恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

切り替える力

2021年02月20日 | 日記
 私はかつて50歳代の男性を二人、出家得度させて弟子にしたことがあります。その後、この二人は修行に入る前後に断念して、結局僧侶にはなりませんでした。理由はそれぞれです。

 その他に弟子以外でも、比較的高齢で出家して、後に還俗した人たちを今までに何人か見ています。

 その一方で、40歳を過ぎてから出家して修行僧となり、今も僧侶であり住職である人を、私は10人以上知っています。最高齢は60歳を過ぎ、小学校長を定年後に入門してきた者、一番驚いたのは、自衛隊の陸将を退官して修行僧になった者です。

 さて、いわゆる初期経典には、ブッダの言葉として、「晩年に出家した者」に具えることが難しい項目を列挙したものがあります。その項目とは、以下のようなものです。

①機敏であること
②威儀を具えていること
③多くの教えを聞くこと
④教えを論ずること(説法者であること)
⑤律(僧団の生活規範)を身に付けること
⑥よく説くこと
⑦学んだことをしっかりと把握すること
⑧教えられたことを恭しく巧みに行うこと

 ①は、確かに歳と共に難しくなるでしょう。ですが、道場では、甘くは接しませんが配慮はしますから、ハナから修行が無理とは思いません。

 ②は、修行僧らしい、あるいは僧侶らしい立ち居振る舞いや佇まいを意味するでしょう。これも、まあ数年修行経験を積むうち様になってきますから、加齢は致命的障害にならないはずです。

 ③、④、⑥については、必ずしも晩年僧の弱点にはならないと思います。要は志を以て実践と勉学の両面に研鑽を積むことが重要なのであって、この点、箸にも棒にもかからない若い修行僧は少なくありません。

 ただ、⑦が主に記憶力や理解力についての言及だとすると、加齢による減退がある場合には、それを補う工夫は要るでしょう。ですが、「把握」ができないわけではないと思います。あくまで「難しい」ということです。

 私は思うに、問題は⑤と⑧です。なぜなら、⑤と⑧はそれまでの思考や行動のパターンを大きく切り替えなければならないからです。要するに在家から出家へと、生活スタイルを劇的に転換する必要があるのです。

 これは、過去に多くの経験を積み重ねてきた晩年の者には、そう簡単なことでありません。生活習慣化した過去の経験が、切り替えの障害になるのです。

 たとえば道場では、昔から先に入門した者の立場が上ですから、場合によっては孫のような「先輩」の指導・指示に無条件で服従しなければなりません(特に修行初期)。それがルールなのです。これを屈託なく即時にできる者は、そう多くありません。

 私が入門した頃には、新到和尚(新人1年目)が集まる大部屋の正面に、茶色に変色した紙が貼ってありました。いわく、

「年齢を忘れよ。過去を忘れよ。自分を忘れよ」

 出家に限らず、生きていると、この種の切り替えが必要になる場面が、一度や二度はあるものです。


修行僧名(迷)言集

2021年02月10日 | 日記
 記憶に残っている言葉いくつか。

▼先輩に気合を入れられて
「あの人、馬鹿になれって言ってたけど、自分は馬鹿じゃないのかね」

▼ある法要で
「いくら優秀でも、お坊さんは若いと大してありがたく見えませんが、80超えて黙って立っていれば、誰でもありがたそうに見えますね」

▼苦心惨憺
「とにもかくにも、『坐禅して公案解いて一丁上がり、悟りました!』っていうのは、わかりいいじゃないですか? ウチは『坐禅して身心脱落』でしょ? 困っちゃいますよ。何落としたんだって言われちゃう」

▼順番
「とにかく、やれ! やってから考えろ!! でも、後で何も考えないとただの奴隷だぞ」

▼礼儀作法
「あれの正体はな、効率だ。そのほうが、付き合いも行動も楽になる。しかも、最も効率が良いのは、立場が上の者が下に対して礼儀正しくするときだよ」

番外:ちょっと、違うの

2021年02月05日 | 日記
 邪な大義(東京でやるのに「復興五輪」)と虚偽の理由(スポーツに適した7月)で呼び込んだ東京オリンピックに、私は最初から反対で、それを当ブログでも口頭でも言い続けてきた。どうせロクなことにならないと思ったからである。

 そうしたら、本当にロクでもないことが立て続けに起きた。私も、マラソンの開催地変更あたりまでは、正直ザマミロくらいに思っていたのである。

 ところが、突然の疫病禍である。その後の一連のオリンピックをめぐる出来事を見ていて、問題は東京に限った話ではないと考えたので、私はオリンピツク自体の廃止、あるいは長期休止に主張を変えた。抜本的な運営方法の改革が必要だと思ったからである。

 まあここまで言ったし、これでオリンピック話も打ち止めにしようとしていたところに、今度は組織委員会会長の元首相から飛び出してきた、絵に描いたような差別発言である。

 すると直後に、周囲から「南さん、あなたの言うとおりになりましたね。本望でしょう」と言う人間が現れた。

 しかし、こういう言われ方は心外なので、いささかここで存念を申し上げる。

 私の主張は全く変わらない。ただ、それを忌憚なく言えるのは、私とは反対の意見も自由に主張できる状況においてである。
 
 私が今深く懸念するのは、コロナ禍が深刻化するにつれて、世論の大方がオリンピックの中止や延期に傾いたこの時期、組織トップからこれほど馬鹿げた発言が出たとなると、オリンピツク開催を推進・支持する人たちが意見表明しづらくなるのではないか、ということである。

 それどころか、万が一にも「自粛警察」ならぬ「オリンピック警察」が現れて、オリンピツク関係者や選手、その家族などに、理不尽な圧力がかかるようになれば、件の発言以上の「国辱」になりかねない。

 というわけで、私は今や、「本望」どころか、成り行きを深く心配している。

 それにしても、もう事は個人の失言問題をあっさり超えて、日本社会におけるジェンダー問題の認識を根本から問うレベルに達してしまった。

 ここでまた、私はこれまでブログや口頭で繰り返して来た考えを言っておきたい。

 年齢や世代などの属性を問題にするのも、性別同様、差別に当たるかもしれないが、社会的な大変動期に突入したと実感する昨今、自らの過去を省み、批判を受けるのは覚悟の上で、あえてもう一度述べる。

 どの業界であれ分野であれ、もう60歳以上の(特に)男性に「指導者」を期待してはダメである。就中、「後期高齢者」に組織運営上の「トップ(業務に実権を持つ代表者)」をさせるのは、避けるべきだ。彼らが「トップ」を務められるのは、成長や発展をしなくてもよく、なんら「改革」も「先見の明」も必要としない、ほぼ「前例」だけで運営可能な「旧態依然」的組織だけである。

 何事によらず例外はある。高齢でも自由で柔軟な発想をする人物はいるだろう。しかし、そのような例外を当てにして組織を運営するのは、宝くじに経営を頼る企業のようなものである。

 差別や偏見は、個人の「性格」の問題ではない。それは「無知愚昧」から来る。しかもそれは、従来の「豊かな」経験や知識が更新されない結果の「無知愚昧」であることが多い。だから、往々にして、「偉い」「年寄」からズレまくった差別発言が出るのである。

 私も現在62歳だ。おそらく自分の中にも、そういう偏見や差別意識があるに違いない。だが、それを自覚することは実際には極めて難しい。ならば、個人の心がけの問題にするだけでは不十分である。これは社会や共同体の構造問題にしなければ、事態の好転は期待できないだろう。

 だとすると、まず第一になすべきは、遅くとも10年以内に、国会議員は無論のこと、あらゆる業界・分野の指導者層を、法的強制的に男女同数にすることである。おそらく、ここ三十年も叫ばれてきた「構造改革」に、一番効果があるのはこれだ。そして、順次、年齢やマイノリティなどをめぐる「多様性」を法的に組み込んだ組織編成を義務付けて行けばよい。

 だから、最後に言っておこう。我が宗派の修行道場も大半は男女が別である。特に両大本山は男性僧侶のみだ。

 私は修行の便宜上、男女を分けることには基本的な合理性があるとずっと思ってきたが、この先の時代を考えると、今が変え時である。修行道場は性別を問わず、修行僧を受け容れるべきだ。

 これを第一段階に、宗派内の各組織は、指導層の男女同数を目標として、計画的に女性を登用する施策を立案・実行すべきである。それを当然とする組織だけに将来の希望があると、私は考える。

 今回の発言が不幸中の幸いにも、このような日本社会の構造改革の契機になるとすれば、それは失言どころか、日本の未来をひらく歴史的栄光を帯びた逆説になるだろう。