恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

寒中妄想

2014年01月30日 | インポート

 コンピューターソフトが将棋のプロ棋士に勝った時にも思いましたが、最近、ソフトに東大を受験させるプロジェクトがあり、すでにいくつかの大学入試に合格するレベルに達していることを知って、妄想発火。

 ということは、少なくともある意味で、このソフトが完成すれば、それは人間の「平均」以上の知的能力を持っていることになります。東大生以上で、プロ棋士並みの頭脳を持つ人間を「平均」と言える人はまずいないでしょう。

 ならば、この「IT知力」は、近い将来、人間の知的能力をほぼ全面的に代替する可能性があります。

 産業革命の時代にも、機械が人間の労働を代替することから、いわゆる「打ちこわし」運動(「ラッダイト」運動)が起こったりしました。

 しかし、そのときは、機械を使用したり制御する「知的」労働を人間の担当とするか、機械による生産と無縁の「創造的」生産を人間が行うことで、労働現場を機械と人間が棲み分けたのです。

 ところが、今回のIT革命は、機械が人間の「知的」労働を全面的に浸食する可能性があるのです。

 コンピューターによる機械制御は今や日常であり、人間よりよほど正確で緻密です。入試プロジェクトの将来やプロ棋士打倒の未来には、人間が行うマニュアル化可能な事務労働の、ほとんど全部の代替がありうるでしょう。

 では、人間固有と思われる「文化・芸術」創造の能力はどうか。これこそコンピューターには決して代替できないと言えるか。

 私は怪しいと思います。テレビドラマや映画で、似たようなパターンのストーリーが繰り返し現れ、そこそこウケていることを思うと、過去の膨大なストーリーのパターンを片っ端から分析し、そこに様々な新しい情報や条件を加えながら組み換え・編集することは、簡単でないにしろ、不可能とは思えません(「学習能力」を持つソフトは現存します)。

 すべての文化・芸術に「伝統」が存在するなら、その創造力の根幹に「情報収集と編集能力」があるのは間違いありません。

 とすれば、もしソフトがドラマの「創造」をできたなら、基本的にどの「芸術」分野でもできるでしょう。要はソフトの性能の問題で、人間とソフトの間に能力の原理的な断絶はないのではないでしょうか(断絶はむしろ、創造「能力」ではなく、創造「欲求」の方にあるでしょう。いや、「欲求」もプログラムできるか)。

 さらに、人間のコミュニケーションに関わる労働はどうか?

 人間は人間ではないものとのコミュニケーションに満足を覚え、それを欲望すること(つまり、「ペット」の存在)を考えれば、コンピューターも同じ位置(「アンドロイド」など)に立ちうるでしょう。

 よしんば、ソフトに不可能な創造力やコミュニケーション能力があったとしても、そのソフトを凌駕する能力を持つ人間は、圧倒的に少数でしょう。

 となると、私が思うに、この事態の最大の問題は、大量失業の時代がやってくる、などということではありません。そうではなく、「労働」が人間のアイデンティティーを規定してきた時代が終わる、ということなのです。

 近代以降の市場社会における「労働」の意味は、働く当人ではない、「他人が必要なもの」を提供することです。そして、「他人が必要なものを提供できる」ことにおいて、働く当人は何者であるかを決められ、他者から認知されるわけです(「いい若い者」が「無職」だったりするとき、本人や周囲が不安を感じるのは、そのせいです。彼がたとえ大金持ちでも)。

 このとき、人間に「必要なもの」のすべてか、あるいはほぼすべてを「間」が生産・提供できるということになると、ほとんどの人間の行うことは、ただ「消費」したり、ただ「享楽」するだけか、そうでなければ、何もしないか、できない、ということになります。

 「何もしない、できない」人間は無論のこと、ただ「消費」する人間や、ただ「享楽」する人間も、市場社会においては、要するに「必要」のない人間です(ただ「消費」する人間を「必要」とするのは、「生産」する人間のみです)。すると、「必要ない」人間が「存在する」意味を、我々は改めて規定しなければなりません。しかし、「必要ない意味」などどうやって考えるのでしょう。

 人間が「必要」として作った物が、人間を「必要」ではなくしたとき、何が起き、どうすればよいのか。

   これは「機械が人間を必要としなくなった」という意味ではありません。そうではなくて、そもそも「人間が必要なのは、別の人間がそう思っている限りにすぎない」という、当たり前な事実を露わにすることなのです。

 このことに改めて気づいたとき、我々は何を倫理の根拠とすべきなのでしょうか? 「必要」を超える「価値」(あるいは「幻想」)は何なのでしょうか? 


集まってすること

2014年01月20日 | インポート

 およそ集団や共同体があるところ、規模の大小、回数の多寡はともかく、必ず儀礼や式典が存在します。それらがまったく存在しない集団があるとするなら、その集団は著しく強度が低く、たまたま同じ場所に複数の人間が居合わせた程度の求心力しかないでしょう。

 儀礼や式典を行う根本的な意義は二つです。ひとつは、集団や共同体を構成する根拠となる価値や理念の共有を、メンバーが身体化して確認すること。もう一つは、集団における人間関係の秩序(儀礼や式典の配役が集団役職の序列を反映しているのは当然)を可視化して、これまた身体化して確認すること、です。

 身体化や確認は、価値や理念を考えることや検討することではありません。その存在はそのまま肯定され、受容されていることが前提です。

 ところで、集団や共同体は一度できてしまうと、その内外に利害関係が生じ、全体としてメンバーに利益がもたらされるなら、集団それ自体にはいつまでも存続しようとするダイナミズムが働きます。

 しかしながら、集団の根拠となる価値や理念は、時代や社会の状況との関係において、常に問い直されない限り、リアリティを失っていきます。

 このとき、集団がそのような問い直しの努力を怠ると、価値や理念は儀礼・式典において抽象的に担保されるだけになってしまいます。

 かくして、集団がこれまでどおりの利益をメンバーに配分し続けようとするならば、集団の根拠を問い直すようなことは危険な行為です。そうではなくて、儀礼や式典を巨大化したり複雑化して、価値や理念の身体化や確認の強度を上げる方が、適当なやり方でしょう。

 したがって、儀礼や式典の挙行に膨大なエネルギーを繰り返し注ぎ込む集団は、表面的な勢力の誇示にもかかわらず、すでに存在根拠が曖昧になり、価値や理念が形骸化して、メンバーの帰属意識や組織活動も惰性化してる場合が多いことになります(独裁国家や大型宗教団体にありがちな事例)。

 ということは、集団における価値や理念の問い直しという作業は、結果的に儀礼の再検討にまで至らざるを得ず、儀礼の構造的な変更は、それ自体が集団の存在根拠の問い直しとなります。

 このような価値・理念と儀礼・式典の緊張関係が、集団・共同体がリアルに存在し続けることの重要な条件といえるでしょう。

 現在の葬送儀礼をめぐる問題は、単に「経済問題」ではなく、まさに「宗教団体」と「家族」の価値と理念を問う問題なのです。


頭を「空」っぽに

2014年01月10日 | インポート

「あなたは、仏教の思想は、根本的に言語の問題だと言ってますが、どういうことですか」

「私は、仏教においては『「空』という考え方が、もっともオリジナルでユニークだと考えています。その場合、『空』とは、

一、存在するすべてのものには、それがそのようにあるいかなる根拠もないこと、つまり、そのものがそのままであり続けること(同一性)を保証するもの、すなわち『実体』とか『本質』と呼ばれるようなものを想定しないことであり、

二、にもかかわらず我々が『存在する』と言表できるのは、『存在している』とされるものが、その ものではないものとの関係において成立していて、その関係性が暫時維持されて いる(縁起)からだ、

 と考えることです。

 たとえば、『机』は、机そのものに『机』である根拠が『本質』として内在しているのではなく、我々が『机』として使うという関係性が、そのものを『机』にしているにすぎません。

 にもかかわらず、この関係性を言語によって『机』と命名し、以後、常にその物体に『机』としてしか関係しなければ、関係は『意味』として固定し、むしろ物体に内在する『本質』のように思われるでしょう。つまり、言語は、非実体的で関係性によって構成される存在を、そのもの自体で存在する『実体』と錯視させるのです(私の『無明』の定義)」

「では、いわゆる『アビダルマ』思想の考え方は認めないのですね」

「俗に言われる要素分割主義的な『空』の考え方は採用しません。『アビダルマ』的存在論も結局は同じことです。

 自動車は部品でできていて、自動車としての『実体』は無い、という言い方をしても、では『部品』はどうか、となります。部品はさらなる部品、その部品は原材料、原材料は分子、分子は原子・・・・、最後はクォーク、などと、いつまで言っても結局は同じです。なぜなら、ことは結局、そのような分割の仕方、ものの考え方、つまり言語の使い方の正しさを保証する根拠はあるのか、という話になるからです(ある上座部の和尚さんから、アビダルマについて『あれほど考え抜かれた思想が他にありますか』と言われましたが、いくら考えてもその考え方それ自体に根拠があるわけではありません)。

 人間の思考、言語の作用・機能が(思考や作用の)対象と完全に一致するといういかなる根拠も保証もありません。なぜなら、その根拠と保証も考えて言葉で表現するしかないからです。この視点をもって、私は「空」という考え方の核心が、言語機能の相対化と批判にあると思うわけです。そして、これが竜樹の『中論』から私が学んだことなのです」

「あなたが『真理』を認めないのもそのためですね」

「そうです。人間が『考える』行為と別に『真理』などありませんし、あっても無意味です(考えられないから)。だとすると、人間の思考に無条件的な絶対性や普遍性など想定のしようもありませんから、人の口から出る『真理』などは、ファンタジーとして聞いておくしかありません」

「ほおお・・・」

「最近、『これ以上短いものは無い、最短の時間を発見した』という学者の話を聞きましたが、笑ってしまいました」

「どうして?」

「だって『短い』とい言葉は、比較においてしか意味を持たないのですから、何かを『短い』と言えるなら、それより『短い』ものがあるに決まっています。『最短の時間』とは、人間に理論的に考えることが可能で、計測できる限界において、『最短の時間と想定できる物理量がある』ということにすぎません」

「なるほど」

「だいたい、そんなことを言い出すのは、直線か円環かしりませんが、線状に均質に『流れる』、時計がイメージさせるような時間が、それ自体として存在すると考えるからです。その微分の果てに出る物理量を『最短』と考えるのでしょう。これは時間認識の一例にすぎず、『本質』でも『実体』でもありません。イヤなことは長く感じ、楽しいことはアッという間に過ぎる体験も、まちがいなく時間です」

「時間そのものは無いと?」

「無いとは断言できませんが(無いと証明する方法が無い)、あると断定するのは間違いです。だって、一秒でも一時間でも、それ自体として認識できますか? できるのは現象の変化や推移の観測から割り出される数字だけですよ」

「考えること自体から離れてみないといけないわけですね」

「非常にむずかしいですが、それを必須条件として要求するのが仏教です」