恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

近頃会ったひと

2012年09月30日 | インポート

 ここ一週間で、青森、東京、新潟と移動しました。やりくりの事情があったとはいえ、もう少し落ち着かないといけないと反省しています。

 青森は恐山で、宗教学者で文筆家の島田裕巳氏と雑誌の対談をしました。ビジネスマンによく読まれる雑誌で、編集者から示されたテーマもそれらしいものでしたが、私は島田氏本人に関心があったものですから、好きなようにしゃべっていたら、島田氏もそのテーマをほとんど意に介さず、結果的にいささかディープな、私としては勉強になり、また大変面白い対談となりました。

 その中で島田氏が、明治以後現在までの日本人の仏教理解は、西欧近代の学問体系を思考の枠組みとして潜在させており、したがってそれは、結果的に一神教的思考に浸透されている、という趣旨のお話をされました。

 実にもっともな指摘で、私もかねてからそう思っていましたが、「一神教的思考」を「形而上学的理念」ととれば、すでに密教や浄土教に、そういう理念を設定する思考様式が用いられていて、今に至るまで、強力な作用を我々の仏教観や仏教理解に及ぼしているとも、言えるでしょう。

 さらに氏は、そのような明治以降の仏教観が、現在の企業経営に深く影響していることを指摘されていました。非常に興味深い見解で、これについては近々にご著書が出るようです。

 それにしても、一ヶ月余りで一作の自筆著書(氏は口述をしないそうです)を出されるペースだそうで、氏は「修行しました」と笑っておられましたが、とても私などに真似できるワザではありません。

 新潟の長岡では、お坊さんの研修会で講演するように呼ばれ、もう一人の講演者、小池龍之介氏にお目にかかりました。

 私が出かける前に某所で、新潟で小池さんと一緒に講演し、パネルディスカッションみたいなことをすると言ったら、一般の人でも参加できますか、それは本になりますか、ウェブで公開しますか、と立て続けに問い詰められました。

 あいにくそれらの予定のない講演でしたが、氏の人気と影響力の大きさを改めて感じました。ご本人は、会ってみれば誰でも深い印象を得るような、聡明で穏やかな、とれも涼やかな方でした。私のようなエキセントリックな者とは大違いです。

 講演も、方や「平常心のレッスン ー 幸福と不幸のカラクリ」、方や「いま信仰は可能か - 無常を生きる意志」などと、互いにいかにも、という感じ。しかも語り口調が、氏は抑揚のあまりない静かな淡々としたもの、対して私は例の「あいつは落研出身か?」ですから、実に好対照だったと思います。

 しかし、私にとって一番面白かったのは、実は控え室の雑談で、氏も、「ここでの話をそのまま聞いてもらったほうが、よいのではないでしょうか」と微笑んでいました。

 いろいろ興味深い話をしましたが、中で感銘を受けたことを二つ。

 一つは、氏の行う瞑想修行で、これは初期仏教の経典や論書をベースに、他の坐禅法などにも学び、実践経験を積み重ねて検証しつつ、独自に完成させた方法で、特に師匠がいないのだそうです。我々が言うところの「坐禅工夫」そのもので、行の深さと奥行きに敬意を覚えました。

 もう一つは、話の中で出たこの言葉(完全に正確ではありません。あしからず)。

「私は特に大それたことを考えてやっているのではないのです。ただ、なんとか楽に、もっと落ち着いて生きていくにはどうしたらよいか、それだけなんです」

 ああ、なるほど、と思いました。この人はつくづく真っ当だなあ。ああいう透明度の高い本が書けるのも尤もだなあ。

 そして、思いました。やっぱり、僕とは道が違うなあ。僕は「楽」がイメージできないものなあ。「楽も苦の内」みたいに考えちゃうもんなあ。

 ひさしぶりに、会えてよかったと思えた人でした。

追記:次回「仏教・私流」は10月25日(木)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。


もう一回、短く

2012年09月20日 | インポート

第一:輪廻

「私」が輪廻するということは、いかにしても証明できない。昨日の自分と今日の自分が同一の「私」だということさえ、誰も証明できないのだから。

「私」ではないものが輪廻するというなら、そもそも、そんなアイデアを持ち出して論じる意味がない。

第二:本当の自分

「本当の自分」は認識できない。認識できたものを「本当の自分」だと証明する方法がない。

 認識できたと主張される「本当の自分」は、その認識のたびに、「認識する自分」に対して「嘘の自分」になる。

第三:神

「神は存在する」と言いえるならば、その神は人間と同じになる。人間が使用する「存在する」という言葉が、神に適用されうるなら、それは少なくとも、「絶対者」でも「超越者」でもない。

「神は存在する」と言いえないならば、それは人間が考える対象にならないから、無視してもかまわない。

第四:悟り

「悟り」は無意味である。それが語ることのできない「特殊経験」なら、他人に伝えることは不可能で、伝達不能な事柄は、端的に無価値である。

「悟り」がそれ自体言語化できるなら、要は「理解」の問題で、「悟り」などと言う表現は必要ない。

第五:真理

 宗教だろうと科学だろうと、およそ「真理」として語られるものは、それが一定の範囲と条件において合意された言説であるにもかかわらず、「絶対に正しい」と主張されてしまう「信仰」である。

「真理」が「信仰」でないならば、それは「錯誤」の一種である。

補足:

「これらがある」と主張する原動力は、我々の「存在根拠」に対する欲望である。およそ「欲望」は幻想を生み出す。

 欲望され、言語化され、共有される幻想は、そうされる限りにおいて、「現実」と呼ばれる。


「だって」と「さえ」

2012年09月10日 | インポート

 某日、中学生男子と雑談。

「和尚さんさあ、オレさあ、ちっちゃい頃さ、一発でおぼえて、一発で嫌いになった歌があんだよね」

「歌?」

「ほら、ぼくらはみんな生きている・・・って歌」

「ああ、それ、どこが嫌いなのか当てようか? ミミズだって、オケラだって・・・・ってトコだろ?」

「そう! それ、それ!」

「余計なお世話だよなあ」

「なに勝手に比較してんだよ」

「ヒトの、いやミミズの気も知らないで」

「和尚さん、ミミズに気があるかどうかもわかんないだろ」

「そりゃそうだな。あとね、そういう話なら、ぼくにも嫌いというか、非常に苦手なことがあってね」

「どんな?」

「あの、テレビで、難病の人とか、いろいろハンディキャップのある人が出てくる番組あるでしょ」

「嫌いなの?」

「うーん。番組が嫌いというよりも、それを見てる人が、勇気をもらったとか、励まされた、みたいなことを言うじゃん。あれがイヤなの」

「わかる。家でああいうのを見ていると、親から『こういう人たちだってこんなに頑張ってるんだから・・・』っつーよーなこと、言われたりするもん」

「あんまり自分の思い込みで、・・・ダッテとか・・・サエとかは言わないほうがいいと思うんだな」

「あの人たちに比べれば・・・みたいな?」

「そうそう。ぼく、前に一度、生まれつき身体に障害のある人に向かって、何も考えないまま『いろいろ大変でしょうねえ』って言ったら、『よくそう言われるんですが、生まれてからずっとこれ以外のカラダ知らないんで、どう大変なのかわからないんです』って・・・・。聞いて体中から汗でた」

「スゲェな、それ。でもさあ、和尚さんさ、よくわかんねえけど、和尚さんがオレみたいな感じでいいのか?」

「どうかねえ。ただ、そもそもこういう感じだから、坊さんになっちまったのかもしれないね」