コンピューターソフトが将棋のプロ棋士に勝った時にも思いましたが、最近、ソフトに東大を受験させるプロジェクトがあり、すでにいくつかの大学入試に合格するレベルに達していることを知って、妄想発火。
ということは、少なくともある意味で、このソフトが完成すれば、それは人間の「平均」以上の知的能力を持っていることになります。東大生以上で、プロ棋士並みの頭脳を持つ人間を「平均」と言える人はまずいないでしょう。
ならば、この「IT知力」は、近い将来、人間の知的能力をほぼ全面的に代替する可能性があります。
産業革命の時代にも、機械が人間の労働を代替することから、いわゆる「打ちこわし」運動(「ラッダイト」運動)が起こったりしました。
しかし、そのときは、機械を使用したり制御する「知的」労働を人間の担当とするか、機械による生産と無縁の「創造的」生産を人間が行うことで、労働現場を機械と人間が棲み分けたのです。
ところが、今回のIT革命は、機械が人間の「知的」労働を全面的に浸食する可能性があるのです。
コンピューターによる機械制御は今や日常であり、人間よりよほど正確で緻密です。入試プロジェクトの将来やプロ棋士打倒の未来には、人間が行うマニュアル化可能な事務労働の、ほとんど全部の代替がありうるでしょう。
では、人間固有と思われる「文化・芸術」創造の能力はどうか。これこそコンピューターには決して代替できないと言えるか。
私は怪しいと思います。テレビドラマや映画で、似たようなパターンのストーリーが繰り返し現れ、そこそこウケていることを思うと、過去の膨大なストーリーのパターンを片っ端から分析し、そこに様々な新しい情報や条件を加えながら組み換え・編集することは、簡単でないにしろ、不可能とは思えません(「学習能力」を持つソフトは現存します)。
すべての文化・芸術に「伝統」が存在するなら、その創造力の根幹に「情報収集と編集能力」があるのは間違いありません。
とすれば、もしソフトがドラマの「創造」をできたなら、基本的にどの「芸術」分野でもできるでしょう。要はソフトの性能の問題で、人間とソフトの間に能力の原理的な断絶はないのではないでしょうか(断絶はむしろ、創造「能力」ではなく、創造「欲求」の方にあるでしょう。いや、「欲求」もプログラムできるか)。
さらに、人間のコミュニケーションに関わる労働はどうか?
人間は人間ではないものとのコミュニケーションに満足を覚え、それを欲望すること(つまり、「ペット」の存在)を考えれば、コンピューターも同じ位置(「アンドロイド」など)に立ちうるでしょう。
よしんば、ソフトに不可能な創造力やコミュニケーション能力があったとしても、そのソフトを凌駕する能力を持つ人間は、圧倒的に少数でしょう。
となると、私が思うに、この事態の最大の問題は、大量失業の時代がやってくる、などということではありません。そうではなく、「労働」が人間のアイデンティティーを規定してきた時代が終わる、ということなのです。
近代以降の市場社会における「労働」の意味は、働く当人ではない、「他人が必要なもの」を提供することです。そして、「他人が必要なものを提供できる」ことにおいて、働く当人は何者であるかを決められ、他者から認知されるわけです(「いい若い者」が「無職」だったりするとき、本人や周囲が不安を感じるのは、そのせいです。彼がたとえ大金持ちでも)。
このとき、人間に「必要なもの」のすべてか、あるいはほぼすべてを「間」が生産・提供できるということになると、ほとんどの人間の行うことは、ただ「消費」したり、ただ「享楽」するだけか、そうでなければ、何もしないか、できない、ということになります。
「何もしない、できない」人間は無論のこと、ただ「消費」する人間や、ただ「享楽」する人間も、市場社会においては、要するに「必要」のない人間です(ただ「消費」する人間を「必要」とするのは、「生産」する人間のみです)。すると、「必要ない」人間が「存在する」意味を、我々は改めて規定しなければなりません。しかし、「必要ない意味」などどうやって考えるのでしょう。
人間が「必要」として作った物が、人間を「必要」ではなくしたとき、何が起き、どうすればよいのか。
これは「機械が人間を必要としなくなった」という意味ではありません。そうではなくて、そもそも「人間が必要なのは、別の人間がそう思っている限りにすぎない」という、当たり前な事実を露わにすることなのです。
このことに改めて気づいたとき、我々は何を倫理の根拠とすべきなのでしょうか? 「必要」を超える「価値」(あるいは「幻想」)は何なのでしょうか?