるスケジュールなら平日でどうかと、「実験」してみたわけです。

 しかし、実際には、わざわざお仕事の都合をつけて来ていただくことになりますから、それは容易ではないことで、ご迷惑をおかけしてしまいました。来年も開催する場合は、休日に当たるように日程を設定したいと思っています。

 もう一つ失敗したのは、まさか複数回参加する方がいらっしゃるとは思わず、講話の「ネタ」を一つしか用意しておかなかったことです。これはまったく当方の油断で、今度するときは、毎回別の話ができるようにしたいと思います(テキストを使用した方がよいかもしれませんね)。

 あと残念だと思ったのは、思った通り、20代の方の参加がなかったことです。おそらく、ご希望の方がおられたとしても、職場での立場からいって、休日を思い通りに取りにくかったでしょうし、また恐山までの交通費の負担も、若い世代には大変だったのだろうと思います。

 ちなみに、最近時々質問されるのは、「あなたに坐禅指導を受けるにはどうしたらよいのか?」ということです。

 現在私が個人的に指導している方は、日時をご予約いただいて福井の霊泉寺まで来ていただいています。恐山でも可能ですが、最大の問題は日時の調整で、ご希望の方と簡単に予定を合わすことができず、申し訳ないかぎりです。また、一か所に滞在する日数が少ないため、お一人に対する定期的な指導はかなり困難な状態です。

 私は青森・東京・福井を毎月移動しているので、それぞれの都合に合わせて使用できるようなスペースを東京にも確保できれば、それなりに指導回数を増やせるかもしれませんが、これもそう簡単に実現することではないでしょう(坐禅会なら場所を提供してくれる人はいるかもしれませんが、個人指導の場合は事情が違うと思います)。

 私は坐禅の場合個人指導を原則にしたいと考えていますので、今のところ参加自由の定期的な坐禅会を行うことは考えていません。もし今後それを行うとすれば、ご希望の方々とスケジュールやプログラムをご相談しながら、徐々に実施したいと考えています。

 なかなかよいアイデアが出ず申し訳ありませんが、とりあえず来年、恐山「坐禅と講話の会」実施が決まった場合は、また告知させていただきますので、その節はよろしくお願いいたします。

倫理的実存

2016年11月20日 | 日記
 3.11の原発事故後、福島から自主非難を余儀なくされ、転校先の横浜で「いじめ」られた少年の手記。

「なんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」

 私が考える倫理は、この「きめた」の一言にかかっている。

 彼に深甚なる敬意を表します。

番外:今、ちょっと所感メモ

2016年11月10日 | 日記
 次期アメリカ大統領に決まった人が、選挙期間中に言ったことを今後額面通りそのまま実行するとしたら、我が国にとっては、

・憲法9条を変えて、徴兵制や核武装を含む「自主防衛」路線に転換し、

・「戦前」回帰的ナショナリズムを強化して、現憲法が保証する「基本的人権」に制限をかけるイデオロギー装置を準備する、

 そういう勢力が台頭する可能性が大きくなるでしょう。

 しかし、その勢力は、現自公政権を含む現体制側からは出ないと思います。なぜかというと、

 現政権的「ナショナリズム」は、日米同盟と経済成長(グローバル化が基本条件)を前提としているから、次期大統領の基本方針(自国第一主義と反グローバル主義)と相反する以上、そのまま通用しないはずです。つまり、「ナショナリズム」として上半身と下半身がねじれていて、機動力が乏しいわけです。

 したがって、私が予想する「勢力」は、欧米に遅れて、かつ欧米同様に、世間の「アウトサイダー」であり、かつアジテーションの天才的才能を持つ「ポピュリスト」として、賢い人物ならゆっくりと、笑みを浮かべながら、穏やかそうに姿を現してくるのではないでしょうか(体制内人間がいきなり立場を帰る可能性もあり)。

 言論と表現の自由をなるべく高度に確保し、多様な人々の共存が社会の将来にとって本質的な利益だと考える人々には、今後漠然とではなく、具体的な発言や行動の局面で「覚悟」を決めるべきときが、戦後初めて現実的にやってきたと言えます。

 いずれにしても、ついに、自分たちの国を、自分たちでどうしたいのかを、自分たちで決する、「民主主義」の意味と力が、私たちの国で根本から試される、ある意味で絶好の機会が訪れつつあると、私は思います。


捨てると持つ

2016年11月10日 | 日記
 いわゆる「ダイエット依存症」とボクサーの減量とは、何が違うのでしょうか?

 後者は試合への出場という目的があり、それが果たされれば終了します。つまり、減量は純然たる手段です。ところが、「依存症」は減量自体が目的なので、終わりがありません。

 私はこの「依存症的」な印象を、最近の「捨てる」ブームに持つのです。必要のなくなったものを捨てるというなら当たり前の話ですが、「捨てる技術」「断捨離」などの、捨てること自体に価値があるかのように語るフレーズを頻繁に耳にするようになり、その象徴的なイメージとして、例のスティーブ・ジョブズのほとんど何も無い部屋の写真を見せられたりすると、私はここにある錯覚を感じるのです。

 以前、「ゴミ屋敷」の記事を書きましたが、あれは言うなれば「所有依存症」です。

 しかし、よく考えてみれば、「所有」という行為の実質は、対象を「思い通りにできること」であり、ならば「思い通り」の中に「捨てる」ことが含まれます。すなわち、「捨てる」と「持つ」は同じ「所有」行為の両側面なのです。

「何でも持つ」行為そのものによって「思い通りにできる」自我をを幻想的に仮設し、自己の存在感を補強している「所有依存症」者に対して、「捨てる」行為も同じ作用を自我に与えているわけです。

 したがって、スティーブ・ジョブズのあの部屋も、実は所有の欲望を反照的に表現していると思います。つまり、彼の部屋のイメージが我々を誘惑するのは、ほとんど何もないあの状態が、反照的に「何でも入る空間」「何でも持てる場所」として現前しているからです。所有の欲望を正面ではなく背後から強烈に刺激するのです。

「思い通りにする」欲望とは「自己コントロール」の欲望であり、それはすなわち自己の実存の無根拠性を、幻想的に補填しようとするものです。

 釈尊の教えが、その最初から所有に批判的だったのは、闇雲な「禁欲」礼讃でも、ましてや「断捨離」誇示が目的だったのでもありません。その眼目は、所有行為が「自己」それ自体の実体的存在を錯覚させるメカニズムを、徹底的に暴露することにあるのです。