春秋社という出版社が企画した『現代語訳道元禅師全集』の完結・刊行にちなみ、この社の雑誌(『春秋』2013年2・3月合併号)に依頼されて、小文を載せました。
私が『眼蔵』をテーマに書くのは久しぶりで、一部で関心を呼んだこともあり、以下に転載してみます。実は、この雑誌には作家の高村薫氏も文章を出していて、ある読者から、「二人で平仄合い過ぎ」と言われてしまいました。
◆ ◆ ◆
いわゆる「悟り」とか「見性」とかいうものが、まったく言語化できない特殊な経験なら(だったら、禅問答など無かったろう)、他人に伝達することが不可能だろうから、それ自体無意味である。本人たった一人にしかわからないことは、妄想と区別できない。
反対に、もし「悟り」が十分言語化できるなら(だったら、禅問答は無駄だろう)、それは説明されたことを「理解」なり「解釈」なりすればよいわけで、「悟り」などという、いわくありげな言い方は必要ない。
すなわち、言語化できないと言っても、できると言っても、「悟り」はナンセンスにしかならないのである。
ということは、「悟り」と呼ばれる何らかの事実、経験があるとするなら、それを「悟り」と認識して伝達するには、どうしたらよいのかが問題になるだろう。
私に言わせれば、「悟り」などという名詞が、そもそも不適切で、この名詞こそが、そう名づけられる特異な何かを想定させる。が、これは元はと言えば「悟る」という他動詞で、他動詞なら目的語があるだろう。そこに一度考えを戻せば、「悟る」の目的語は、当然「仏教」とか「仏法」とかになるはずだ。
では、「仏教」や「仏法」の」核心は何か。
それは「無常」「無我」「縁起」「空」などのタームで言われることだと、私は考える。
そうだとするなら、「悟り」はそういう事柄を「悟る」ことだから、問題は「無常」「無我」「縁起」「空」と言われる状況を、どう認識し伝達するのか、ということになるだろう。
道元禅師は『正法眼蔵』の「大悟」の巻で、ある禅問答を提示して、この問題を取り扱っている。
京兆米胡という和尚が使者を立てて、仰山慧寂和尚に質問した。
「今時の人もまた、悟りということを仮に言ったりしているのですか(今時の人、還た悟を仮るや否や)」
仰山慧寂は答えて言った。
「悟りはないわけではない。ただ、悟りと言ってしまえば、その言おうとする当のものからズレてしまうな(悟は即ち無きにあらず、第二頭に落つることを争奈何せん)」
還ってきた使者から答えを聞いた京兆米胡は、その答えを深く納得した(僧廻りて米胡に挙似す。胡、深く之を肯せり)。
この問答を解説して、禅師はまずこう言う。
「いはくの今時は、人々の而今なり。令我念過去未来現在(我をして過去未来現在を念わしむること)いく千万なりとも、今時なり、而今なり。人々の分上は、かならず今時なり。あるいは眼晴を今時とせるあり、あるいは鼻孔を今時とせるあり」
「今時」とは、我々が通常持っている過去・現在・未来という時間意識に規定された「今」ではなく、「而今」のことだと禅師は言う。「而今」とは、私に言わせれば、坐禅が開くような、自意識が融解し、言語秩序が脱落した、縁起的存在状況=「空」の直接経験を指す。
「今時」を「眼精」「鼻孔」とか言うのは、そのためである。これらの語は、「本来の面目」などという禅語同様、存在するものの存在性(縁起という存在の仕方)を意味する。
したがって、この存在状況は、それ自体として言語化したり概念化できない。だから、禅師はそれを「悟り」と称して概念化することを排斥する。
「近日大宋国禿子等いはく、悟道是本期〈悟道是れ本期なり〉。かくのごとくいひていたづらに待悟す」
ここで「待悟」、「悟りを待つ」というからには、「悟り」は待つ対象であろう。人は正体不明のものを待つことはできないから、待つ以上、それは理解可能な何か、すなわち言語化可能なもの、ということになる。となれば、もはやそれは「空」の「悟り」ではない。
問答で「還假悟否」と言われているのは、そのためである。禅師の解釈にとっては、これは疑問文ではない。この言い方でしか、「悟り」には言及できないという意味なのだ。
言語化不可能だからと言って、何も言わないわけにはいかない。伝達不能な事柄は即ナンセンスだからである。したがって曰く、
「さとりなしといはず、ありといはず、きたるといはず、『仮るや否や』といふ。『今時人のさとりはいかにして悟れるぞ』と道取せんがごとし」
このとき、言うとすれば「還假悟否」、「とりあえず仮に悟りと言うのかどうか」と言う。これは、「悟り」について、いかなる結論も出さず保留しようとする態度である。
だから、この言い方では、「今時人」(=「而今」にある人)はいったいどうやったら悟れるのか、という問いを解消できない。さらに言うなら、「かるやいなや」とは、この場合そのまま「どうやったら悟れるのか」という問いと同じ意味になるのだ。
ならば、「空」なる存在状況を「悟り」と言い切り、それを説明することは、いかにしてもできないことになる。どう説明しても問いが残る。そのあたりの事情を、禅師は言う。
「たとへばさとりをうといはば、ひごろはなかりつるかとおぼゆ。さとりきたれりといはば、ひごろはそのさとり、いづれのところにありけるぞとおぼゆ。さとりになれりといはば、さとり、はじめありとおぼゆ」
「空」を言語化し、概念化すると、こうなる。それこそナンセンスだろう。だから、結局、
「さとりのありやうをいふときに、さとりをかるやとはいふなり」
こう言うしかないのである。
ということは、言葉で「悟り」を持ち出すなら、「悟る」はずの「縁起」「空」から必ずズレる。常に「どうやったら悟れるか」の問いが解消しきれないまま残る。この事態を「第二頭に落つる」という。
しかし、言語化して「第二頭」に落ちる以外には、我々には「悟り」ようがない。「悟り」としての意味の発生しようがない。とすれば、「第二頭」でしかないことを承知の上で、言い続けるしかない。
言語化し切れないことを、言語化し続け、常に失敗して「第二頭」に落ち続ける。言いえないことを、言いえないこととして言うためには、言い間違い・問い続ける以外に方法がない。この徒労に等しい言語の運動に耐えることが「悟り」だと、禅師は言うのである。
「第二頭へおつるぞいかにかすべきといひつれば、第二頭もさとりなりといふなり」
すなわち、言語化された悟りが「仮の悟り」だというなら、我々には、それ以外に「悟り」はない。意味あるものとして受け取れない。だから、
「第二頭といふは、さとりになりぬるといひや、さとりをうといひや、さとりきたれりといはんがごとし。なりぬといふも、きたれりといふも、さとりなりといふなり。しかあれば、第二頭におつることをいたみながら、第二頭をなからしむるがごとし」
もはや、我々には「仮の悟り」しか手に入らないとするなら、それを「悟り」として通用させる以外になく、だったらそれを敢えて「第二頭」などと言う必要もない。
言語化された「悟り」は、どこまでも「仮」「第二頭」である。とすれば、この「仮」は、無限に連鎖する。重要なのは、「本物の悟り」があって、それを模る「仮の悟り」があるのではない、ということである。禅師は言う。
「さとりのなれらん第二頭は、またまことの第二頭なりともおぼゆ。しかあれば、たとひ第二頭なりとも、たとひ百千頭なりとも、さとりなるべし。第二頭あれば、これよりかみに第一頭のあるをのこせるにはあらぬなり」
我々は、「仮の悟り」を理解可能な「まこと」として扱う以外にない。それと別に「第一頭」の「悟り」を得ることはできない。「第二頭」以外の「悟り」は、「無い」のである。
この際限ない言語運動としての「悟り」はちょうど、「本当の自分」が幻想であり、「仮設された私」を更新しながら生きる以外にない、我々の存在の仕方と相同である。
「たとへば、昨日のわれをわれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。而今のさとり、昨日にあらずといはず、いまはじめたるにあらず、かくのごとく参取するなり。しかあれば、大悟頭黒なり、大悟頭白なり」
昨日と今日の自分を比較して、どちらが本物かなどと言ってもナンセンスだろう。同様に、「而今」、つまり縁起の「さとり」は、それ自体が「本物のさとり」として過去にあったり、今出てきたりするような代物ではない。
「縁起=空を悟る」ことを「大悟」と呼ぶなら、それは昨日の「悟り」(「頭黒」)を今日は更新(「頭白」)する行為なのであり、『正法眼蔵』自体がまさに、そのような無限の言語運動を構造として持つのである。
追記:次回「仏教・私流」は5月31日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。