恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

猫と草履

2009年09月30日 | インポート

 むかし、中国は唐の時代、ある師弟がいました。これから紹介する彼らのエピソードは、今なら動物虐待で糾弾されそうな話ですが、数ある禅問答の中でも、もっとも有名なものの一つでしょう。

 ある日、師の指導する修行道場に一匹のかわいい猫が入り込んできました。それを、東西の僧堂の修行僧たちが、自分たちのペットにしようと争い、追い掛け回していました。(規則と作法にがんじがらめにされている道場で、元気な男子が集団生活していると、実にどうでもよいようなことに突然夢中になり、張り切るものなのです)

 それをしばらく眺めていた師は、足元に飛び込んできた猫の首をつかみ、集まってきた修行僧たちの面前に突き出して、言いました。

「何かひと言、言ってみろ。言えるなら、この猫を斬らずにすまそう」

 そう師に問われた修行僧たちは、全員何も答えられずに沈黙してしまいました。そこで師はいきなり猫を一刀両断に斬り捨てたのです。

 するとそこへ、一人の弟子が、外出から戻ってきました。かねてから弟子の修行ぶりを知る師は、それを見て、今までの出来事を話して聞かせ、問いました。

「お前なら何と言う」

 問われた弟子は、それに何も答えませんでした。そのかわり、ふいにはいていた草履を脱いで頭の上に載せ、その場から出て行ってしまったのです。

 その後姿を見ながら、師は言いました。

「お前が外出せずにここにいたなら、猫は救われたろうにな」

 この禅問答の解釈は、もちろん人によって様々ですが、私はこう思います。

 ここに出てくる猫というのは、ときとして我々が求めてやまない「絶対の真理」とか「本当の自分」を象徴しているのでしょう。そう考えると、面白いのです。

 修行僧たちが猫(=「真理」「自分」)を争うのは、当然それが実在すると考えている、というよりも、実在しているという確信が前提だからです。

 しかし、猫はともかく、「絶対の真理」「本当の自分」は、定義上、人間には認識不可能です。「絶対」が何であるかは、「相対的」人間にはわかるはずもなく、「本当」の自分が、その時点で「嘘」の自分に本当に「本当」かどうか、判断できるわけがありません。とすると、認識不可能、つまり原理的に「わからない」ものは、それ自体が存在するかどうかも、「わからない」はずです。

 つまり、修行僧たちの争いは、根本的な錯覚、つまり煩悩に発しています。そこで、師は猫をつかみ上げ、突き出します。

 もしかりに、師が単純に「真理」も「自分」も無いと断定するような了見の持ち主なら、捕まえたとたんに斬り捨てればよいのです。しかし、師は、問題が「無い」と断定することではなく(これは「有る」という断定と同じ間違いです)、「有る」という前提が錯覚であることに気づかせることだと、明確に自覚しています。

 ですから、いきなり斬らずに、お前たちが「有る」と認識して争う以上は、それが何であるか知っているだろうと、「ひと言、言ってみろ」と迫ったのです。

 ところが、修行僧たちは問題の所在がわからず、ただ黙っているだけでした。そこで、少なくとも彼らの「有る」という錯覚を否定するために、あえて猫を切って見せたのです。

 これはこれで見事な教えの示し方でしょうが、危険が残ります。なぜなら、第三者が漠然と傍から見ていると、師が「絶対の真理」「本当の自分」を「無い」と断定しているようにしか見えないからです。

 この危険をはらむ現場の緊張がまだ消えやらぬところに、信頼する弟子が戻ってきました。そこで、師は、この「絶対の真理」や「本当の自分」の有無に関する議論が無意味であることを、弟子に言わせようとします。

 すると弟子は即座に、自分には有無の議論に加わることではなく、議論の土俵自体をひっくり返すことが求められているのだと察します。そこで何ら答えることなく、草履を頭に載せるような、突拍子もない行動に出たのです。

 この場合、弟子の行動は、草履を頭に載せようと、逆立ちしようと、裸踊りをしようと、何でもよいのです。議論そのものの無意味さを示し、議論の枠組みを脱臼させることが重要だからです。

 それが修行僧たちにもすぐにわかったなら、猫を斬る必要もなかったというわけです。

 ちなみに、道元禅師はこのエピソードにコメントして、「実に見事なやり方だが、猫を斬るような仕業は、無いにこしたことはない」と言っています。世間にありがちな、気合一発!のごとき禅僧とはまるで違う、禅師の人柄が偲ばれるところです。

 蛇足ながら、以前私の解釈を聞いたある老僧が、こう言いました。

「お前の講釈はいつも理屈が先走って、風情がないのう」

 まことに恐れ入る次第です。


祝!大記録達成

2009年09月20日 | インポート

 いまや「日本のヒーロー」ばかりか、「アメリカのヒーロー」にもなった感のあるイチロー選手。今年も、シーズン200本安打の連続記録を、実に1世紀ぶりに更新しました。その抜群の技量のみならず、若いころからの彼のユニークな言動に注目してきた私にも、大変うれしい活躍です。

 以下は、2004年(だったと思いますが)、シーズン最多安打の世界記録を樹立したとき、剣道の専門誌にエッセーを頼まれ、書いたものです。ささやかな祝意のしるしとして、転載させていただきます。

イチローの「作法」

十個の台風、大地震。おまけに熊の出没。国の外ではテロ・戦争、内に連日の殺人事件。昨年はお世辞にもよい年とは言えなかった。

 その中で、日本中の耳目を集めた数少ない明るい話題はスポーツ、金メダルラッシュのオリンピックと、あの大リーガー、イチロー選手の歴史的大記録であろう。

◆ ◆ ◆

 いまや神業の域に達した彼の活躍は、今更素人の私が言挙げするまでもない。が、彼の勇姿を目にするたびにいつも気になるのは、例の打席に入って打つ構えを整えるまでの、一連の動作である。私にはあの独特の動作が、いつも何かの礼儀作法のように思われる。

 それにあの構えは、打ち気満々、一発かっ飛ばしてやろう、という風にはとても見えない。両膝が着かんばかりの内股で、バットを肩にかつぐように倒して構える姿は、打ちに行くと言うには、あまりに静かだ。

 この構えから彼が芸術的と言えるヒットを量産する様を見ていたら、なんだかボールを打つというより、来たボールをバットで出迎えに行っているような感じがしてきた。

 昨秋、テレビでイチロー選手のインタビュー番組が放送されたが、その中で彼は自分の構えに言及して、最後に気をつけるのは背筋である、という意味のことを言った。やはり!と私は思った。体の軸が決まらなければ、どこへでも即座にお迎えにいくわけにはいかないだろう。

◆ ◆ ◆

 私には剣道五段の弟子がいるが、以前彼と話していたら面白いことを言っていた。

「試合をしている最中、何かの拍子に坐禅しているときと同じ意識状態になることがあります。そのときは必ず一本取れます。打ち込むと言うより、当たる。もっといえば相手の方から当たってくる感じさえします」

 少なくとも坐禅は相手に何かを仕掛けていく体勢ではない。なのに、それと同じ意識状態が鋭い攻めを可能にしている。そういえば別の有段者が「強い人は見ればわかります。前に踏み込んでいる足ではなく後ろに引いている足、その足の先まで頭から強い軸線が貫いているのです」と言っていた。まるでイチロー選手の構えであり、坐禅で言う「正身端坐」である。

 けだし、これらの姿勢に共通するのは「待ち」とか「受け」と呼ばれる態度だろう。それは他者を迎え入れる態度なのであり、その迎え入れによって自己を立ち上げようとするのである。剣術が「敵」を打倒する技術だとすれば、剣道は「相手」の存在を根拠に「自己」を鍛え高める修行だと言えるのではないか。もしそうなら、「相手」の到来を「待ち」、それを十分に「受け」容れる姿勢と態度が必要に違いない。

◆ ◆ ◆

 東京の禅道場で坐禅指導などしていると、色々な人がやってくる。もちろん坐禅に関心があるのだろうが、ある種の不安や屈託を抱えてやってくる人もいる。中でも若い人に多いのは、「自分のしたいことがわからない」「本当の自分が知りたい」という悩みである。 こういう話を聞くと私はよく思う。発想を変えろ、と。案外「自分は他人の役に立つ何ができるのか」を考えた方が、早く「自分のしたいこと」がわかるのではないか。「本当の自分を知る」ことができるのは、目の前の他人が自分にとってどういう存在なのか知ることによってではないか、と。

 彼らは相手を見ないまま、急いで自分を前に出し過ぎている。人生の構えに「待ち」と「受け」が足りないのだ。だから焦る。焦れば、たとえイチロー選手でも、ヒットは打てないだろう。(了)

 よく弓道などで、「百発百中の極意は、無心だ」などと言うようですが、私はこういう意味ではないかと思ったりします。

 最初は的に当てようと必死に練習する。すると当たるようになる。それは的に向かって立つ自分の構えや姿勢から発射される矢の軌道が体感され、記憶されるからだろう。

 ただし、そのまま体感にまかせて、ひたすら当てようとしても、「すぐれた選手」になれても、「百発百中の名人」にはなれまい。

 そうではなく、むしろ、的に向かう軌道にあわせて構えや姿勢を作り直したとき、「名人」の域に入るのではないか。

 軌道にあわせた構え・姿勢が確立すれば、構えたとたんに筋肉や骨格は自動調節され、そのバランスの維持以外に余計な一切の力を必要としないだろう。

 すると、意識は特定の対象を狙うよりも、的から自身の体の全体をつつむ絶妙なバランスの維持に集中することになり、これを称して「無心」と言うのではないか。

 以上、ついでに考えたことです。


宗教者の素質

2009年09月09日 | インポート

 早いもので、私も出家してから今年で丸25年が過ぎました。で、そろそろタイトルのような話をしてもよかろうかと思い、書かせていただきます。

 宗教者の素質として私が一番大事だと思っているのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。まして霊感でも超能力でもありません。つまり、一般人にないような特殊能力を「持っている」ことではありません。

 そうではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安です。どうして自分はこうなのだろう、このままでいいのだろうか。なぜここにいるのか、どこから来てどこへ行くのか。そういう問いが自分を底の方から揺るがしていることです。どうしても知りたいこの問いに答えられない切なさです。答える能力を「持っている」ことでなく、「持たない」ことなのです。いわば、この「不安のセンス」が、宗教家の資質として最も大切だと、私は思っています。それは、ある意味、「無明」や「原罪」などという言葉に極めて敏感に反応するセンスでしょう。

 宗教者は、人間の苦悩を扱う立場です。多くのそれは貧困だったり、病気だったり、人間関係の争い事だったりでしょう。それらの解決は、直接宗教が関わることではないかもしれません。しかし、そうであろうとなかろうと、いずれにしろ、何らかの苦しみ、悩み、切なさを抱えて、人々は宗教にアプローチしてくるのです。

 だとすれば、宗教者は、まずその苦しさ切なさに寄り添えなければなりません。問題はそれぞれ別であっても、いま苦しいという、その苦しみに共感できなくてはなりません。それには、自分が存在していること自体に、ある種根源的な苦しさを感じていることは、極めて重要な「能力」になるのです。

 その不安や苦しさは、劣等感とは違います。他人と比較可能な能力の不足感に由来する劣等感は、それが宗教に紛れ込むと、「神」や「仏」を道具に使って他人を支配することで優越感を味わおうとする、とんでもない欲望に転化しかねません。

 劣等感はないにしろ、人間の免れ得ない苦しみに対する想像力や共感をほとんど持たない人物が宗教にコミットするなら、「他人の弱み」につけこんで儲けようとする、悪質な「宗教商人」に堕しやすいでしょう。「商人」にならないまでも、おそろしく傲慢な「支配者」になるでしょう。

「一番危険な欲望は正義の顔をしている」と言った人がいますが、この「危険な欲望」とは、他人を支配したいという欲望のことです。ならば、それは「正義」の顔ばかりでははなく、「真理」や「美」、さらには「神」や「仏」の顔をしているかもしれません。

 だからなのです。自分の中に、その根底に、どうしようもない苦しさ、切なさ、痛みを、激痛でないにしろ、疼痛のように感じ続けていることが、宗教者として大事なのです。この痛みを知る人間は、他人を支配しようと、巨万の富を得ようと、自分の問題が何も解決されないことを、骨の髄から知っています。エセ宗教者になりようがない、ということです。

 妄想癖のある私などが恐山にいると、しち七面倒くさい仏教なんぞは放り出して、適当な教義をでっちあげ、「教祖」になって大もうけしてやろうか、などど思ったりします。ロケーションがロケーションである上に、禅寺で20年近く修行したことは事実なのですから、さらに経歴を超能力者的に粉飾したら、並みのインパクトではありません。さらに私の過去を知る人が全員黙っていてくれて(あるいは全員を黙らせて)、かつ急ごしらえの「霊能力ごっこ」を手伝ってくれる若干の協力者を調達できれば、おそらく大成功は間違いありますまい。オマエはその方が向いてるぜ、と言う口の悪い友人さえいます。

 なぜ、できないか。それほど自分を騙して平気でいられる才能に乏しく(つまり、「ごっこ」が恥ずかしい)、他方「苦しみ」の能力はいまだ高めの水準を保っている(つまり、「ごっこ」が馬鹿々々しい)からでしょう。

追記: 次回の講座「仏教・私流」は、10月20日午後6時半より東京・赤坂の豊川稲荷別院にて行います。