恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

年末の妄想 2011

2011年12月30日 | インポート

「永遠の命」などというもの与えられても、人間は持て余すだけだろう。最後は「地獄の苦しみ」と変わらない。

「永遠」は人間からすべての「意味」と「価値」を消去する。そこに剥き出しの時間が露出する。痺れるような、染みこむような、流れることのない、体液になった退屈。

「永遠」に耐えられるのは人間ではない。時間を持たぬ神であり、瞬間しか持たぬ虫である。

 ならば、「永遠」を語る者よ。君が語っているのは、死の横顔にすぎない。

・・・・・ この寒さというのに、部屋の隅をアリが一匹、歩いていました。それを見ていてとりとめなく想ったこと。

 今年も一年、当ブログを読んでいただき、ありがとうございました。


無いほうがまし

2011年12月20日 | インポート

 久しぶりに、思いつき禅問答シリーズ。

 禅問答の中には、たとえば「仏とは何か」「仏教の根本的な教えとは何か」「仏を超越する真理とは何か」という質問に、「それは庭先の柏の木だ」「麻が三斤(約1.8キログラム)だ」「胡麻餅だ」などと答えるものがあります。

 この問答の意味としてよく出てくる解説は、仏だの教えだの真理だのと言っても、何も特別なものがあるわけではない、目の前に存在するものすべてに、それらがありのままに現れているのだ、などという安直な代物です。

 例によって、私はそうは考えません。そもそも、人間は、ある対象を「ありのまま」に見ることは出来ません。常に一定の見方、認識方法で見るのであって、それ以外に見ようがなく、その見方や方法に相関する一面が見えるに過ぎません。

 柏の木だ、麻だ、餅だなどと答えるのは、そのありのままが仏なのだ、などということではないのです。

 それは、そこにあるそのものの存在の仕方を問えという、挑発なのです。その問いを繰り返し問う中で、その根源的な問いの方法として、仏法を自覚せよ、ということなのです。

「仏を超越する真理とは何か」と問われて、「胡麻餅だ」と答えた禅師に、こういう話があります。

 禅師が弟子たちに語りかけます。

「人々は皆、ことごとく光り輝いている。ところが、それは見ようとすると見えない。真っ暗闇だ。だとすれば、人々の輝きとは、いったい何だ?」

 弟子たちが黙っていると、禅師が言いました。

「台所と寺の門だよ」

 ここまで読むと、これまでのステレオタイプな解釈と同じに聞こえます。人々の輝きとは、もともと人間誰もが内在させている仏としての本質、つまり仏性のことである。ただし、仏性そのものを何か特別な実体あるものとして考えてはならない。そう考える限りはわからない。つまり真っ暗だ。その輝きとは、ほかでもない、すぐそこの、台所や門のありのままの姿なのだ。万物はそれ自体、仏性の現われだ、云々・・・。

 ところが、禅師は、この退屈極まりない解釈を見事に裏切ります。「台所と寺の門だよ」と言ったとたんに、こう言うのです。

「そういううまい話は無いほうがましだな」

 要するに、何かわかったような答えを出した時点で、話はもう仏教ではなくなる、というわけです。自らの問いは何なのか、それをどういう方法で問うのか、そこから出てきた答えの有効範囲と賞味期限をどう設定するのか。それが「無常」の自覚の上でものを言う立場の智慧というものでしょう。


師走の「偏見」

2011年12月10日 | インポート

 この種のことは、あまり当ブログに書きたくないのですが、あえてひと言。

 福島の原発事故が収束もせず、きちんと原因の検証もされないうちから、原発輸出や再稼動が話題に出ていますが、私はやめた方がよいと思います。

 その最大の理由は、原発の安全担保は不可能だと思うからです。

 いくら安全装置やシステムを「テスト」しようと、そのテスト項目や方法は人間が決めます。しかも、その「テスト」は「客観的」である必要上、数値化できるものに限られるでしょう。ということは、「テスト」を実施する当の人間の「質」は勘定に入らないわけです。

 ところが、とんでもなく危険で、恐ろしく複雑な原発プラントの、安全維持を含む管理・運営をする組織は、人間の集団です。

 この集団が十分に機能するには、安全装置やシステム自体もさることながら、不可欠の前提として、それを運用する組織内において、トップから現場までの意思疎通に障害がなく、さらに組織の内外に対して「正直」でなければならないでしょう。

 このことは、どのような組織にも必要なことでしょうが(オリンパスや大王製紙の例)、原発ほど事故が重大な事態を惹起するものの場合は、最高度に必要な条件だと思います。

 今回、原発に関わる政・官・財・学、さらにはメディアの各組織は、この条件を満たしていないことが明らかになりました。そして、将来も決して満たすことはありません。なぜなら、人間は「正直」のような倫理を持ち得ますが、組織自体が倫理を持つことはないからです。

 だとすれば、個人の役割が相対的に大きい小規模集団であれば、個人の倫理意識が比較的強く反映して、結果的にその組織が倫理的に振舞うこともありえるでしょうが、組織が大きくなれば、それに比例して、倫理的に振舞うことは著しく困難になります。原発ほどの規模になれば、もうそれは不可能でしょう。

 したがって、個々の人物はともかく、およそ組織に関しては、我々は原則「性悪説」をとるべきです。どれほど「厳しいテスト」をしても、何重の安全装置を施しても、原発の安全はけっして担保できません。

 ならば、人の口から出る「安全」など当てにせず、けっしてゼロにならない事故のリスクを評価した上で、誰に対するどの程度の被害なら許容するのかを明確にして、今後のことを進めるべきです。けだし、原発の事故は、もはやその許容限度をこえる厄災です。

 さらにまた、たとえば「事故は1000年に1回です」というような確率論的もの言いも、私に言わせれば、ただの詭弁に過ぎません。事故の実際の確率は、50パーセントです。起きるか、起きないか、それだけです。今日か、明日には起きるかもしれない。それが毎日続くのです。起きれば災難は甚大です。

 それは合理的な考えではない、という人がいるかもしれません。が、合理的な考えが正しいという保証は、まったくありません。「合理性」を保証する条件そのものが、無条件に正しいことはあり得ないからです。

 原発が増えれば、桁外れの大災害の危険は大きくなり、減れば小さくなる。そう考える方が、私はよいと思います。 

 電力が足りないと脅迫されるなら(その根拠は曖昧です)、総使用量を国内の合意をはかって制度的に低減し、足りるようにしたらよいのです(個人の心がけに期待すべきではありません)。そうしてさらに、原発につぎ込んできた税金を、一度、代替エネルギー開発と電力供給体制の再編成に集中的に注ぎ込んでみるべきでしょう。

 以上、「偏見」です。